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私が占い師になったワケ(闘病記①原因不明の病 発症)        

と言うタイトルでいつしか本を1冊は出したいと思ってから、いったいどれほどの歳月が過ぎたのだろうか。

今日はこれから山羊座の新月を迎えるので、予告通り、練習用に投稿していた占いの宣伝記事はいったん削除し、noteにはある日突然。

原因不明で右足の甲の骨が融け始め、ベーチェット病と名付けられるまでの経緯などについて書き綴っていきたいと思う。
なぜならばこの病気を患っていなかったら、私は占い師にはなっていなかったと思うからだ。

ちなみに今日は皮膚科と膠原病科(リウマチ内科)の受診日だったので、採血終了後、生物学的製剤を1本打って来たのだが、40年近くもの間、色々な病院へ通い続けていると、いったい何年にどんな治療をし、どんな薬を服用していたのか、と言うことがなかなか思い出せない。

特に小学生から高校生までの間の記憶は難しいもので、親に連れられて病院へ行っていたからなのだろうか。
それともあまりにも嫌な記憶が多過ぎて、長年の歳月をかけて嫌なことは忘れる努力をしてしまったからなのだろうか。

こどもの頃は自分自身で治療法を選ぶことができなかったので、もしかするとエピソードが少ないのかもしれない。

それでも私の記憶が正しければ確か原因不明の病が発症したのは、8歳の頃だった。

症状としては、急に右足の踝が腫れあがり、熱を持つようになったので、最初は誰もが皆「ただの捻挫」だと思っていた。
当時の私はラジオ体操さえ満足にできなかったので、体育の授業はすべて見学にし、湿布さえ貼っていれば治ると思っていた。

だがしかし、1週間経ってもその痛みは消えることがなく、1番最初に足を運んだのは、近所の接骨院だった。
こどもの頃は火を使ったお灸が苦手で行くたびに嫌な思いをした。

案の定、何度通っても良くはならず、整形外科へまわされた。
市内では結構有名な整形外科だったが、レントゲン写真を撮っても病名はわからず、何度通っても足を叩く検査をするだけだったので、次第に病院へ通うことが嫌になっていった。

そこで今度はもう少し大きな総合病院の整形外科へまわされる。

12歳の頃、東京の大学病院で有名な先生の診察を初めて受け、採血の結果、若年性リウマチの疑いがあると言われたが、リウマチ因子は陰性。
引っかからなかった。

そのため、この時の主治医に付けられた病名は「第一ケーラー」もしくは「第二ケーラー」だった。

いわゆる成長期に伴う痛みなので、大人になればすぐに治ると言われた。

病名が付くまでの私は体育の授業を見学するのも一苦労で学校の先生や同級生から「どうせ仮病だろう」と言われ暴言を吐かれることが多かった。

白血球の数値がこの頃から異常だったのかどうかはわからないが、整形外科の主治医からは、東京の病院で診ている小学生の男の子が私と同じような足をしており、白血病で亡くなったと言うことを聞かされた。

この頃はまだ白血病がどんな病気なのか、まったく知らなかったので「死」という恐怖もピンと来なかったが。
それからと言うもの初めて通う大学病院では、だいたい「白血病かもしれない」と言われることが多く、若い頃はまだ「生きたい」と言う気持ちが強かったからなのだろうか。

白血病=怖いと言う気持ちもあり、「白血病かもしれない」と言われるたびに恐怖心に襲われたが、今現在は「白血病になるかもしれない」と言われている薬を使っているので、この歳にもなると怖さはそれほど感じなくなった。

私は血管が細いので、採血をする際に困るのだが(大人になってからは手首の血管から採っている)、小学生の頃は見たこともないような大きな注射器で、昔は小さい針がなかったからなのか。

看護師さんたちが交代しながら、何度も何度も細い血管の私の手に針を刺しては失敗するので、今思えばこの頃からずっと私は採血が苦手である。

とにかく小学生の頃は、足の骨が融けて行く激痛を湿布と塗り薬だけで凌いでいなければならない状態だったので、本当に辛かった。
卒業文集に「そのうちきっと私は歩けなくなるだろう」と書いたら、「そんなネガティブなことを書くな」と担任の先生に怒られたことを今でもハッキリと覚えている。

皮肉にもこの年、私は「健康優良児」に選ばれ、学校で表彰された。

身長と体重のデータだけで健康優良児と決めた学校を私は恨んだが、今となっては憎しみは消えている。




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