可能なるコモンウェルス〈16〉

 一般に相続の関係を取り結ぶことができるものとされているのは、実際上「相続する者と相続される者が、その関係において相対的な立場にある」ということが明らかな場合にのみである。その関係の相対性にもとづいて、相続される者からする者へと、互いのその現状の立場は「移譲することが可能なものである」と見なされ、そこではじめて、相続される者とする者双方の、互いのその立場の「地位」が確立され、その地位に関連した諸々の「権利」なるものが、その地位に相応するものとして認められ、それ相応に担保されるところとなるわけである。
 ゆえに絶対王権君主は、自身から人民へ「主権者としての立場を相続させていく」その過程において、それまで彼が鎮座していた「被支配者人民・従属者臣民に対する、神の代理人という絶対的な立場」からは下りて、あくまでも「人民と同じ地平に立って」相続の交渉にあたらなければならない。少なくともその、「君主という地位の絶対性」は、彼の立場を表象する「看板」としては、これをそっくり掛け替えてしまうのでなければならない。相続する者もされる者も、皆が同じ立場に立っているということ、この大前提を何をおいてもまず双方が承認することにおいてはじめて、「国家・共同体を支配する者」に対して冠せられる「神性の代理人」という立場の相続は、ようやく成立する運びとなるのだ。

 一方、国家・共同体の支配者およびその地位に付される「神性の代理人」という立場が、君主から人民へと相続移譲されるそのとき、その国家・共同体支配の直接的根拠および超越的権威となる「神性の絶対性」は、一度「神性そのものに還元される」ことになる。
 またこれにより、かつて君主と人民の間に「生じていたかのように見なされていた、直接的な支配関係」は、その「関係の絶対性」が神性そのものに還元されることによって、実はその関係性自体「全く相対的なものであった」ということが、あらためて暴露されることにもなるわけである。
 「われわれと何ら変わるところのない人間による、われわれに対する一方的な支配は絶対許されない」という、「相対的支配の絶対的不当性」への告発は、「平等」の観念として人民主権の金科玉条となっていく。人が支配できるのは人ではなく、国家・共同体の方である。ゆえに「全ての人」は、「われわれと同じ立場にあって、われわれと共に、われわれの国家・共同体を支配する立場に立ちうる」ものでなければならない。こうした「万人の平等性」という、当の国家・共同体に内属する全人民によって共有された観念が、絶対君主による支配−被支配関係の相対性、および特定の者による独占的支配の不当をその根源から排し、完膚なきまでに無根拠化してしまうこととなる。
 しかしもちろん、それで「支配そのもの」までもがすっかり無根拠となるわけではない。そのように、「特定の立場にある者による相対的な支配は、全く不当なことである」として、「特定の絶対君主による一方的な支配」が徹底的に排されることでむしろ、「神性そのものの絶対的=超越的=全面的支配」が前面に露出してくるわけである。そして、「その正当=正統な代理人である人民」による、当の国家・共同体に対する「支配そのものの正当性=正統性もまた、全面化されることとなる」のである。

〈つづく〉

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