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「ミツザワ書店」 角田光代

「だってあんた、開くだけでどこへでも連れてってくれるものなんか、本しかないだろう」



「ミツザワ書店」 角田光代 「さがしもの」より



思い出す本屋はたくさんあるけど、やはり一番に思い出すのは、家の近くにあった本屋のことです。


この「ミツザワ書店」を読んだあと、もう今はないけど、暇さえあれば通っていた、家の近所の本屋を強烈に思い出しました。


         ◇


文芸雑誌の新人賞を受賞した「ぼく」に新聞記者が質問しました。


本が出たら一番最初にだれに伝えたいですか、と言われたとき、思い出したのは、恋人のゆう子でもなく両親でもなく、ミツザワ書店の、背中のまるいあのおばあさんだった。

ミツザワ書店のおばあさんですと、しかしぼくは言わず、とりあえず親に、と無難な答えを口にした。


ミツザワ書店は、「ぼく」の生まれ育った家の近所にある本屋でした。覇気のない商店街のはずれにミツザワ書店はありました。それは、ありふれたごく普通の本屋でした。


中に入ると倉庫のように雑然としていて、棚以外にも床から本が積み上げられていました。


レジにも本が岸壁のように積まれていました。その岸壁の隙間からのぞくと、いつもそこには背中のまるいおばあさんがいました。


おばあさんは、いつも売り物の本を読み耽っていました。


「ぼく」が本をさがして、見つからないとき


何々を捜していますと言えば、おばあさんは岸壁の向こうからのそのそと出てきて、まるで犬が嗅覚を頼りに穴を掘るみたいに、ぴたりと立ち止まり本の塔に手を突っ込むようにして、その一冊を取り出してくれる。妖怪みたいだとぼくは思っていた。

店を満たす膨大な本の配置は、そっくりそのままおばあさんの頭にあるのだ。


いつしか


「ぼく」は、ミツザワ書店よりも繁華街の大型書店に行くようになります。中学、高校と大人に近づいていくにつれて、おばあさんに声をかけるのがいやになったからです。


ミツザワ書店に足が遠のいていた理由が、もうひとつありました。


「ぼく」は、ずっとそのことが心に引っかかっていたのです。


それは、高校生の頃


あまり立ち寄らなくなっていたミツザワ書店に、注文していた定期購読の雑誌を母に頼まれて取りに行きました。


あいかわらず、おばあさんは岸壁の本の向こうで何かを熱心に読んでいます。


書名を告げると、おばあさんはその雑誌を苦心しながら捜します。本屋にあるすべての本の場所は正確に把握しているのに、注文されたものだけは覚えられないようでした。


そのとき


「ぼく」は、台に積まれた一番上の本に目がいきました。箱入りの分厚い本です。強烈にその本に惹かれます。本をひっくり返し値段を見ます。一万円近い。息をのみます。この本を読みたい。この本を所有したい。


「ぼく」はこの本を誰にも買われたくなく、本を下の方に隠しました。


次の週、ミツザワ書店にその本を見に行きました。


すると


下の方に隠したその本が、積み上げられた本の一番上にあったのです。


だれかが買おうとしているんだとぼくは思った。その本を手に取り、さらに下にさしこんで、逃げるように店を出た。


家に帰っても、ずっとその本のことが忘れられません。


毎日、毎日、学校帰り、ミツザワ書店に寄りました、例の本は、隠しても、隠しても、目につく場所に並んでいました。


その後も一万円は貯まらない。


そうしてぼくは盗んだのだ。


誰かに買われるくらいならと、
その本を盗んでしまったのです。


以来、「ぼく」はミツザワ書店に近づきませんでした。


         ◇


「ぼく」は、新人賞をとったからといって、二作目を順調に書けないでいました。


「これから書き続けることができるのか?」
「もうやめてしまいたい」と思ったとき、
思い出すのは、ミツザワ書店のおばあさんのことでした。


そうして


受賞作が単行本になり、遠のいていたミツザワ書店に寄ってみようと「ぼく」は思いたちます。


11年の歳月を経て「ぼく」はミツザワ書店に向かいます。財布には盗んだ本の代金を入れ、そして単行本になった自分の本を持って。


しかし


ミツザワ書店は、シャッターが下りていました。


しばらく茫然と立ち尽くしたあと、「ぼく」は、店の裏手の住居を訊ねてみます。


インターホンを押し、しばらくすると女の人が出てきました。


「あ、あの、以前、こちらでよく買いものをしていた者なんですが」


そう言うと、女の人は


「どうぞ、おあがりになって」
女の人はぼくに笑いかけた。


こじんまりとした居間に通され、
「ぼく」は口ごもりながら言いました。


「あの、えーと、おばあさんはお元気ですか」
女の人は口元に笑みを浮かべたままぼくを見て、

「他界しました。去年の春です」
静かな口調で言った。


女の人は、おばあさんのお孫さんでした。


「じつはお詫びしなきゃならないことがあって今日はここまできたんです」


「ぼく」はうつむいたまま事情を一気に話します。


「本当にすみませんでした」

ぼくは財布から本の代金を取り出して
ソファテーブルに置き、深く頭を下げた。


すると


「じつはね、あなただけじゃないの。」


とお孫さんは言いました。


「見ますか、ミツザワ書店」
女の人は立ち上がって手招きをした。

(中略)

本の独特のにおい、紙とインクの埃っぽいような、甘い菓子のようなにおいがぼくを包みこみ、目の前に、あのなつかしいミツザワ書店がそのまま立ちあらわれる。


お孫さんは、「お店をそのままにしている」と言いました。


いつかここを解放し、この町の人が読みたい本を好き勝手に持っていったり、気が向いたら返してくれるような、そんな場所を作れたらいいと。


         ◇


素敵だなぁと思いました。ミツザワ書店。


おばあさんも、お孫さんも。


お孫さんがあるとき、おばあさんに「本のどこがそんなにおもしろいの?」って訊いたのです。


その言葉が素敵でした。


『だってあんた、開くだけでどこへでも連れてってくれるものなんか、本しかないだろう』


         ◇


「ぼく」は、自分の単行本を塔になった本の一番上に置きました。


「今日はどうもありがとうございました」
女の人は頭を下げる。

「いえ、こちらこそありがとうございました」

「そうじゃなくて。本。お買い上げいただいて」
女の人はおかしそうに笑った。

ついさっきぼくが出した本の代金のことを言っているのだと、わかるのに数秒かかった。

すみませんと頭を下げて、ぼくも笑った。



【出典】

「ミツザワ書店」 角田光代 「さがしもの」より 新潮文庫


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