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【連載小説】息子君へ 113 (25 かわいがられすぎていいことなんてないんだよ-6)

 どうなんだろう。これを読んでいる君は、そういう俺の考え方にすんなり納得できるような感じ方をしているんだろうかね。世の中では、お互いのいいところを見付けて、それをほめ合うことが大事だとか、叱るのではなくほめた方がいいとか、そういうようなことが延々とアナウンスされているのに、ほめなくていいなんていうのは無理のある逆張りなんじゃないかと思うんだろうか。
 もちろんほめることにポジティブな効果があるというのはわかっているんだよ。俺はただ、ひたすら甘やかされて、何をしてもほめてもらって、何でも欲しい物を与えられるような育てられ方は有害だと思っているだけで、自分を大事にしてくれる存在が自分にはいると安心しながら育つべきだし、親のことが好きな子供に育つことができた方がいいとは思っているんだ。
 誰だって好意的に接されるとうれしいし、ほめてもらうとうれしいし、お世辞を言われても自動的になんとなくうれしくなってしまうものなのだろう。人間はそういうものなのだから、ほめてあげることでいい気持ちになれるのだし、それを有効に使えばいいだろうと思うのかもしれない。実際、相手にいい顔を向けてほめてあげることで相手の気持ちを動かすことができて、そうやって気持ちを動かせたから伝えたいことが伝えられたということはよくあることなのだろう。
 発達障害の子供で、まだ言葉があまり出ていなくて、マナーも理解できていないくらいの頃に何かを教えていくときに、どういうことに気を付けてあげるといいかというようなことが書いてあった記事を前に読んだけれど、そこではひたすら相手のペースに合わせるべきだとか、紙に書かれたものや写真とか、相手が受け取りやすい情報で伝えるとか、これから何をするのかわかったうえでやらせてあげるのがいいとか、そういうことに加えて、とにかくいっぱいほめてあげるといいと書いてあった。
 発達障害の子供じゃなくても、ほめてあげると楽しい気持ちになるし、それをやることに前向きになれるのだろう。けれど、定型発達の子供であれば、ほめてあげなくても、相手がそれをすることを求めていることはわかるから、やらなくてはいけないことだとわかったうえでやってみるし、できるようになったなら親は満足した感じだし、注意もされなくなるから、これでよかったんだと思って自分で納得できるのだろう。
 発達障害の子供の場合、相手から自分に向かってくる行為が自分に向けられた行為だと自動的に受け止められないし、知覚能力や認識能力の発達度合いによって、相手の行為もひとまとまりの行為として受け止めにくかったり、相手のしてくれていることを自分と相手との関係の中に位置付けたりすることが難しかったりもするのだろう。定型発達であれば、いい感情が行き来しているだけで、その心地よい感触が報酬になるけれど、意思疎通がうまくいった心地よさを感じない相手には、はっきりとほめて、別の心地よい刺激になるものを与えないと、その行為を自分にとっていい行為に思ってもらえないということなのだ。
 発達障害の子供も、自分の好きなことはやっていられるし、自分の中で連続性があればそれを自然とやれるのだろう。けれど、ひとから言われてやらされることだと、なんだかよくわからないことをよくわからないままにやらされた感じになって、やってみたからといって、それだけではそれがいいことだったのかもわからないことが多いのだろう。
 他の記事では、発達障害の児童は失敗からは学習できなくて、成功からしか学べないということも書いてあった。何か失敗したときに叱っても、それでできるようにならないから、うまくできたときにほめるというのをとにかくやるしかないということだったけれど、それもそういうことなのだろう。何かをしてみたときに、親がいい顔をして、いい声をこちらに向けてくれたなら、自分にとってはまだその行為に意味がなくても、それをすればいいことが起こるということは理解できる。だから、自分でいろいろやり始めるようになるまではとにかくほめてあげてその行為をすることが楽しいことになるようにしてあげるのが本人にとってサポートになるということなのだろう。
 人間だけではなく、ある程度以上の知能がある動物はみんなそうなのだろうけれど、因果関係的なものを発見したり確認したりすることには快感がある。そして、何かしらの行動によって報酬が得られるのを知ると、その行動を好んでするようになるという性質もある。何かをしたときに特別ほめられるなら、その行為がほめられる行為として報酬の得られる行為ということになって、それをするのが自分にとっていいことになるのだろう。
 親がはっきりとほめることによって、今やったことが楽しいことを起こさせる行為だということを知るのは楽しいことで、その楽しさでそれを習慣化させたうえで、だんだんその行為の意味を知っていくというのが子供の側が受け入れやすい流れになるということなのだろう。
 逆に言えば、ほめるということにはそれくらい威力があるということでもあるのだろう。相手の気持ちをまともに感じていなかったとしても、相手がはっきりほめてくれたら、目の前でいいことが起こって、それが自分のやったことによってそうなったのだと思えるのだ。そして、それが心地よくて、もっとほめられることをやって、もっとほめられたくなるのだろう。
 何かを欲しがって、それを手に入れたらうれしくて、それがもっと好きになるという気持ちの動きというのは、とてもポジテイブなものに思える。けれど、ほめられることが好きになるというのは、そんなにいいことなのかということだろう。自分のやったことが周囲のひとたちにいい影響を与えられたなら、いいことができたことになる。それは全てのひとが自分のやったことの良し悪しを判断する基準にできるような観点だろう。けれど、相手が喜ぶようなことをしたというのは、それに当てはまるときと、当てはまらないときがある。相手が自分の思い通りになったことで喜んでいるのなら、それは相手が喜ぶようなことをしてあげたというだけの価値しか持っていないのだ。それと同じように、ほめられたくて、ほめてもらえるようなことをしようとするときにも、相手はほめてあげられるようなことをしてくれたから満足というだけだし、自分もほめてもらえることをしたというだけになるし、人生経験となって発展していくものはそこにはほとんど何も行き来していないのだろう。
 ボタンを押せば餌が出る装置があると、猿はずっと餌が欲しくなるたびにその装置のボタンを押すようになる。猿は生きていることを長いスパンで楽しんでいるわけではないから、自分らしくありたいなんて思うわけもなくて、餌が欲しい気分というのは、ただ餌が手に入ればいいというだけで、そうしたときには、餌がほしいときにボタンを押したら餌が出てくるというのは、とても快適で、それができるならいつまでもそれでいいと思ってしまうのだろう。
 猿はそういうものだし、人間だって似たようなものなのだろう。今は手元にある端末のボタンを押したり画面上のボタンエリアをタップするだけですぐに気持ちよくなれるコンテンツを楽しめるようになっている。猿でいえば、携帯できるボタンを所持して、どこにいてもボタンを押せば餌が手に入るような状態なのだろう。なんとなく暇だし余計なことを考えたくないからと携帯電話を見て、好きにできる時間があるたびに携帯電話でゲームをしたり漫画を読んだり、家に帰ってもテレビを見ながら携帯電話を触って、インターネット動画やドラマを見たりしているうちに寝る時間になっているのなら、それは猿がボタンを押しているのと大差がないのだ。
 それがいいとかよくないということではなくて、ただ単に、人間はそんなふうにできているのだ。まわりのみんなと同じように振る舞おうとはするから、みんなの中にいるときにはみんなに合わせるけれど、ひとりになって好きにできるのなら、いくらでも猿になれてしまう。特に何の感情もなく、手近にあるものに手を伸ばすというだけという感じで、買い物したりインターネットを検索したりして、いつものお菓子を食べて、いつものゲームをして、いつもと同じようにコンテンツ消費して、いつもと同じように笑っているという姿は、子供はみんなある程度そんなものだったり、家に帰って疲れてぐったりしているときは、そんなふうになってしまうものなのかもしれないとしても、他人が見ているには、つまらないやつだなとしか思えない姿だったりするのだ。
 ものを与える場合だけじゃなくて、愛情を与えるようなことでも同じだろう。家に帰れば母親がいて、自分が求めれば、どんなときにも味方になってくれて、どんなことでもほめてくれるというのは、それでいい気持ちになってしまえる人間にとっては有害だろう。そういう意味では、マザコンというのは、自分の部屋の中で自由時間に猿になっているだけではなく、家庭の中での時間全部をまるまる猿になっているという感じなのだろう。
 子供にとって自分を甘やかそうとしてくる親は、甘やかされるままになってにこにこしていれば、いろいろ楽しいものをもってきてくれる存在なのだ。世の中には子供向けの楽しいものもたくさん用意されていて、親の言うことを聞いていればそういうものを次々と手に入れられる。そんなふうに、今の子供はどういうボタンを押せば何を手に入れられるのかということばかり学んで大きくなっていくのだろう。逆に言えば、そんなふうにして、ボタンを押してばかりいる猿のような行動パターンの子供に仕立てあげることで、親はペット的なかわいがり方を成り立たせているということなのだ。
 先回りしてかわいがりすぎて、かわいがられることに甘んじる子供にするというのは、実験の猿にやっていることと、それほど大きな違いはないだろう。違いがあるとすれば、子供はいつか親にかわいがられてもうれしくなくなって、他のボタンを探すようになるというくらいのことだろう。それは仲間と集まってえらそうにすることだったり、モテだったり、ひたすらコンテンツ消費にのめり込んだりすることだったりするのかもしれない。何にしろ、親からコミュニケーションをまともに学んでいないのだから、友達からコミュニケーションを教えてもらう機会がくるまでは、ボタンを押すだけで楽しめるものを他に探し続けることになるのだ。
 俺が君に自分らしいひとになってほしいと何度も繰り返しているのも、同じことについて語っているのだとわかるだろう。ボタンを押していいことが起こるのを待っているだけの見ていてもつまらない猿にならずにすむような、もっと自分が自分の感じ方を楽しみながらあれこれしたいことを自分で探す子供になれるような、そういう環境こそ、親は子供に用意してあげるべきなんじゃないかと俺は思っているんだ。
 君は自分らしくならなくてはいけないというのは、そのためなんだ。それをすれば気持ちよくなれることをするという、報酬が得られる行為をしたいという人間の自然な気持ちの動きとは別の動機で行動するためには、自分らしくありたいという気持ちが必要になってくる。ひとは自分の中にしたいことがはっきりとないとき、とりあえず利益の大きそうなことをしようとする。損得ではなく、自分がそうしたいからするという感覚は、自分はうまく立ち回れればそれで充分なのではなく、自分は自分が感じたことや思ったことの続きを生きていきたいという感覚に支えられているものなのだ。
 思春期以降になると、価値観が社会化されているし、自分の感情を生きられるようにとか、自分らしくあれるようにと思っていないと、まわりの状況や損得勘定に流されてばかりになってしまうものなのだろう。けれど、子供は放っておかれれば自分で自分を楽しませられることをしようとするものなのだ。餌の出るボタンを与えられた場合に、そのボタンを押していればいいと思ってしまうだけで、そういうボタンさえなければ、子供はひとりでも自分が自分であることに充実していけるはずで、自分が世界に何を感じるのかということを自分で楽しんでいられるはずなのだ。
 親が子に対して、ほめるかけなすかという、損得の色のついた問いかけばかりすることは、ほとんどボタンを差し出しているのと同じなんだ。ほめられるかほめられないかでは、自分の取る行動によって起こる反応の違いが大きすぎるし、その反応によって自分がどんな気分になれるのかという違いも大きすぎる。そんな状況では、わざわざ叱られるのは面倒くさすぎるし、ほめられないよりもほめられていた方がどうしたってマシだから、毎回律儀に正解を選ぶようになっていくし、それで気分よくやれているうちに、さっさと正解を探そうとすることをよいことだと思うようになっていく。
 ほめるかけなすかでコミュニケーションをとられることは、子供からしたときには、当然とてもつまらないことではあるのだろう。それでも、ほめようとしてこちらの行動を誘導してくるひとに対しては、パターンに合わせて行動するだけでいいから、結果が見えない不安もないし、自分は何も考えなくていいし、何も決めなくてもよくて、圧倒的に楽なことだったりしてしまう。
 その結果として、いい子ではありそうだけれど、その子らしさの薄そうな子供が量産されていっているのだろう。俺の頃は、もっと男の子には何を言っても無駄だと放置されていたけれど、子供たちだけで毎日長々と遊んでいられるような交友関係はなくなってきたのだろうし、それと並行して子供を放置することはよくないことに思われるようになって、子供が家の中で家で過ごす時間は増えたのだろうし、ひとりで遊ぶ時間も増えて、他人といてもひとりですることをして過ごしていることが増えて、それによって、日々のまともにひとと関わった時間の中で母親が占める割合がどんどん増え続けていたりもするのだろうと思う。そして、その親がそんな親だったなら、子供には逃げ場所なんてないのだ。

 自分がどう思うかよりも先に正解を探そうとする子供というのは昔からいたのだろうし、俺の頃もそれなりにいたのだと思う。マイペースさが少ないし、さほどそのひとらしさもない、小賢しくて、わざとらしい子供たちがクラスの中にはいつも何割か混じっていた。自分ではそう思っていなくても、よほど身体的に特徴でもないかぎり、まわりからはその他大勢のうちのひとりのように思われていて、あまり面白いところがなくて、子供らしいバカっぽさにしかかわいげのない、親からしてもつまらないやつだなと思われているような子供たちが、いつの時代も大量にいたのだろう。というより、子供のときに、まわりの顔色をうかがって、ひとの真似ばかりして生きていたら、どうしたってそうなってしまうのだろう。
 そういう子供だったとしても、思春期以降で、ただ自分の近くにいたひとに合わせて楽しくやるという以外に、自分がやりたいことをやろうとしたり、自分が行きたい場所に行こうとしたり、自分が仲良くなりたいひとたちと仲良くなれるようになろうとしたりとか、そういう気持ちが生まれたなら、その気持ちに自分を変えられていくような経験をするうちに、正解を探す以外の世界への視線の向け方を自分の中に見付けだしているのだろう。けれど、そういう経験もほとんどないままだった場合は、二十代の中頃には、バカだったら、まわりをげんなりさせてばかりの軽薄な若いおじさんおばさんになっていくし、頭がよかったとしても、勝ち負け意識が強くてえらそうにしたがる面倒な若いおじさんおばさんになっていくのだろう。
 正解を選ぶことが自分のやるべきことだと思っていると、うまくやらないと損だとか、勝ったやつがえらいとか、負けたやつが悪いとか、そういう思考になってしまうしかなくなってしまうのだ。
 俺の母親が俺をおだてたりして調子のいいことをさせようとしなかったのは、それが嫌だったというのもあるのかもしれない。俺の母親はブスであることでずっといろんなことで損な立場に置かれてきて、けれど、ひとをバカにしてばかりいるやつらばかりがいる中で、自分の居場所で自分の役割や仲のいいひとを作って、人並みよりはよほど嘘が少なく堂々と生きてきたひとだった。自分に似ずに比較的きれいな顔をした男の子だったからといって、ずるくうまく立ち回って、ひとをブス扱いしたり、バカにできそうなひとをバカにして楽しそうにしているような子供にしてたまるものかと思っていたのかもしれない。
 俺の母親だって、小さい頃から親から全然ほめてもらえなくて、祖母に似て優秀な姉と比較されてがっかりされながら育ったわけだし、自分は自分なりに頑張っているのに、自分のことももっと認めてもらいたかったという気持ちはずっとあったのだろう。俺が実家を出たあとではあるけれど、祖母が呆けてから、関東にいる姉ではなく、地元にいる自分に頼るようになって、あんなに昔はお姉ちゃんばっかりで自分は認めてもらえなかったのに、今になってそんなのもひどいと泣いたりもしていたらしい。小さい頃からずっと悲しくて、けれど、実際に祖母や姉より優秀じゃなかったからと、出来の悪い娘として母親と関わってきたつもりだったから、頼ってもらえて親孝行ができるからといっても、どうして歳を取って弱くなったからといって、昔のことがなかったみたいなふうに自分に頼るのかと、ずっと我慢していた自分の気持ちを裏切られたような悲しみがあったのだろう。
 親からほめてもらえなくて、いかにも自分の血を引き継いだ娘だと認めてもらえなかった悲しみがあったから、俺の母親は、自分の子供に対しては、ほめるとかほめないではなく、ただ子供は自分がしたいことを見付けて、それを楽しめていればいいと思っていたのかもしれない。出来がよくても悪くても、それをほめたりおだてたり、出来が悪いとがっかりしたりせずに、喜んでいればよかったねと見守って、うまくいかなくても助けを求められるまで見守って、ただそうやってちゃんと見ていてあげることが、自分の役目なのだと思っていたのかもしれない。
 俺の母親が、それとは逆に、自分はもっとほめられてかわいがられたかったのにそうしてもらえなかったからと、自分の子供はたくさんほめてたくさんかわいがってあげようと思わなかったのは、親に認めてもらえなかったからといって、それを恨んではいなかったというのもあったのだろう。姉を自分に似た頭のいい子供として扱っていたからといって、姉も俺の母も祖母に似たブサイクな顔だったし、かわいがられていたというわけではなく、子供の中で一番何でも好きにさせていたというくらいだったのだろう。そして、その優秀な姉も、学校では優秀で絵画でもよく賞をもらったりしていたけれど、学校でも有名な何を考えているのかわからない変人という扱いだったらしい。母親は姉と同じ中学に行ったから、先生にあいつの妹のわりにはたいしたことないなと言われたりもしたけれど、先輩からあの変人の妹かと言われたりして、家でもふんぞり返って自分のことを無言でバカにしてひとりで勉強したりしていたけれど、姉は外でもそんな感じだったんだなと呆れたりもしていたらしい。そして、まだ家が貧しかったり、金があまりなくても大学に行かせる時代ではなかったから、姉は芸大には行けず、資生堂かどこかのデザイン室みたいなところで採用されて上京して、自分は平均程度にしか勉強ができなかったけれど、名古屋の短大に行かせてもらって大学生活を楽しんだし、自分は母親に認められてはいなかったけれど、姉ばかり優遇されていたとは感じていなかったし、祖父は女は大学なんて行かせなくていいと言っていたのを祖母が行かせてくれたようなものだったりで、母親は自分の幸せを願ってくれて、できるかぎりのことをしてくれたとも思っていたのだろう。
 きっと俺の母親は、自分の母親の子供たちへの態度とか接し方を正しいものだと思っていたのだろう。もっと裕福な家の子やかわいい女の子がまわりからちやほやされて、かわいい服を着せてもらって、おもちゃも買ってもらって、甘やかされて、自分がそんなふうに扱われて当然と思っているような、思い上がった態度をとっていたのを横目に見て、それをだんだんバカにするようになっていったのかもしれない。自分の母親は立派で、自分はその母親に甘やかされずに育ててもらったという自負のようなものを、ナチュラルに思い上がったひとたちを目にするたびに感じたりしてきたのかもしれない。
 ほめることがとにかく大事だというのは、ほめようと頑張らないと相手にいい感情が向かわないようなひとに対してのアドバイスであって、俺の母親はそういう物言いを聞いたり、出産後に子育てについてのいろんな本や雑誌の記事を読みながら、バカバカしいと思っていたのかもしれない。そして、俺の母親は、自分が思ってきた通り、子供のやることをちゃんと見てあげながら、ケチをつけるようなことはせずに、やったことがどうだったねとまともに反応してあげながら育てたのだ。
 もしかすると、まだ俺や弟が小さい頃なんかに、自分の子供への接し方にこれでいいのだろうという手応えを感じたりしながら、子供をかわいがりすぎて甘やかしすぎている他の母親の姿を見るたびに、その子供をかわいそうにと思っていたのかもしれない。
 ほめないと子供に自信がつかないとか、ほめながら指導することが大事だというようなことは昔からよく言われていたことなのだろう。確かに、子供にとって、劣等感とか自分はできないという意識は、とてつもなくよくないものなのだろう。けれど、劣等感の裏返しのようにして、思い上がった子供にしてもしょうがないのだ。
 ほめられているから自分はえらくて、だから何でもいいからほめられる状態をこれからもキープしていないといけないという気持ちで生活しているのなら、自分がしたいことをするよりも、ほめてもらえれば気分がいいからと、確実に気分のよさを確保しにいこうとする、コストパフォーマンスばかり気にする損得で動く人間になってしまっているということなのだし、その子は自分が自分であることに安心できている状態ではなくなってしまっているのだ。
 自分はこの場に受け入れられていて、うまくいかなくてもどうにでもなるし、みんなに親切にしていれば誰とでもそれなりにうまくやれるはずだと思って、自分は自分の好きにしていいんだと思えているのが、自分がそこにいることに安心できているということだろうし、そう思えているのが自然な状態だろう。そして、そういう状態というのは、ほめまくることではなく、好きにさせてあげて、見守って助けが必要なら助けてあげることで、自然とそうなっていくようなものだろう。
 確かに、子供のやることにケチをつけたり否定したり機会をとりあげるほどに、その子は不自然な状態に歪んでいくのだろう。けれど、ほめまくってとりあえずほめてもらえるような行動を取ろうとするようにしてしまうのだって、子供を不自然に歪めているのだ。
 実際、俺は今まで関わってきた男たちの中では、かなりナチュラルに自分が自分であることに自信があるというか、自分の行動を自分はこれでいいんだとためらいなく相手に向けられる方だった。そして、尊大だとは思われてきただろうけれど、虚勢を張っていると思われていたことはほとんどなかっただろうし、先輩風を吹かせたがると思われたこともほとんどなかったのだろうと思う。ほめられることにむしろ居心地の悪さを感じるように育った俺の方が、ほとんどのひとたちより、ひとの輪の中にいて、話し合ったり、気持ちをぶつけ合ったりしているときに自己肯定感が高かったのだ。
 ほめられてうれしくなって出るパワーなんてそんな程度のものなんだ。かわいがればかわいがるほどよくて、いっぱいかわいがって、いっぱいほめてあげることがその子のパワーになるなんて、本当にバカげた話でしかないのだ。

 小さい頃、俺はテレビを見ていて母親に「お母さん、どうしてうちにはママがいないの?」と言ったらしい。テレビで見るママたちと、自分がお母さんと呼んでいるひとが同じカテゴリーのひとに思えなかったということなのだろう。テレビの中のママたちの、いかにも優しそうな顔で、子供に向ける口調で語りかけて、かわいがってあげようといかにも優しく抱きしめるような子供に対しての態度が、自分の母親が自分にしてくれているものとかけ離れたものに感じられたのだろうけれど、母親もなるほどと思っただけで、特にショックを受けたわけでもなかったらしい。
 もちろん、俺の母親は自称ブスの東大があれば入れたというひとだから、テレビに出てくるママたちと自分の母親が見た目として全く別カテゴリーの存在に見えたという可能性もある。けれど、さすがにそれなりに喋る頃の話だろうし、その頃には保育園でいろんなママと呼ばれる女のひとたちを目にしていたのだろうし、顔というよりは、雰囲気とか子供への態度で、ママとお母さんは別のものだと感じていたということなのだろう。
 君はお母さんのことをママと呼ぶのだろうし、君のお母さんは俺の母親よりはるかにかわいいけれど、子供が安心して育って、自分は自分だし自分はこう思うんだからこれでいいんだといつでも思っていられるようになるためには、優しくてかわいくて甘やかしてくれるママなんて全く必要じゃないんだ。
 そのためには、したいことをすればいいんだよと思いながら見守ってくれるお母さんがいれば充分なはずなんだ。けれど、たくさんのお母さんたちが、もっと何かしてあげたいからと、自分にできることを次々してあげるようになって、それによって、まともに見守っていてあげることすらできない関係になって、子供をつまらない母親に適応した少しつまらない子供にしてしまうんだ。




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