最後に宝物が残ったら
山田五郎さんのYouTubeチャンネルを定期的に見ている。
先日、画家である岸田劉生の後半がアップされていた。
娘である麗子さんも画家になったそうで、この動画後半で麗子さんが描いた絵の中の一枚が、自分の子供時代の父親との幸せな時を表したものではないかという解説があった。そして、面白いことにその絵は当時撮った写真から描いたもののようだ、と。
写真は創作(芸術)なのか、記録なのか。絵の方が上だ、いやそんなことはない、といったような諸々の議論は昔からあるように思う。
個人的には写真の基本要素は記録だと思っている。
もちろんデジタルやAI、レタッチ機能の向上などから、写真の創作要素はより強くなってはいると思うし、逆に絵にしても、まるで写真のような、といった絵を描くこともあるだろう。
とすると、写真なのか絵なのか、デジタルか、アナログか。そういったことも含め、大きく考えると手法や道具を人が好みで選択しているだけのようにも思う。そして、根本的には表現(創作)したい、それは何か残しておきたいという気持ちも含まれると思うが、そうした気持ちを自分が選択した好きな方法で体現しているのだろう。
そのようにして自分が作った"何か"を、後日自分がふと見返すことで、忘れていたその時の気持ちが豊かに復元されることがあると思う。人はそれを思い出と呼ぶのかもしない。
しかし、ある思い出がその人にとって心地良いか、または不快か。それは状況次第であって、一律に決められるようなものではない。本人ですら、予想はできても、確実なことは心の中に復元されるその瞬間までわからないだろう。
そんな不確実なものであっても、人生の終わりに残るものは恐らく思い出だろう。だからこそ、その思い出がとても幸福な気持ちになれるものだとすれば、その人にとって宝物になるのではないかと思う。
そして、写真にしても絵にしても、表現された"何か"は思い出を思い起こす助けとなる力を持っているように思う。それは凄い力だと思うし、そうであればそれらもまた現実に見ることができる宝物になるだろう。
そんな宝物が自分も最後に残ってくれたら。
幸運な人生だったなと思えるのかもしれない。
ふと、そんな気がした。
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