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「何者かになりたい」と思っていた私が、何者でもない自分のまま生きていけると思えるようになるまでの話

6年くらい前の私は、何者かになりたかった。
だからひたすら自己分析をしたり、自己啓発の本を読み漁ったり、活躍している人たちの話を聞きにいったりして、「いつか私も何者かになるんだ!」と思っていた。

何者かになって、自分はすごいんだーーーって思えるような、すごさを証明できるような"何か"が欲しかった。

「何者ってなんだ?あんたァ、一体何になりたいんだ……?」

今の私だからこそできる、自分へのツッコミ

当時は、そんなツッコミを入れられるほどの冷静さも客観性も持ち合わせておらず、何者かになることをド直球に夢見ていた私。うん。ちょっと痛いけど、ちょっとおちゃめで愛しいし、何者かになりたいと本心から願っていたのも事実だし。それはそれで必要な過程だったからいいのよ?(早口)

でも、それから6年経った今の私。

なんと、もう「何者かになりたい!」と思わなくなった。

「夢を諦めたってことですか?大人になっちゃったんですか?笑」

私の脳内では常にひとり会議が繰り広げられているので、よくツッコミが入る

外側から見たら、そうかもしれない。それに、実際に諦めたことだってないわけではない。でも、今は夢の方向性が変わったんだな〜と思っていて、今日はそういうことを改めて考えてみたくて書いている。

私としては、何者かになりたい!とアップダウンしながら、がむしゃら(?)にがんばったのちに「何者かになりたい気持ち」の正体を突き止めて、「何かにならなくてもしあわせになれるんだ」と思えるようになったのは革命だった。

というわけで今回は、何者かになりたかった私が、なんでもない自分を受け入れて、ありのままの自分を楽しめるマインドになるまでの話をつらつらと!ときに自分にツッコミを入れつつ!書いていこうと思います。


「何者か」という謎の亡霊

つい最近、チラッとみたテレビ番組でも「何者かになりたい若者」という特集をやっていて、心がザワザワした。
インタビューを受けている方の言葉も刺さりまくりで、「この人は、そのまま昔の私だ‥‥!」とも思った。

「何者って、何者なのさ?」という問いかけに、うまく答えられない。
でも、何者かになりたい。そうじゃなきゃいけない気がする。

そのうち、自分で言い出した夢のはずなのに、その夢になんとなく苦しめられているような気持ちにすらなって。苦しいなら夢を追うのをやめたら?とも思うけれど、なんとなくやめるのも怖い。
気づけば、何者かという亡霊に取り憑かれているような状態になっていた。

とはいえ。外側からみたら「何者かになりたい病」なんて、ちょっと何を言っているのかわからない悩みかもしれない。
でも本人的には一大事であって、当時の私にとっても、人生を揺るがす大きな問題みたいに感じていた。

でも、今だからわかることもあって。私の場合は、自分ではない何者かになりたかったんだと思う。

学生から社会人になって。「いつまでも、今が1番たのしいって言い続けられるオトナでありたい」という夢をもって社会人になったはずなのに、気づけば土日しか生きがいがなくなって、死んだ魚の目をして働いて。
それでもどうしたって今の自分では太刀打ちできないような、組織の大きな決まりや忖度せざるを得ない状況に巻かれて、同期や先輩とくだを巻いて。
「こんなはずじゃなかった」と思っては自分のことが嫌いになっていくうちに、自分ではない「何か」になりたくなったんだと思う

そんな時代もあったねと

つまり私は、「何者かになりたい」んじゃなくて、「自分じゃないものになりたい(変わりたい)」と思っていた。


自分じゃないものになりたくて行動して失敗する

そんなわけで、当時の私は気づけていなかったけれど「自分じゃないものになりたい(=何者かになりたい)」という目標を持っていた。

「でも、冷静に考えて「自分じゃないものになりたい」って無理ゲーだと思いませんか????

今日の心の中ツッコミは鋭くて痛いぞ!!!!

いやまあ、そうなんです。おっしゃる通り。

異世界転生とか、新海誠監督的な「入れ替わってる〜〜!?」とか、そんなことでもない限り、自分じゃないものになることなんてできないんです。

でも「何者かになれたら、きっとしあわせになれる」と思って、いろんなことをやりました。

めっちゃ仕事したり。転職活動したり。キャリコンの資格取得講座に通って、資格を取ったり。書くことの勉強をしたり。いろんな職業の方にインタビューさせてもらったり。キャリコンとして無料の壁打ち相手をしてみたり。一人で海外に旅行に行ったり。オンラインサロンに入ったり。いろんな人と話して、いろんな生き方や考え方を知ったり。コミュニティでリーダーをやったり。新卒入社した会社を辞めたり。果ては、一人でカンボジアに行って照り焼きチキン屋台を経営してみたり。

まあまあ色々やったよね〜

そしてその結果、うっすら気づき始めました。

私、結局何者にもなれてないやん!!という、まあまあ当たり前の事実に。

うん。でもね、こんだけ色々やってみないと、私はわからなかったのよ。
色々やってみることが必要だったのよ。(言い聞かせていくスタイル)

だって当然だけど、自分は自分であって、他の何者でもないじゃん?

この事実は、今はむしろ、ありのままの自分でいいと思える安心材料ですらあるけれど。その当時の私にとっては、結局自分には何もない、ちっぽけな存在だということを直視せざるを得なくなる、絶望に近い気づきでした。

何にもなれない、何もない私は、何もできないし価値がない‥‥。

端的にいえば「もうダメだ〜」ということで、セルフ八方塞がり、特大スランプ時代に陥りました。
この時代のことを語り始めると、逆にエピソードがあまりない(!)のですが、仕事以外に何かプラスで活動することはなく、見方によっては平和に平穏に、だけど心はずーんと沈んだままで過ごしていました。


私はただ、ありままの自分で生きていく自信がなかっただけだった

それでね?今の私がその当時を振り返るにあたって、もう一歩引いてみることにしてみたら、わかってきたこともあって。

私が自分じゃないものになりたかった理由って、ありのままの自分で生きていく自信がなかっただけだったの。(だけっていうには、当時はうけとめることに痛みを伴う事実だったけど)

ありのままの自分に自信がない・認められない・うけいれられない

自分ではない者になりたい!変わりたい!

何者かになりたい!ならねば!

何者にもなれない!!(以下、無限ループ)

ああ恐ろしき無限ループ

今だからこそ、こういう流れがスッと腹落ちする。
でも当時の私は、まさか自分の「何者かになりたい気持ち」がこんなプロセスを経て生み出されているなんて知らなかった。

あと、「何者かになりたい」という目標を持つことで問題をすり替えて、自信がない自分のことを直視せずに済んでいた面もあると思う。

こういう自分に気づき始めたのは、いろんなことをやったあと、最終的にカンボジアに行って、一人で屋台を経営していた頃。

何をやっても、どんなものを得られたとしても。
得たもの、注がれたものをうけとる"うつわ"としての自分に自信がないままだと、いくら何かを注いでもこぼれ落ちてしまうことを身をもって感じた。
そして、私のうつわには、どうやらヒビが入っているのだということを知った。


「何者かになりたい」から、「自分に自信をもてるようになろう」に

そんなことがあって、当時の私に必要なのは「何者かになりたい!」と思って行動することではなく、「ありのままの自分を認めて、自分に自信をもつこと」を目指して行動することだったのだと、やっとうっすら自覚した。

この自覚が、これまでの「何者かになりたい人生」から、「まず自分自身を満たして、自分に自信をもてるようになろうよ人生」への転換点になった。

そうやって自分のことを意識して気にかけはじめると、今のコンディションを客観的に把握して軌道修正したり。元気メーターや自信メーターを定期的に点検して、よい状態を保てるようになったりと成功体験が増えていった。
それはもう、めちゃめちゃ地味な作業だけど、いちばん確実に自分への信頼や自信を育てられる方法だった。

今だって、放っておくとメーターが下がることも多いので、定期メンテナンスは必須だけどね!


特効薬はないけれど、ありのままの自分で生きていく勇気を育てた

でも実際のところ、すんなり思考回路が変わったり、自分や人生が変わったりするわけもなく。

単に自分に自信がないことを直視する勇気がなかったという事実をうけとめて、ありのままの自分で生きていけると思えるようになるまで、3年くらいもがき続けた。さらに、それをこうやって言語化できるようになるまでに、プラス2年くらいの時間が必要だった。←イマココ

「もう大丈夫!自分最高!」と思った次の日には、「自分、全然ダメじゃん…」という感情ジェットコースターみたいな日々を過ごしたり。「もう何も考えたくない、何もしたくないッス」という思考停止の日々を過ごしたり。いったりきたり、変わろうとがんばることがそもそもしんどい!みたいな時期もたくさんあった。

私は基本的にこじらせている人間なので、自分の感情の振り幅をコントロールできず、感情の波に120%くらいで振り回される。そんな自分に対して、「ありのままの自分でええんやで」といえるオールオッケーの境地に達するまで、自分的には、どえらい時間が掛かった気がしてる。

しみじみ

でも、それだけの長い間「変わりたい!」と思って、いろんな行動を続けていると、ちょっとずつだけど「今の自分、ちょっと良いな」と思える場面も増えてくる。
自分を認められる瞬間が増えてくると、「私、どんなときも基本的にがんばって生きてるよね?」という気持ちも少しずつだけど芽生えてくる。

「今日はよくやった〜って日も、全然だめだった〜って日も、たまに何もかも投げ出してボーッとしてる日もあるけど、でもまあよくやってるわ!自分!」

とまで思えるようになったさ!

ある種のふてぶてしさなんだと思うけど、今は自分に対して常にそう思えている。
そして、それは6年前の自分とは180度くらい変化した考え方だから、過去の自分を思い出すたびに「私、変わったな〜、今のほうが生きやすいな〜」と思う。(うすっぺらく聞こえるけど、本気だから!)


自分は変えられるけど、簡単には変わらないという覚悟も必要

だから言わせてほしいのは、人生が1日で変わる!1週間で変わる!3ヶ月で変わる!とかの謳い文句を、私は基本的に信じていない。(よほどのショック療法は別)

だって、そんな簡単に変われるなら誰も苦労しないはずじゃない???

あと、自分を変えること・人生を変えることは、その本人が受け身のままでは成せない技。基本的に、誰かがどうにかしてくれることはないし、ある日とつぜん「何者かになりたい!」という自分の考えが変わることはない。
でも逆にいえば、本人が本気で変わろうと主体的に取り組んでいるほど、はやく変わることができる


あともう一つ。はやく自分を変えたい!と思っている場合には、いかに自分以外の誰かを頼れるかもすんごく大切だと思う。

私は自分変わったなと思えるようになるまで、約5年と結構な時間を要してしまった。この理由は明白で、自分の内面の問題は、誰かに相談せずに自分だけで解決しないといけない!(相談するなんて恥ずかしい!)と思っていたから。

誰か信頼できる人を探してみればよかったのに、他の人に相談できず、誰のことも頼れなかった。そのせいで、自分のリソースや経験不足による制約や限界があって、結果として余計に時間が必要になった。
でも、先人たちは似たような壁にぶつかったときの乗り越え方をいろいろ知っているから、はやく頼ったほうがいい。(今だからいえるだけで、当時は無理だったけど)

5年が長いのか短いのか妥当なのか。そもそも「何者か」を目指そうとしない世界線を生きる人からすると、「どういうこと???一体なにと戦っているの???」の連続かもしれないけれど、そういう時期が私にはあった

自分でも青臭さ!と思うけど、私には必要な過程だったからヨシ!(笑)

でもそんな自分の経験があるからこそ、「人は自分自身のことを自分で変えていける」と強く信じているし、同時に「そんなに一瞬では人は変わらないから、多少どっしり構えて中長期スパンでやっていこう」と腹をくくることも必要だと身をもって理解している。


何者にもならなくていい、ありのままの自分でいい

「自分らしく生きなよ」「自分を大切にしなよ」「あなたの診断タイプは〜」「自分ってなんなんだ?」「自己分析」「自分探し」「自己責任」「好きなことをして生きていくといい」「成長しつづけないと」「がんばらないと」

世の中には、いろんな言葉が溢れていて、全部本当だし、本当じゃない。
私も含めてきっとみんな、事あるごとにいろんな言葉に迷ってしまうし悩んでしまうけど。けど。だけど大丈夫!!!って力強く思う。

今もずっと、すぐそばに自分はいるし、それ以上でも以下でもない。

それはもしかしたら、残酷な話かもしれない。結局自分には何もない、何者にもなれない、ちっぽけな存在だということを直視せざるを得なくなる、絶望に近い気づきに感じるかもしれない。

でも逆に、「何者にもならなくていいんだ!」って考えることもできるよね。

何者でもない、「なんでもない自分」として生きていくのは怖いし、大きな決断をするなんてとんでもないし、何かあっても責任とれないよ!って最初は思っていた。だけど、どう足掻いても私は私にしかなれなかったから、ゆっくりでも自分と向き合っていくより他ないと腹をくくるようになった。

そんな風にして私は今、「いつまでも、今が1番たのしいって言い続けられるオトナでありたい」と未来にワクワクしていた学生時代の自分の夢を叶えてあげられている。よかったなと思うし、何者でもない私のことをうけいれて、たのしく生きている。

だから結局は、「なんでもない自分」からスタートしていくしかないという事実から逃げないことが、まずはいちばん大事。

人生は1日じゃ変わらない。1週間じゃ変わらない。3ヶ月あれば少し変わるかもしれないけど、やっぱりある程度は超地道にやっていくしかない。


あせらず、ゆっくりいけばいいよ

人生も自分の思考回路を変えることも、思い描いている自分の理想像になることも、いきなり成せる技じゃない。でもそれはみんな同じだから、「いきなりは変わらない」という事実が絶望ではなく希望になるといいなと思う。

いろんな方面で活躍している人たちの話を聞く限り、誰でも大抵の人は「なんでもない自分」から物語がはじまっている。

何もできない、ちいさな自分として足掻きながら進んだ先で、自分のままでしあわせな生き方を選択して、たのしく生きている人たちが世の中にはたくさんいる。でも、そんな人たちが決まって話してくれるのは、最初は超地道な何かを積み重ねていたということ。

だから、あせらず、ゆっくりいけばいい。

自分が生きていきたい方向をきちんと整理して、そこに向かって歩みをとめないでいれば、少しずつありのまま自分で生きていく自信がついて、自分なりのしあわせな生き方を選べるようになっていくはず。

私も、「何者かになりたい!」と思って、不安をかき消すようにがむしゃらにがんばっていた頃と比べたら、「300%しあわせ!」くらいの気持ちでたのしく今を生きている。

でもべつに、今の私は何者かになったわけじゃない。自分のままでいいと思えるようになったから、もう何者かにならなくてもしあわせを感じて生きていけるという確信があるだけ。心のあり方が変わると、世界の見え方も全然ちがってみえるようになる。

だからこそ過去の私に伝えたいのは、人生は超長距離走だから、ゆっくり自分のペースでいいんじゃないかということ。がんばりすぎると、ガス欠して走れなくなっちゃうし。

でも、今がいちばん若いことは間違いないから、思い立ったときから、少しずつ。すぐに何か効果が現れなくても、少しずつ少しずつ、変わっていく努力を重ねていけるといいなと思う。

そうやってがんばった先で、もう一度、今がいちばん楽しいっていえる、しあわせな自分に出会えるから。
あせらず、腐らず、ゆっくりいこう。

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