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野田祥久郎
2019年3月21日 10:35
ずっと会社を立ち上げたらこの名前にしようと考えてた名前がある。それが『LA+』読み方は「ラクロス」LはLibertyのL 自由、解放AはattitudeのA 姿勢、熱意それが+(クロス)されるときに無限の可能性がある自分の力で勝ち取った自由=独立そんな意味でこの名前をつけた。そしてちょっとカッコイイ感じにしようと笑(カッコイイかはわからないけれど)もう5年くらい前の話
2019年2月6日 21:51
野田祥久郎(のだしょうくろう)という名前を思いついたのは29歳になって1ヶ月後、品川にある昭和大学病院のベッドの中だった。その日は朝から体調が悪く、寒気と喉の痛みが時間が進むごとに酷くなっていった。2日間、恵比寿三丁目スタジオに缶詰め状態だったけれど、2日目午前中の準備はアシスタントに任せて病院に行った。1月の終わりだったのでインフルエンザかなと思ったけれど検査は陰性だった。薬をもらい、寝
2019年2月5日 21:43
東京が面白くないというと、実際のところはもちろんそんなことはない。モノはある。日本で、世界でも屈指の都市だ。どこに行っても楽しい。東京から発信されるカルチャーは世界の標準にもなる。海外の初モノは東京に、東京にいれば世界のファッション、アート、飲食店、すべてではないにしろ、なんでも手に入る。街中を歩けば世界各地から観光客が来ている。オリンピックに向け区画整備を様々な場所で、それに便乗して
2019年2月3日 17:17
さよなら東京、こんにちは福岡。 その1東京に来て初めて住んだ場所は川崎市だった。というとなんだか可笑しいけれど、ド田舎の大分から上京した僕にとって東京も神奈川も同じようなものだった。多摩区の中野島というこれといって何もないけれど、住むには丁度いいところに当時大学の陸上部の寮があったからだ。川崎から立川までJR南武線が通っていてちょうど真ん中より少し川崎よりだった。隣りは登戸、逆隣りは稲城長
2019年2月2日 21:47
東京に初めて行ったのは小学校4年生3月、ドッジボールの全国大会だった。大分のド田舎で育った僕にとって東京という街は、この世界のどこでもないような気さえした。中学生になり引退するまで5回、全国大会で4回、アジア大会で1回、東京に行った。そこから約6年間東京とは縁がなかった。中学生からは陸上競技にのめり込み、次に東京に行ったのは、全九州高校駅伝が終わって直ぐ11月、大学の推薦入試のときだった
2018年10月14日 22:06
いろいろなコピーの中で、ミツカンのこのコピーが一番素敵だと思ってる。岩崎俊一さんのコピーではToyotaプリウスの「21世紀に間に合いました」が、当時ハイブリッド車を発売した当時にしっくりとくる。ガソリン車が主流だった当時に電気オンリーではないけれど、21世紀という未来の前に作りあげた車。やがて、いのちの変わるもの。人間の三大欲求の一つ「食」口に入ったものは、それは血に変わり、肉に変わり、