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【女と別れることに、号泣する準備は必要なのか。】〜江國香織 号泣する準備はできていた〜

イメージと大きくかけ離れていることが分かったので、私は彼女と別れることにした。

「別れてください。」
私は穏やかに告げた。六畳半の空間を流れる空気がみるみるうちに硬くなっていく。まんまるに見開いた彼女の目がうるうると歪む。
「唐突でごめんね。でも絶対に俺たちは上手くいかないから。」
丁寧に言葉を選びながら、半歩下がって彼女と少し距離を取る。
「いやだよ。やだ。別れたくないよ。」
「そうは言っても無理なんだ。」
彼女は私のシャツをぎゅっと掴んだ。絞り出すような声が耳を突く。この人、私が別れを切り出した理由が分かっているのだな。小さな手の感触が冷えた胸に侵食し、神経を逆なでする。
「もっとちゃんとするから。お願いだから別れないで。」
大きな瞳からボタボタと涙が零れ落ち、シャツの袖に丸い染みを作った。二つ三つと増えていく、不明瞭な染み。

これは反射的に流れ出ている涙なのか。
もしくは予め号泣する準備をしていたのだろうか。
真面目と潔癖で有名な彼女の涙は本当にこの色なのか。
シャツが濡れていく様子を呆然と眺めながら思う。こんなの判別できるわけがない。そう。判別できないから嫌なのだ、恐いのだ。顔面をぐしゃぐしゃにして哀願する姿の裏に、行きずりの男にほいほいついていく夜の影が見える。
違うの、なにもしてないの。
ほんとになにもしてないの。
一生懸命に説明すればするほど、スカートから覗く白い太ももは艶めかしさを増していく。しかしそれは、私が渇望していたものではない。彼女に欲情する姿など、もう見せることはないのだろう。しゃきっと背筋を伸ばしてヒールを鳴らし、颯爽とタイルの上を歩く彼女は、私の前からすでに消えてしまっているのだから。

「嫌いになったとかそういうんじゃなくて。ただイメージと違っただけなんだよ。」

何重にも空気を重ねて私は本音を隠す。この台詞を漏らさないことに意識を集中させる。腕にしがみついて泣きじゃくる彼女に、無言でティッシュ箱を手渡した。彼女はティッシュを二枚ほど引き抜くと、真っ赤になった目を覆い、鼻の下をそっとぬぐった。私はその動作から目をそらした。もうこれ以上の感情は湧かせまいと、己に強く言い聞かせる。

「今までありがとう。いつまでも素敵に。」
振り返る濡れた瞳を拒絶して、私はそっとドアを開けた。消え入りそうな頼りない返事に少し戸惑う。
私も彼女と同様、泣いてみる方が楽なのだろうか。違和感に包まれた甘い思い出を過剰に美化して、感傷的になる方がよいのだろうか。彼女はじっと私の目を伺っている。私はうつむいたまま時間をやり過ごした。準備のできていない私には、涙を流すことなど不可能だったのだ。
ばたん、という音と共に玄関から光が消えた。私は完全に一人きりになった。広くなった部屋は清々しくもあったが、やり場のないふざけた罪悪感が身体をよぎり、私は思わず胸を閉じる。
辿りたい景色は、上書きされた思い出に霞んでしまってもう見えない。

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