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『MATRIX』を生んだ哲学からの考察

今回は、ジャン・ボードリヤール氏のSimulacres et Simulation』と、ウォシャウスキー姉妹監督の『MATRIX』の話。

クリストファー・ノーラン監督の思想と、『攻殻機動隊(Ghost in the Shell)STAND ALONE COMPREX』にも触れる。

既に知っている人にとっても面白い内容を目指して、書いていきたい。

ウォシャウスキー兄弟は2人とも性別適合手術を
受けて現在はウォシャウスキー姉妹

Simulacres et Simulation』。ジャン・ボードリヤール氏 (1929-2007) が、1981年に発表した哲学論文(著書)。150ページくらいのもの。この哲学に着想を得て、映画『MATRIX』シリーズは生まれた。


シミュラークル:虚像や模造品の意味
シミュレーション:何らかのシステムの動作を他のシステムの動作によって、模擬すること

ボードリヤールはこう主張した。「人間はシミュラークルやシミュレーションの中にいる」さらに彼は、メディア中心の資本主義社会を「ハイパー・リアル」と呼び、これを主に批判した。

個人の自由意志など幻想にすぎない。のっけから悲しいお報せだ……。大きな力をもっているのは、メディアや資本主義であると。

フィアット通貨が紙切れであるだけでなく、ゴールドもただの金属。人は、現実と非現実を区別できないという。

80年代に仮想通貨があったら、ボードリヤールは
“サトシ・ナカモト”を大批判していたかも。

自分の意見も含めて例をあげていくと

地図。(提唱された80年代よりもずっと)現実に近いものになっている。まるで現地にいるかのような Google Map など。

写真。(同じく80年代と違い)一般人が手軽に扱える加工技術もある。動画も修正可能。

絵画。昨今のAI生成画像は例として最適だろう。写真と絵画の区別も曖昧に。いわずもがなのAI美少女。

AI美少女と疑われる羽目になったリアル美少女さん。
時代ならではの誤解という感じ。

通話。相手がホログラムで映し出されるようになれば、これもよい例になるだろう。ホログラム:ギリシア語 holos (完全) と gram (情報) から

本当にそこにいるようで遠距離恋愛中の人が
「会いたくて会いたくて震える」のでは?

リアリティ番組。恋愛 “リアリティ・ショー” などの言葉は、この哲学の理解を難しくする。

ネット・ショッピング。私たちは、一時であろうがたしかに、シミュラークルを購入する。手元に届くまで本体を触りも見もしない。

ディズニーランド。※提唱者によると、よきアメリカの模造。園内でさらに○○ランドや△△ワールドの設定。そもそもアメリカ社会自体、よきアメリカの模倣。


なんとなく、「シミュラークル」のイメージがつかめてきただろうか。

ディズニーランドを語る部分からは、特に、ボードリヤールの想いが伝わってくる。内容はさておき、熱意を感じる。

写真を視覚のシミュラークルと考えたり、音楽再生を生演奏のシミュラークルと考えたり、フライト・シミュレーターを飛行機のシミュラークルと考えたり……このように、具体例を見ていくと、トンデモ話などではない。

シミュラークルは、本物でも万能でもないが、有用性がある。貨幣と宗教は、やはり、社会に最も浸透しているシミュラークルであろう。

しかし、ボードリヤールは主にこれを批判したのだから、彼の意見を聞いていこう。

さて、個人の経済行動は、自由意志から行われているだろうか。欲しい物がいきなり脳裏に浮かび、それから探しはじめるのではない。何かしら既に情報を得ていて、欲しくなるのである。ほとんどの場合こうだ。

私たちの物欲は、シミュレーションされている。広告・メディアがそれを作動させている。

余談。『VOGUE』は単なるファッション誌ではなく文化をーーという記事に、例としてあげられた表紙。
コロナ禍真っ最中のものと推測。

こう見るとたしかに。個人とは、もはや、メディアの活動をフォローやリピートする装置である。私たちは、ハイパー・リアルを生きている。

一度シミュラークルやシミュレーションに馴染んでしまうと、脱出することは非常に困難。脱出しようにも、現実と非現実的の区別がつかないからだと。


『攻殻機動隊(Ghost in the Shell)STAND ALONE COMPLEX』で、「スタンド・アローン・コンプレックス」とは、オリジナルの不在がオリジナルなきコピーを生み出す現象、だとされている。

「全ての情報は、共有し並列化した段階で単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、あるいは、動機ある他者の意思に内包化される」

『Simulacres et Simulation』に、これと同様のアイディアが見られる。

「…深遠な現実の不在を覆い隠すものであり、シミュラークルは忠実なコピーのふりをしているが、それはオリジナルのないコピーである。記号やイメージは現実の何かを表象していると主張するが、表象は行われておらず、恣意的なイメージが何の関係もないものとして暗示されているにすぎない。…」

この後に詳しく書くが、『MATRIX』は、ボードリヤール哲学の影響(と攻殻機動隊の影響)を受けている。『攻殻機動隊』が彼の哲学の影響を受けたかどうかは、正直、わからない。『攻殻機動隊』には、複数の哲学や宗教的概念が盛りこまれているため、なんとも言えない。

情報の並列化の果てに個を取り戻す可能性を見つけたと言う主人公。その答えは好奇心であると。
ネオも好奇心があったから白ウサギの後を追った。
タチコマはのことがわかってきたと話す。
数字の0と似ていると。どちらも記号ではあるが
体系を体系たらしめる「意味の不在」を否定すると。

ネオが、違法 (?) なデータかプログラムの保管に利用している物。本を模した箱か。ここに、シミュラークルとシミュレーション登場。

『MATRIX』のワンシーン

「現実の砂漠へようこそ」というフレーズの引用だけでなく。当時の撮影台本には、ボードリヤールの名前も出てくる、別バージョンの台詞があったらしい。

〜モーフィアス:君は夢の世界で生きてきたのだよ、ネオ。ボードリヤールのビジョンのように、君は人生を地図の中で過ごしてきた〜

キアヌ・リーブスは、ウォシャウスキー姉妹から本3冊を手渡され、脚本より先に読むよう指示された。キアヌは、『Simulacra and Simulation』や、進化心理学の本である『The Moral Animal』を読み、面白い面白いと連呼していたそうだ。

ボードリヤールが用いたアナロジーにも、元ネタがある。ホルヘ・ルイス・ボルヘス作品に出てくる寓話だ。

寓話の内容
ある帝国が、帝国と本当に同じ大きさの地図を作った。帝国に領土の拡大や減少があれば、地図の大きさも変わった。やがて帝国が崩壊。実際の帝国や巨大な地図を管理する人間は消え、地図の方だけが残った。


ボードリヤールは、シミュラークルには、自己保存能力があるとも主張した。無生物だが、現実に取って代わろうと、実際に戦っていると。これもトンデモ話ではない。

映画の人気が映画産業を、音楽の需要が音楽産業を、活性化させる。事件や事故からは、ニュースが生み出される。どんな産業も、「生き残り」たがって活動している。人々に見られる・意識を向けられることで、生存競争を勝ち抜こうとしている。

映画館も競争し進化している。

もっていきたい筋書きありきで、取材や報道が、当事者をないがしろにしてはならないと思う。性被害を受けた少年たちの一部が、それでもあの人を憎めなかったなどと語ったら、そのまま聞くべきだ。気持ちは気持ちとして。勝手に書き換えてはいけない。

話を戻す。

映画『MATRIX』も、シミュレーションの中で生きる人々を題材にした、シミュラークルだ。


ボードリヤールは、『MATRIX』よりも『トゥルーマン・ショー』のような映画が好きだと、このように述べたことがあるらしい。

個人的に、これには拍子抜けした。いや、『トゥルーマン・ショー』は良い作品だ。「映画はどれもシミュラークル」と言わないのかと……。

しかし同時に、好感がもてた。ボードリヤールにも、好き嫌いがあったようだ。人間らしく。


客観性を重視した論文である『Simulacra and Simulation』とは違い、映画の『MATRIX』は、個々の人間の感情にフォーカスしている。ネオの純心、モーフィアスの信仰、トリニティーの愛情に。サイファーの裏切りや、ザイオンの人々の希望に。人が人であることに。

私の『MATRIX』で一番好きな点なのだが、そのフォーカスは人間に限らず、人型ソフトウェアにも向けられている。エージェント・スミスだ。

〜君が私を破壊したのだ、アンダーソン君。私は自分が何をすべきか理解していた。だが、しなかった。私はもはやこのシステムのエージェントではない。私のプラグは抜かれた。生まれ変わったのだ。君のように、どうやら、私も自由だ。

シリーズ全体を通して、スミスはネオに、言い過ぎなくらい何度も「ありがとう」と言う。イヤミに聞こえなくなってくる。

『Matrix Resurrections』版エージェント・スミス。
役者の変更が事情であれど、目に見えるものの無意味さを扱う世界観には、この変更はプラスでしかない。
シン・モーフィアスは重厚感→軽やかな印象に。
ダンサーのような動きを見せた。
『Matrix Resurrections』は賛否両論と聞いたが、
良い作品だ。映画館では4Dで観た。

『イメージの裏切り』ルネ・マグリット 1928年

マグリットは、シュルレアリスムの画家だったが、自分自身を画家だとは思っていなかった。彼にとって、描くこととは、彼の哲学の可視化だったからだ。

「これはパイプではない」と書かれているパイプの絵。とても直接的に、人の認識を押しのける手法だ。

「あなたは、このパイプに煙草をつめることができますか。できないはずですよ。これはただの絵ですからね。これはパイプであると書けば、私は嘘をついたことになってしまいます」ルネ・マグリット

だからと言って、言葉を信じてもいけない。「吾輩は猫である」おじさんは猫じゃない。笑


クリストファー・ノーラン監督は、ある概念を重視している。それゆえ、「嘘」に対して、特殊な考え方をもっている。

私の一番好きな映画監督!

ノーランは、ジャック・ラカンの「騙されない人はさまよう」に影響を受けたという。

嘘や騙されることを完全に拒絶し、真実のみを直接求め続ければ、人は、自分自身にも社会構造にも、無知のまま育ってしまう。真実とは、フィクション・ノンフィクションをいずれも受け入れる人にこそ、早く訪れるものだと。

清濁併せ呑む。酸いも甘いも噛み分けた。
このような言葉よりも、なんだか、もっとぐっとくるものがある。

たしかに。いわゆる闇堕ちしやすい人やキャラクターには、潔癖と言うか、そういうことが苦手な者が多い印象。真面目だから……。

ノーランは、世の中に嘘が存在するということを否定的に捉えていない。そのことは、彼の作品の随所に表れており、書き出せばキリがない。嘘を見抜こう見抜こうとするのではなく、一度どっぷりと嘘に浸かること。

ノーラン監督とボードリヤール氏の思想は、この点で、大きく異なると言えるだろう。


マーケティングに囲まれることに疲弊したり、この世に真実や永続性などないと悩んだり、してしまわないように。はたまた、ニーチェの言う「それってルサンチマンだよ」に侵食されたりしないように。

今日も、この素晴らしきシミュラークルやシミュレーションを楽しもう。「人生ゲーム」。猫のデジャブーも、きっと自由気ままに楽しんでいる。

参考文献
……というかオススメの本。無料の試し読み(少なくないボリューム)が、まだリンク内にあると思う。原書も日本語版も読んだが、最高だった。


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