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母の短歌

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母が生前に作った短歌をまとめたものです。
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#母

母の短歌 あと追うも出来ずに生きいる今日の道

母の短歌 あと追うも出来ずに生きいる今日の道

 あと追うも出来ずに生きいる今日の道
 草の芽萌えてたんぽぽの咲く

母が60代で父に先立たれた。急に寂しい生活に変わった。道を歩けば、父と来たことが思い出されたようだ。「ここもお父さんと歩いたな。ずいぶんいろいろなところに行ったな」と言っていた。父が春彼岸に亡くなってから、何年目の春だろうか。ひとりで歩く道ばたに草は芽を出して、たんぽぽの花が咲いていた。

ひとりの人のことを思い、何度も歌に詠む

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母の短歌 抱きたる赤児と共に頭下げ

母の短歌 抱きたる赤児と共に頭下げ

 抱きたる赤児と共に頭下げ
 初めましてと亡父に告げぬ

まだ首のすわらない子を連れて、母のところに行った。母は、孫を抱いて早速、仏壇前に行き、父の前に座った。その時のことをこう歌に詠んで残してくれた。

「お父さんが生きていたら喜んだね」と母が言っていた。姉の子が生まれたときに、ひと際、喜んでいた父。もともと子ども好きだった。甥が生まれてから姉夫婦と奥多摩の渓谷に行ったときに、父がすごく喜んでい

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母の短歌 戦時食のイメージ湧きしさつまいも

母の短歌 戦時食のイメージ湧きしさつまいも

 戦時食のイメージ湧きしさつまいも
 老いの昼餉に快く食む

これまでにさつまいも程に実力とイメージに差があり、軽視されてきた食べ物はないだろう。高温でも乾燥地でも育ち、青木昆陽の時代から飢饉のときの非常食と考えられ、日本人の生命を救ってきた。デンプンやビタミンが豊富で栄養化の高い食べ物である。そういう役割からか、さつまいもにはマイナスのイメージがついてまわり、母の世代では、戦時食とされ、沖縄に出

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母の短歌 一瞬に人ざわめきて席は埋まり

母の短歌 一瞬に人ざわめきて席は埋まり

 一瞬に人ざわめきて席は埋まり
 常の如くに電車動きぬ

母は、朝早く出かけることがあったのだろう。柏駅の朝の光景をこう歌った。駅始発の電車に乗り込む乗客たちは皆こんなだったな。都心まで50分程だったが、車内はすし詰め状態で、それを回避するには座るしかない。始発の電車を待って座って行きたい。ドアが開くと脱兎の如く走った自分のことが思い出される。

満員電車と言えば、昔、日比谷線の竹ノ塚に住むAくん

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母の短歌 ぼろ屑と思える程の遺品をも

母の短歌 ぼろ屑と思える程の遺品をも

 ぼろ屑と思える程の遺品をも
 捨てかねており七回忌迎う

父が亡くなり、たくさんの毛筆書、日記帳、スクラップブック、レタリング帳、カメラ等が遺された。一周忌が過ぎて、三回忌が過ぎても、そのままの状態が続いた。

断捨離という言葉が言われはじめて、それが強迫観念に近い想念として湧いてくる。取捨選択して不要な物を処分しなければならない。だが、なかなか捨てられない。理由は簡単で、生きているからだ。生き

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母の短歌 つやめきて紅く熟せる柿の実を

母の短歌 つやめきて紅く熟せる柿の実を

 つやめきて紅く熟せる柿の実を
 期待を持ちて皮をむきいる

柿の木が小岩の家の庭に植わっていて、毎年、秋になると橙色の実を生らした。榊󠄀の生垣に沿って椎の木の間に3本の柿の木があり、外を歩く人からは気づきやすかった。たまに近所の人が、赤くなった柿の実を見て、「お宅の柿は甘柿?」と聞く。母が「甘柿と渋柿が毎年交互なんですよ」と言うと近所の人は納得したような顔をしていた。事実、隔年で甘柿と渋柿を繰

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母の短歌 通信の学園に学ぶ少年ら

母の短歌 通信の学園に学ぶ少年ら

母が70歳近くになって通信制の高校に通い始めた。女学校に行かずに働いた母にとって高校進学はひとつの夢だった。

自宅でひとりで学習してレポートをきちんと提出していたようだ。国語と社会は苦ではなかったが、はじめて学ぶ英語には苦労したみたいで、特に英語の聞き取りが難しかったのか、会いに行くとリスニングの問題を手伝ってくれとよく頼まれた。

月に一度、NHK学園の本校のある国立まで通い、大勢の若者たちと

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母の短歌 唇の熱きも忘れ

母の短歌 唇の熱きも忘れ

 唇の熱きも忘れ六十路来て 
 肩をふれつつバスの旅行く

「唇の熱きも忘れ」に与謝野晶子の「柔肌の熱き血潮に」の歌を連想するが、母にもそのような情熱が隠れていたのかと感じている。そう言えば、母の普段の理路整然とした落ち着いた語りぶりとは打って変わって時に豊かな感情が表れることがあった。

母の60歳の頃は、退職した父と静かな生活を楽しむことができるようになっていた。短歌会や絵画のサークル等でたく

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母の短歌 筆談の兄との会話は弾みたり話が何よりの馳走と言いつつ

母の短歌 筆談の兄との会話は弾みたり話が何よりの馳走と言いつつ

 筆談の兄との会話は弾みたり 話が何よりの馳走と言いつつ

 耳遠き兄との会話の筆談に チラシの余白を埋めつくしたり

母は、4人兄弟姉妹の末に生まれ、2人の兄と 1人の姉がいた。次兄は昭和20年6月に沖縄本島南部で戦死した。姉は数年前に亡くなり、あとに12歳年上の長兄が残っていた。姉が亡くなったときに長兄は、とうとう二人だけになったなとしみじみと言ったらしい。そのときのことを母はこう歌った。

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母の短歌 川原にて友と語りし江戸川は遥かに遠く流れゆくなり

母の短歌 川原にて友と語りし江戸川は遥かに遠く流れゆくなり

 川原にて 
 友と語りし江戸川は
 遥かに遠く流れゆくなり

 緑の野に 
 身をよこたえれば想い出す
 江戸川堤の草の香りを

私たち家族は、昭和50年まで南小岩というところにいた。柏に来てから母は、「小岩は川があってよかったな」と言ったことがある。小岩を東西から挟むように東に江戸川、西に新中川が北から流れている。いずれも容易に歩いていける距離にある。江戸川の川原は広く、土手に登れば、善養寺の

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母の短歌 硝子戸の中の陽だまりを分かち合い

母の短歌 硝子戸の中の陽だまりを分かち合い

 硝子戸の中の陽だまりを分かち合い
 夫とくつろぐ日の多くなり

父が退職して、柏市加賀に引っ越した。新しい家には小さな庭があり、温かい日差しが障子越しに室内に降り注いだ。

母は、郷土短歌会という館山一子を創設者に仰ぐ同人誌に入り、短歌を作るようになった。その頃は、夫婦で過ごす一日も長閑に感じたのだろう。転居してまもない頃のことを歌ったものである。父が、母のこの歌を短冊に書いて部屋に飾った。

母の短歌 年を重ね日々思ひゐるこの足でしかと踏みたきまだ知らぬ地を

母の短歌 年を重ね日々思ひゐるこの足でしかと踏みたきまだ知らぬ地を

東日本大震災のあの日、高齢の母がいないというので、家の前で近所の人が心配していると、向こうから母が歩いてやってくるのが見えた。「電車が止まってしまったので、柏駅から歩いてきました」と言う母の言葉を聞いて、近所の人たちは、ほっとするやら、驚くやらだったそうだ。足が達者で、歩くことを苦にすることがなかった。友人と山にも行っていたようだ。私と尾瀬に行ったときも、一度も疲れたと言うことはなかった。30キロ

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母の短歌 啄木の如きになるは遠けれど 

母の短歌 啄木の如きになるは遠けれど 

 啄木の如きになるは遠けれど
 母さんの短歌(うた)も解るよと
 息子(こ)の言う

母が入っていた「郷土」という短歌の同人会では、会員は、作者名が伏せてある短歌の中から選をして、次の短歌会に持ち寄っていた。

ある日、母は、短歌の書いてある用紙をわたしに見せて、その感想を聞いた。わたしには選をする力はないが、母の歌がどれか何となく分かった。その後も同じようなことがあった。そして、何故かいつも母の

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母の短歌 別れぎわ幼さなのくれしチョコレートそっとなめいる風寒き駅に

母の短歌 別れぎわ幼さなのくれしチョコレートそっとなめいる風寒き駅に

 別れぎわ幼さなのくれしチョコレート 
 そっとなめいる風寒き駅に

子どもが親の家に遊びに来ると二度の喜びを与えてくれるということは何度か聞いたことがある。それは、子や孫に会えたという喜びと帰った後の喧騒から解放された喜びの二つだそうだ。

しかし、この短歌を今あらためてかみしめてみるとホッとした喜びはなく、さびしさを感じる。それが短歌のもつ創作的な叙情からくるのか、ひとり暮らしの母の心情からく

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