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「キッチン常夜灯」 長月天音
「私たちはみんな自分の世界で戦っていて、疲れ果ててここにたどり着く。空っぽになった身体に、新しい力を注ぎこんでくれるのがシェフの料理なんです。」
「キッチン常夜灯」 長月天音
我が家の近場に小さなフレンチのお店があります。
料理が美味しいのは言うまでもないのですが、お店のスタッフの心遣いが最高なんです。心をほぐすサービスが素敵なんです。店を出るときには、いつもサービスの女性スタッフとシェフがお見送りしてくれます。
仕事の休みの日にランチでお店に1時間と少し居るだけで、1日中幸せな気持ちになるんです。近場にこんな素敵なお店があってよかったって。
◇
この物語のみもざも、そんな素敵なレストランに心を救ってもらいました。
南雲みもざは「ファミリーグリル・シリウス」というファミレスチェーン店の店長。
それも浅草雷門通りに店があり、観光客が多く、いつもお客さんで賑わっていて、とにかく毎日忙しい!
みもざはとくに店長になりたかったわけでもなく、女性が活躍する企業を目指すという社長の方針で、32歳のとき無理矢理店長を押しつけられたのです。
昔から私は「真面目」だと言われてきたけれど、「店長」という鎧は、真面目な私にとっては本当に呪いでしたなかった。
みもざはレジのトラブル、クレームの処理、お客さん同士のトラブルなど何かが起これば、前面に出て対応しなければならないのです。
店長だからこそ向けられる言葉の刃に傷つき、スタッフとの意識の差が矢のように胸に突き刺さる。店を出て鎧を脱ぎ棄てれば、私の体は満身創痍だ。
みもざは、その重圧に夜も眠れなくなっていました。
風の強い夜でした。
帰宅してラベンダーのバスソルトを選び、お風呂に入ります。
温まった体でベッドに入り、眠りの尻尾をつかみかけていたとき、外が何やら騒々しい。
真夜中だし、怖くて息を殺していると
部屋のインターフォンが鳴ります。
直後、ドンドン・ドンドンと玄関のドアが叩かれます。
隣に住む大家さんの声。
「み・も・ざ・ちゃ~ん、火事よぅ」
大家さんと一緒に、みもざは逃げました。
出火元はみもざの部屋の真上の部屋でした。みもざの部屋は水浸しになり、住める状態ではなくなりました。
会社に報告すると、元社員寮で今は倉庫となっている場所を住まいとして提供してくれました。
その倉庫を管理している金田さんもそこを住まいとしていて、みもざの相談にのってくれたり、住まいの世話を請け負ってくれたのです。
◇
その日の私は八面六臂の働きをした。
ホールを走り回り、料理が出てこないと言われてキッチンのヘルプに入る。そうかと思えば、レジを打ち間違えたと呼ばれてお客さんに謝った。
毎日遅くまで緊張状態の仕事に、みもざの心と体は限界。
帰りの電車に乗れたのは午後11時。
そのとき、金田さんがとても美味しかったレストランが近くにあると話してくれたことを思い出します。そのお店は夜遅くまで開いていて、みもざは好奇心からそのお店に行ってみようと思います。
しかし
周囲はマンションの立ち並ぶ閑静な住宅地。路地を進んでいると不安になってきました。時刻は午前0時を回っています。
すると
淡く光を放つ、ぽっかりと浮かぶ行燈のような看板がありました。黒い文字が影絵のように浮かんでいます。
「キッチン常夜灯」
窓はすべてステンドグラスになっていて、色とりどりの淡い明りが外を照らしています。
中に入ると
「いらっしゃいませ」
廊下の奥から女性がひょっこり顔を出した。
非日常感が溢れ出ていて、店の雰囲気もスタッフのお人柄も素晴らしいとみもざは感じます。
「キッチン常夜灯」はフレンチのお店。
みもざは「牛ホホ肉の赤ワイン煮」を注文しました。
「ここでは、肩の力を抜いてお料理を楽しんでいただきたいんです。」
サービスの女性・ソムリエの堤千花は、そう言いました。
シェフの男性・城崎恵ができあがった料理を運んできます。
「ごゆっくり」
シェフは小さく微笑んで奥に下がり、鍋を洗いました。
赤ワインとフォンドヴォー、牛肉の旨みが溶け出した芳醇な香りが皿から立ち上がっている。
ダウンライトを浴びて輝く黒に近い赤褐色のソースは、まるでビロードのように滑らかだ。
みもざは一口、料理を口に入れます。
「……美味しい」
ため息が出た。
お腹も心も満たされてゆきます。
「いつまでもこの空間にいたい!」
そう思いながらお店をあとにします。
坂道を下りながら振り返ると、まだ彼女が玄関で見送ってくれていた。
◇
それから、みもざは何度か「キッチン常夜灯」を訪れ、堤さんやシェフと楽しい会話をし、美味しい料理で心とお腹を満たしました。
いつも来てスープを飲んでいる奈々子さんや、常連さんたちとのふれあいでみもざは仕事の嫌なことから解放されました。
キッチン常夜灯は、午後9時から午前7時まで営業をしているのだそうです。
「案外、行き場のない人ってたくさんいるんです。どんな人でもたどり着ける真夜中の居場所を作りたいって、この営業時間を決めたのはシェフです」
キッチン常夜灯は、毎日仕事で奮闘し、疲れ果てたみもざの心の拠り所であり、とまり木となっていました。
それだけではありません。みもざは城崎シェフや堤さんの人間力に惹かれ、それを自分の仕事に活かしていくのです。人間関係を良好に変えていくのです。
いつも朝まで居て、スープを飲んでいる奈々子さんにも理由がありました。キッチン常夜灯が奈々子さんの体と心をいつも温めてくれていたんです。
美味しい料理は力になります。
幸せを感じさせてくれます。
「私もここに来るたびに思っていました。どんなに疲れていても、昼間に嫌なことがあってイライラしても、シェフのお料理はいつも美味しかった。ちゃんと美味しいと感じることができた」
(中略)
「夜中なのに、シェフは美味しいお料理を用意して私たちを待っていてくれるんです。私たちはみんな自分の世界で戦っていて、疲れ果ててここにたどり着く。空っぽになった身体に、新しい力を注ぎこんでくれるのがシェフの料理なんです。そして、周りには自分と同じように頑張っている人がいる。だからここは居心地がいいんです」
夜って、何気に不安になることはありませんか?
僕は決まって不安になるのは、夜のことが多いんですね。
そんな不安を感じた夜に、この「キッチン常夜灯」を読みはじめました。
いつしか「キッチン常夜灯」に毎晩立ち寄って、美味しい料理をいただいている感覚になっていました。
料理の美味しそうな描写に、何度お腹が鳴ったことでしょう。
そして
みもざにシンパシーを感じ、城崎シェフの料理と堤さんのサービスや癒しの言葉の虜となっていました。
こんなにもやさしい気持ちにさせてくれて、心があったかくなるなんて。
本を閉じると堤千花さんが、いつまでも見送ってくれている気がしました。
「いつでもお待ちしています。ここは朝までやっていますから」
【出典】
「キッチン常夜灯」 長月天音 角川文庫