見出し画像

日本語とオノマトペの特別な関係

オノマトペ(擬声語、擬音語、擬態語)が表すものは、動物の鳴き声・物音・ 状態・感情などだ。

この「オノマトペ」が豊富なのが、日本語の特徴の1つである。

日本語のオノマトペは、4500語ある。オノマトペ辞典に載っている数だけで。若者言葉などの新語をあわせると、もっとある。


なぜか。

英語に比べ、日本語には動詞と形容詞が少ない。

英語の「みる」は、look see watch stare gaze など複数ある。英語では、このように動詞を使いわけることで、状態や状況を表現する。

一方、日本語はというと。犬・猫・鳥・虫……これらが「なく」場合、全て「鳴く」だ。

そこでオノマトペだ。

「〇〇と見る」「〇〇と鳴く」このようにして、表現の幅を広げる。これが、考え得る、日本語にオノマトペが多い理由の1つだ。

(日本語にも「さえずる」「吠える」「いななく」など存在するが。マクロな話、動詞のバリエーションが少ないことは事実)


その他。

リズムに乏しい言語なので、リズミカルなオノマトペが増えた説。音節が極端に少ないから説。などがあるが。

個人的には、いまいち納得がいかない。

日本語のオノマトペはリズミカルだろうか。抑揚というのは、また違うものだと思うのだが……。

音節の説に関しては、言語のプロの方々が、多くの解説をしてくださっている。ただ、私がしっくりこないだけだ。自分が納得いっていないものを紹介したくない。ごめん。


もう1つの考えられる理由は、オノマトペが日本人の感性や情感と相性がよいということである。

これはわかる。

誰がなんと言おうと、間違いなく。日本は文化大国だ。

712年の『古事記』ではすでに、矛で水をかく(かきまわす)様子が「こをろこをろ」と表現されていた。

松尾芭蕉の「梅が香に のっと日の出る 山路かな」で、朝日が「ぬっと」出たのでは、やや不穏な気配がただよう。

"Mountain road where the plum blossoms are incense and the sun rises.” Matsuo Basho

〜梅の花が香る山道、太陽が昇る〜 これ以上、英語には換えられない。これでは、ただの説明文である。作品にならない。

宮沢賢治は、独特のオノマトペを用いたことでも、知られている。「クラムボンはかぷかぷわらったよ」『やまなし』。なぜか、大して違和感を覚えずしっくりくる。「実は何だか頭がもちゃもちゃしましたのです」これなど、現代の流行語のようだ。


オノマトペは、時に、本当に便利である。

たとえば、私たち日本人が天候を知りたい時。雨量を数値で確認などせずとも、オノマトペで事足りる。

ポツポツ・パラパラ・しとしと・ザーザー・どしゃどしゃ・ザーッと。雨足の強さのみならず、降る時間の長さまで、あらかたわかるような言葉もある。

『涙(なだ)そうそう』の「そうそう」は、涙が流れるのを表現した、沖縄の個性豊かなオノマトペだ。美しい。

日本人がソフト・パワーを欠いてどうするの?経済力は衰えた。軍事力は乏しい。ソフト・パワーはできるでしょう。


参考文献
https://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/onomatopoeia/onomatopoeia.html