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君は命を燃やすのか、守り抜くのか

毎日10個くらいのweb漫画を1日1話ずつ読んでいるのですが、最近LINE漫画で『岳』の期間限定公開が始まったので、好きで毎日読んでいる10漫画も『岳』の前座と成り代わっております。期間限定で。すけおです。
家にも全巻あるのに。

読んでいると、
登山をしたい。というワクワクを感じさせてくれると同時に、
山は怖い。絶対行きたくない。という恐怖も感じる
不思議な漫画です。

作者の石塚真一さんの次作『BLUE GIANT』も大好きですが、個人的には『岳』のほうが好きです。

僕の中では『宇宙兄弟』と並んで「自分の子供に勧めたい漫画ランキング」堂々のトップに君臨しています。この夢が実現するのはいつになるだろうか。
結婚、出産、子育て、の果てにやっと実現する目標。
で、実際、子供が読んでくれるかどうかはその時まで夢のまま。
そこまでの道のりも全部楽しみだ。

昨日は特に外に出る予定もなく日中家にいて、夜、少し気分転換がしたくなったので、夕飯を食べた後、外に散歩に出てついでにスーパーに買い物に行きました。
実は買い物がメインだけど。しっかりエコバッグと財布携えてたし。ドレッシング一本のための買い物をメインにしたくなかった。

サークルのユニフォームを着て、サークルの広告塔として一役買ってきました。5年目にして。まだ貢献中。新入生入ってくれるかな。

そして、外の空気を浴びたことで、何かのモチベーションが湧いてきて、帰宅後、筋トレを行い、余ったモチベーションポイントでお風呂に入り、その時まだ余分にMPが残っていたのでしょう。

あることを考え始めたらすらすらと思考が進み、noteに書く文章が最初から最後まで出来上がってしまいました。

もう忘れたけど。風呂出た時点で半分覚えてたかどうかくらいだし。体拭いたり着替えたりポージングしたりしてたらそりゃ忘れるわ。

なんとなく覚えている大題から絞りながら、記憶汁を絞り出していこうと思います。

まず、動詞は、能動と受動の2種類に分けられます。

あ、先に言っておきますが、いきなり国語の授業始まります。(もう遅い)

僕は国語が苦手なのでよくわかりませんが、多分、
「〇〇する」が能動で、「〇〇される」が受動です。
そして、「ドキドキする」が鼓動で、「人間が唯一、丸ごと食べて最後に皮だけ出す食べ物」が葡萄。

魚類は食べる前に仕分けるでしょ。
まあ魚の皮は綺麗なとこは食べる派だけど。
エビの尻尾も気が向いたら食べる派だけど。

能動と受動、この区別はさっきのようにするorされるでされているものだと思います。多分。(ばいざうぇい、これって国語というか英語?)
でも、僕の中ではある面から見たらこの定義では不十分にも見える気がします。

例えば、「攻める」と「守る」。
定義上どちらも能動と判断されるものでしょう。でも、イメージすると、僕にとって後者は能動よりも受動的要素の方が大きくないかなんて思ってしまう。

だからなんだってわけではないです。
僕はこんなことを議論したいのではありません。
それでは、ここらで本題に入ろうと思います。
被告人、準備はよろしいか。

これは、お風呂に入っていてふと思ったことなので、僕の人生の軸となっている考え方でも何でもないです。
だから、これを読んで僕を軽蔑しそうになったらそのことを思い出して欲しい。この考え事は単なる出来心だということを。

「人生」という言葉、僕はこれに何だか違和感を感じました。

先日、「人生はシナリオだ」なんて大見得切っていた小童のくせに。

違和感の正体を説明するのは難しいんですけど、なんとなく、「人生」って「生きる」という能動的要素が強いように感じます。
名詞に動詞の判別を適用するのも如何なものか。
個人的なイメージですが、「生きる」って
「前に進む」「何かにはたらきかける」「影響を与える」
というような「他」に対して施すというイメージが浮かびます。

でも、自分は望んで生まれてきたわけではないと言葉にする人もいる現代社会。みんながみんな望んで生まれてきたわけではないこの社会で、人生という単語で表すのはどこかに違和感を感じます。

書きながらも「違和感なんて感じないだろ」という自分も99.9%くらいいて、自分の中のどこか小さな数ミリ%が違和感を感じています。

今目をそらすともう出会えないかもしれないので手は止めません。


僕の中では、動詞(動名詞?)としての「人生」があるのなら、それはまた別の単語で置き換えられるのではないかと思います。
守命とか命育とか、育自とか。
語呂悪いし馴染みなくて自分でもびっくりするくらいしっくりこないけど。

でも、「生きる」とは、自分の外に世界に対して何かを発信する、働きかけるというより、自分と向き合う、自身の中と対話するものだと思うんです。


人の生き方って、色んな生き方があって、どれも正解のようであればどれも間違っているようにも見えて、百人いれば百通り、似ているものでさえひとつもないくらいバラバラですが、
例えば、大きく2種類に分けることができると思います。

「命を消費する」生き方と、
「命を守り続ける」生き方。

前者は、主にHPを何かを生み出す力や他人を動かす力に変換するタイプ。
後者は、どれだけHPを減らさないかに主にMPを注力するタイプ。
言い換えると「献身」と「保身」。

保身というとマイナスのイメージになってしまいますが、特にこの二つのタイプに優劣はないと思います。正解なんて誰も知らないんだから。

というか、多分この世界に人生の正解なんてなくて、もっといえば問題提起もされていないんだろうけど。

ここまで書いてきて、前半部分からにじみ出ているように、お風呂の中での僕の考えは後者の保身タイプでした。

でも、先ほどのように言い方を変えたら、命を消費する時間を生きていきたいなと思いました。

何かを残したいと思うから。
誰かにとっての何者かにはなれなくても、何かを残すことができれば、それがいつか誰かのもとに届くだろう、と、自分にとっては何者かになれた気がすると思います。

せっかく頂いた命を使わないと勿体ないと思ってしまうから。
物だってたくさん持ってても使わなければ意味がないような気がしちゃいます。置物とかは置くという行為が使うということになるんでしょう。

だから、僕は、僕なりに、命を使いたい。
命を燃やして、その熱で誰かを温めたい。
その灯りで何かを照らしたい。

命の最期まで自分を100%守り抜くよりも、少しずつ燃やして最期には1%、そして、0%になって燃え尽きるような生き方がしたい。
自分の形を守り続けるより、形を崩してでも、何かを生み出し、何かを守り、自分がいなくなった後に何かを残せるように。
燃え尽きた後に残るものは灰かもしれない。
それなら、生きている間に燃えることでその灰を吹き飛ばしてしまうほどの風を起こしてしまえばいい。
火が消えたら、そこには闇が生まれる。
それなら、燃えている間に周りの物に火を移してしまえばいい。

確かに僕は、前半で「人生は自分を守ることだ。」といいました。
でも、もしかしたら、何かを燃やすことで、自分の火が消えないための熱を生み出してくれるのかもしれません。
風を起こすことで、それが回りまわって、自分に幸運を運んでくれるのかもしれません。
他に働きかけることは、いずれ未来の自分に影響を及ぼすことになるのでしょう。

今、命を燃やすことは長い間その火が消えないための手助けとなる。

そう考えると、こんな気持ちが芽生えてきました。

人生を全うしよう。


人生とは

「人に生きる」「人を生かす」

そのために与えられた時間として、生きてみようと思います。

僕は、他人と対等な関係なんかではないから、
人と生きるなんて烏滸がましいことは言えません。
僕は、他人を動かすほどの力はないけど、
誰よりも僕自身を動かすことはできます。
だから、人と生きるとは言えずとも、人に生きる。人を生かす。
そのための働きかけなら、微々たるものであれ、できるのかもしれません。
というか、ここで生かすという結果ではなく、
働きかけるという過程であれば、必要なのは自分の意志だけ。



できる。


僕は今もこうやって書いて、命を消費してる。

人として、生きている。

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