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【連載小説】息子君へ 112 (25 かわいがられすぎていいことなんてないんだよ-5)

 今子育てをしているひとたちは、そのかなり多くが、美味しいものを食べさせてもらいながら、何をどうしているから美味しいんだよという話を親としながら育ってきたわけではないのだろう。俺の母親は実家では料理はしなくて、栄養短大で料理を学んだひとではあったけれど、俺が料理をしてみたいと言えば気長に見守りながら何でもやらせてくれたし、自分が料理しているのを俺が見ているときは、今やっていることがどういうためにそうしているのかを教えてくれていた。食べているときも、これはどういうものなのかということを話してくれたり、俺が食べ物に興味がある方だったのもあってか、わからないなりにそういうことがあると知ってくれればいいという感じで、料理のコツみたいなことも話してくれていた気がする。俺は実家にいた頃にごくたまに料理をしたときも、見た目や火の通し具合はともかくとして、味としては美味しくないものを作ったことはほぼなかった気がするし、実家を出て日常的に料理するようになっても、いろんなものを作ろうとチャレンジする方ではなかったけれど、作るものはいつもそれなりに美味しく作れていた。そして、同級生とか友達の料理事情の話を聞くたびに、とんでもなく当てずっぽうに料理しているんだなと思ってびっくりしていた。同居した男たちは完全に全く料理できなかったし、付き合った女のひとでも、料理に苦手意識のあるひとがほとんどで、唯一、かなり食べ物へのこだわりが強い家で育ったひとは、俺の家ではほぼ料理はしなかったけれど、自分の部屋に俺を呼んだときには、自分の好きな感じに丁寧に料理したものを出してくれて、それはどれも美味しかった。
 けれど、実家の料理がそれなりに美味しかった知り合いはもっといたのだろう。結局は、そこでも甘やかされるだけだったかどうかという違いがあって、ただ与えられるものを漫然と食べて美味しいと思っているだけだと、うれしい時間をみんなで共有できて充分に家族が食卓で結びつくことができているとはいえ、それ以上に食べることから学んだり身に付いていくものはなかったりしてしまうのだ。どうやって作っているのかを見たり、話をしたりして、どういう考えでこういう味付けにして、だから美味しいのだということを知りながら、作っている親のやっていることをうっすらとでも追体験しながら食べてきたから、物の道理としてどうなっていると美味しくなるものなのかという感覚が身に付いて、それがあったから俺はだいたいどんなふうにすれば美味しくなるんだろうとイメージできたうえで料理を始めることができて、実際いつも美味しいと思えるくらいには味をまとめられていたのだろう。
 俺の場合は、母親の教育のおかげなのだろうし、両親とも食べることに興味があって、食べているときに食べているものについてあれこれ話しているひとたちだったからというのは大きかったのだと思う。食べるのが好きな家で育つのか、美味しければ美味しいという以上にはたいして何も感じていないのが当たり前の家で育つのかは、美味しいことを喜ぶ感性を自分なりに発達させていけるのかに大きく影響するのだろう。俺はそういう面では恵まれていたなと思うし、比率的にそういう家庭は圧倒的に少数派なのはよくわかっているのだ。
 一九六〇年の断層よりあとに生まれたひとたちのかなり多くが、料理とはどういうもので、どんなふうにして料理は美味しくなっているのかということについての自分の中でイメージが希薄な状態で実家を出て、当てずっぽうな料理経験を自己流に積み重ねるだけだから当然うまくいかないばかりで、そのまま料理を作るのが苦手だったり嫌いだったりする母親になってしまったのだろう。そして、嫌々我慢して作ってあげているのに、子供はさほどがっついてもくれないし、気まぐれにちゃんと作ってみてもさほど喜んでもらえないというばかりで、できれば料理したくないという気持ちばかりが蓄積していくことになったのだろうし、時代が変わってくるほどに、自分ばかりやらされて腹が立つという感じで、家事分担が自分に偏ることへの怒りが憎しみのこもったものになっていったのだろう。
 もちろん、男も家事を全てやるべきなのだし、そこに不満を持つのは当然のことなのだろう。けれど、家のご飯が美味しい家庭で育ててもらった人間からすると、女のひとの多くにしても、作る料理がさほど美味しくないことで、毎日のようにみんなで一緒になってうれしい気持ちで過ごせたはずの時間を家族から奪ってしまったというのはあるのだし、ただこなしさえすればいいという考えで家事をやってきたことで自分の人生をどういうものにしてしまったのかということには、少しは何かを思うべきなんじゃないかと思ってしまう。
 俺は一部の家事に投げやりな親を攻撃したがっているわけではないんだよ。都会の平均的な所得くらいの家庭の食卓を調査した本を読んだことがあるけれど、世の中のかなり多くの家庭の料理は、会社員の仕事ぶりがこれだったら即座に上司に詰問されて、すぐにちゃんとやるのか辞めるのかを選ばされるような、やる気のなさがはっきり見えるような、ちゃんとやるための手順を踏まずに、自分がやりたいように適当にやって、それでもやってあげたんだから感謝してありがたく食えと思っていないとこんな出し方はしないだろうというひどいものばかりだった。もちろん、ひどい家庭が取り上げられがちだったというのはあったのだろうけれど、データとしても、過半数を大きく超えた家が、世間でちゃんとした献立としてイメージするものからかけ離れた食事を週のほとんどで出しているようだった。
 それは少し前の本だったけれど、そういう傾向はこの十年くらいでさらに進んでいるくらいなのだろう。この十年で親になったようなひとたちというのは、自分の親がその本で取り上げられていたようなノリで料理していたひとたちが大半なのだ。なんだかなという感じのする食卓で食べるものに興味を持てるような体験をすることもなく育ったのだろうし、他人のために料理をする立場になったからといって、それなりに美味しいものを食べさせてもらっていたけれど料理に興味を持てなかった自分の親以上に料理に興味を持てないのは当たり前だし、美味しいものを作るために料理しようという気になれないのも、できれば料理したくないと思ってしまうのも当然のことなのだろう。
 この十年というのは、料理するときに参考するものも、書籍や雑誌なんかから、携帯電話で見られる一般ユーザーが投稿できるインターネットのレシピサイトに一気に変わっていった時期だった。そういうものが多くのひとに見られるようになり始めた初期は、めんつゆがとにかく便利だということがよく会社の女のひとたちの話題にのぼっていたなと思う。みんなそこまで味付けが簡単になることに感動があるんだなと、不思議な気持ちで話を聞いていた気がする。
 もう今では、市販の安いめんつゆだけで味付けするような料理は、それこそが世間の一般的な料理であるというくらいに一般的になっているのだろう。むしろ、めんつゆ味の料理に文句を言うなんていうことは、一部の料理が趣味だったり、こだわりが強かったりする余裕のあるひとたちだけだと思っているひとたちが大量にいるのだろうし、多くの日常的に料理しているひとたちがめんつゆだけで味付けする自分たちこそが普通だと思っているのだろう。
 もちろん、俺だって顆粒だしは使っていたし、めんつゆを使って美味しいものが作れるのはわかっている。けれど、ほぼ安いめんつゆの味しかしない食べ物が食卓の基本になって、メインの料理もめんつゆ味で、常備菜の煮物なんかもめんつゆ味だったときに、味わって食べていたら、一食を食べ終わる前にめんつゆの味に飽きないわけがないだろうとは思ってしまう。そもそも安いめんつゆは、かなり甘いものが多くて、素麺を食べるにも味に変化をつけるものなしで食べていると、一食食べきらないうちに飽きてくる。めんつゆの味しかしないような料理も、味に変化をつける薬味を複数種類つければいいのかもしれないけれど、みんなそんなことはしていないのだろう。味わって食べていないから、めんつゆの味に飽きてこないで食べられているのだろうし、多少口が飽きていたとしても、昔もっとどうしようもなくまずい料理を作っていた頃のことを思い出しながら、これで上出来だと思って自己満足しているだけだったりするのだろう。それなのに、めんつゆを使って美味しいのと、めんつゆを使わないでまずいのとどっちがいいのかと、めんつゆ味しかしない食べ物が毎食のように続くことにげんなりしている家族に怒りを向けるなんてなかなかひどい話だなと思う。
 そういう料理への取り組み方にしたって、会社でそんな舐めた態度で仕事に向き合うひとは、みんなが入りたいと思う会社で充実してやっていけるわけがなくて、ひとがすぐに辞めるような会社でやる気なく働くことしかできないだろう。けれど、仕事では真面目に取り組んで仕事を楽しんでいるようなひとでも、家では面倒がってめんつゆの味しかしないものを作っていたりするのだ。まともに取り組んで、少しずつ向上していけるようなひとなのに、どうして料理ではそうなのだろうと思うけれど、それは自分が食べ物に興味もないし、食べ物が美味しいことにもさほど喜びを感じてこなかったひとだからなのだろう。そして、そういうひとは、自分では面倒なのに頑張って作ってあげているつもりだから、自分は充分よくやっていると思っていて、唐揚げとかカレーでもないかぎり、家族で自分だけが美味しいねと言っていがちな食卓の風景を毎日見ながら、子供たちも自分に似て食べることにそこまで興味がないんだなと思ったりしているのだろう。
 そういうひとたちは、子供がまともに美味しいものを食べるときにがっついているのを見たことがないんだろうかと思ったりする。自分が食べているものはがっつけるほどのものではなくて、だからご飯はちょっとでよくて、お菓子とかカップラーメンが食べられるのならその方がいいと思われているのに、子供はお菓子やコンビニの食べ物が好きなものだからと思っているというのはなかなか間抜けだなと思う。それは自分のセックスがやる気がなさすぎて旦那が絶望して外でセックスしているのに、男は浮気するものだとか、男はフーゾクがどうしても好きだからと思っているようなことと同じようなことなんだろうと思う。家のご飯がとても美味しくてもお菓子は好きなものだし、パートナーとのセックスがよくても他のひととのセックスもいいものだけれど、家のご飯が美味しければ、とりあえず家のご飯にがっついて、何の不満もなくお腹いっぱいになっているものだろう。家のご飯になんだかなと思っていて、楽しみにも思っていないから、他のものが食べられるなら食べたがるし、食べて帰ってきてとか、お金を置いておくから勝手に何か買って食べておいてと言われると喜ばれてしまうのだ。
 子育ての現場というのは、新しく親になるひとたちに、甘やかされて育てられた母親に当たり前のように甘やかされて育ったひとたちがどんどん増えていて、この十年とかで、はっきりとそういうひとたちが多数派になっているのだろう。社会全体の子育ての雰囲気も、それによって大きく変わってきているというのはあるのかもしれない。
 男も女も甘やかされて育って、実家では男女とも家事は母親に任せて何もしていなかったという意味では平等だったのに、結婚したら急に女のひとは母親扱いで家事をしなくなっているというのを、男のひとは当たり前に思って、女のひとは不公平に思っているというのがこの数十年だったのだろう。数十年経って、いまだに男たちが文句を言われているのは、今の若い男たちが自分も父親と同じような何もしない父親になれると思っていることが問題で、ちゃんと時代が変わったんだから、夫婦とも甘やかされて家のことなんてろくに教えられずに社会に出た同士で、できないこともできるようになっていきながら何もかもを協力して生活するようにならないといけない時代になっていることを受け入れていないひとが多すぎるからというだけなのだろう。
 そして、だからこそ、子供をどう育てるのかということは、ほとんどの家庭で全くどういう問題にもなっていないのだろう。女のひとだって家事労働に消極的だったり、やっていて嫌で嫌で仕方がないようなひとがたくさんいるのだから当然だけれど、求められているのは、ちゃんとすることではなく、男女ともに甘やかされて育てられたノリのままでいられるように、奥さんが旦那を甘やかすのと同じように旦那も奥さんを甘やかせろということなのだ。世間の旦那をどれだけみんなが一生懸命非難していても、これまで息子を甘やかして育ててきたことで家庭内で役に立たない旦那にしてしまうのが間違っていたから、甘やかさないようにしようということにはならないのだ。
 フェミニスト界隈のひとたちは、なるべく性別を社会内の役割と結びつけた感じ方や、各種性別によるステレオタイプから遠ざけてあげながら育てたいと願っていたり、今までの男たちの文化が有害なものだったことを理解させながら世の中に入っていけるようにしてあげたいと思っているようだけれど、そういうことを考えているのは一部のひとだけで、多くのひとはみんなと同じように育てばいいとしか思っていないのだろう。
 男たちは甘やかされるのを当たり前に思って、自分はどうしてもやらないといけないことだけやればよくて、わざわざやってあげたのだから感謝してほしいというような感覚でいるから、奥さんの不平等感にも応えられないわけだけれど、そういうことをちゃんと感じ取って、一緒に気分よく生活するために、自分にできることは何でもしてあげたいと思うような男になっていけるように息子を育てなくてはいけないということにはならないのだ。
 世の中を見ていると、ちゃんと他人のこととか社会のことを考えて、問題意識を持って日常生活を送ることができるような子供に育てないといけないなんて思っていないし、みんなまだまだこれからも子供はただひたすら甘やかしたいとしか思っていないように見える。
 むしろ、子供をかわいがって、子供が大きくなってきてからも家族でたくさん楽しいことをして、いろんな話をしたいと思っている親からすると、子供にちゃんとした人間になられては困るくらいだったりするのだろう。自分がテレビで見たままをなんとなくそういうことなんだろうと思いながら、ひとに話を合わせているばかりで暮らしているのに、子供に自分なりの考えのようなものが芽生えても、それに応対してあげられるだけのものの感じ方が自分にはないのだし、だったら自分も一緒に楽しめるようなインターネット動画を延々と見てくれている方がいいのだろう。
 俺は自分が母親にそうしてもらったように、子供が接触を求めてくるわけでないのなら、できるだけ放っておいてあげた方がいいんじゃないかと思うけれど、やることもなく放っておかれて好きにしろと言われると困ってしまうようなひとたちが親の場合は、事情は全く変わってくるのだろう。そもそも親の方が好きにしろと放っておかれても、さっさと携帯電話に手を伸ばして、自分が気にするべきものをあれこれ目の前に表示させたり、延々とエンタメを消費したりするばかりなのだ。子供が携帯電話なしでも退屈しない子になって、いろんなことに興味を持って、いろんなことを考えて親に話しかけてきても、親は携帯電話で検索してあげるくらいしかできることがないし、それだったら、自分の考えなんてなくていいから、自分が楽しんでいるもので一緒に楽しんでくれて、テレビやインターネット動画で見たことの話を、テレビやインターネット動画の真似をしながら楽しく喋っていられる方がよほどいいと思うのだろう。
 甘やかしていろいろ世話を焼いてあげられるから、なんとかそれなりに接触を維持できているという親子はかなり多いのだろう。自立した人間同士で、お互いの感じ方の違いを尊重し合いながら一緒に過ごすなんて大変すぎて絶対にしたくないという女のひとたちだってたくさんいるのだ。そういうひとたちはもれなく自分の息子を甘やかすのだろうし、同じようなタイプの母親たちが甘やかされることに甘んじていられる男をたくさん世の中に確保しておくというのをずっとやってきたから、甘やかしておけばそれなりに満足してくれている男が世の中にたくさんいてくれて、子供ができたときに甘やかすことしかできないようなひとたちも、そういう男となら付き合ったり結婚できたりしているのだ。甘やかしているひとたちは、自分たちにとっていい社会になるように子供を甘やかしているということでもあるのだろう。
 お互いの感じ方の違いを尊重して、お互いのそのひとらしさを面白がり合いながら接するようなことをする習慣が生活の中にないひとは膨大にいるのだ。夫婦でもそうじゃないし、友達ともそうじゃないのに、子供とだってそんな関わり方はしたくないし、子供に自分がはっきりあるひとになられても持て余すから困るというというのが実際のところだったりするのだろう。親が短絡的にしか喋りたくないひとなら、子供にだって短絡的な子供であり続けてほしいのだろう。ちょっとしたことを少し立ち止まって考えてみたりする子になったら、何を話しても、何も考えていないひとだなと軽蔑されるばかりになってしまうのだ。それは大人になってから勝手にやってくれればよくて、子供に望むこととしては、自分と話していて楽しそうにしてくれる子供であってほしいということなのだし、そうすると、大半の家では、子供は積極的に甘やかして、甘やかされて楽なことでさっさと満足する短絡的な子供のままにしておこうとすることになるのだろう。
 そもそも、大人の過半数は、共通の趣味とか共通の思い出の話をしているわけでもなければ、誰にとっても話していてもつまらない相手なのだろうし、それは子供にとっても同じなのだろう。二桁年代くらいになれば、そういう親のもとに生まれた子供の多くは、親と喋っていても、このひとは本当に退屈なひとだなとうんざりしているのだろうし、そうなると、親が自分をかわいがろうとしてくることにも自然とうんざりしてくる場合が多いのだろうし、友達と楽しくやれるようになれば友達一辺倒になっていくのだろう。
 多くの場合、そうやって子供の心はそのうちに親から離れてしまうし、子供は家庭内で自己実現を目指すものではなく、友達集団とか、仲間の中で認められようとする中で、自分というものを確立していくものなのだろうし、それで問題ないといえば問題なかったりもするのだろう。成長していく中で、承認欲求を満たすことのできる存在が、親ではなく友達集団になったり、社会的な成功に変わってくれば、親がほめてくれても何もうれしくなくなるのだ。そして、そういうルートに乗らないひとや、知的好奇心がすでに親と同じくらいのレベルになってしまっているひとが友達親子のままになって、さらに親が過干渉だったりしたときに、マザコンになっていくのだろう。すでに母親に甘やかされすぎていることで、子供が友達といい関係を作っていけないというケースも多いのだろうけれど、子供が自分に肯定的に接してくれる相手として母親をキープしたいという気持ちがあったときに、親が子離れしたくないために過干渉し続けるのを受け入れたままになってしまうのだろう。
 昔は子供は勝手に親から離れていくし、そこからは放っておくものだという感覚が常識のようなものとしてあったのだろう。けれど、今の親は甘やかされてきたから、自分のことしか考えていないひとが増えて、子供が甘やかされることを快適に思っていることにつけ込んで、子供から離れるのをできるだけ先延ばしにしようとするひとも増えているのだろう。
 けれど、少なくても、生まれてきた子供を甘やかし続けるのは、その子供の人生観というか、生きるということはどういうことなのかという認識に大きな影響を与えてしまうし、その影響は明らかに歪みといえるようなものになってしまう。
 甘やかし続けたり、かわいがり続ける場合、ほめるほどのことがなくてもほめるし、現実的にその価値がなくても価値があると言ってあげることになる。子供には特にほめるようなところはないのに、無理にほめることになるし、あげる必要も必然性もないのにいろんなものをあげることになってしまう。それによって、自分がその価値のある何かをしたから、それに応じた結果が返ってきたという、因果関係への当たり前の認識が、別のものにすり替えられてしまうことになるのだ。自分が何をできたからどうなったというわけではなく、ただ言われたことを言われたようにやればほめてもらえて、気持ちよくなれてしまっていたのだし、そんな不自然な条件付けでいい気になっていたのだから、心が歪むのは当然なのだ。
 自分でいろいろ考えてやればいいのに、言われたことしかやらないし、言われたことしかやっていないくせに、ほめてもらえないと不機嫌になって、自分はほめられて伸びるタイプだと軽口を叩くようなひとはたくさんいるけれど、そういうひとたちというのは、ほめてもらうために言われたことをやるという、そのひとの自然な気持ちの動きをスポイルするような、ほめたがって、ほめることで操作しようとしてくるような大人に囲まれて育ってしまった場合がとても多かったりするのだろう。大人になっても自分の頭の中のほめてくれるはずの誰かに支配されているなんて、とてもみっともないことだなと思う。
 君がお母さんのせいでほめられるままにいい気になって子供時代を過ごしたとしても、もったいないとは思うけれど、軽蔑したりはしないんだよ。ひとはいばりたがるものだし、バカだからいばるというわけでもない。知能が高くて、体力も行動力もあって、争いにも強くて、それなりにまわりから魅力的だと思われているひとでも、いばれるのならいばりたいと思っているひとはたくさんいる。いばっているのはバカみたいだけれど、いばっているひとたちが、いばっていないひとたちよりバカで低能というわけではないのだ。いばるために生きている天才やすごいひとというのもいるのだろう。俺が好きなひとたちの中にも、いばるっているのが好きなひとはいる。そして、そういうひとたちはあまり下品ないばり方をしないというのもあるけれど、いばっているのを見ていても、俺はそんなに嫌な気持ちになったりもしなかった。
 俺はただ、いばることでまわりにいるひとにバカだと思われるのはもったいないと思っているから、いばっていると思われないようにした方がいいと思っているだけなんだ。バカだと思われると信頼してもらいにくくなるし、信頼してもらえないと、話が通じなくなる。話が通じないことはいつでも最悪なことだし、バカだと思われないに越したことはないんだ。
 大人になれば、ほめられても本当のことはわかっているから、好意だけ受け取っておくという感覚になれるからいいのだろう。自分のしたいことや、できるようになっていきたいことや、達成したいことがはっきりしてくれば、他人が何をほめてくれようと、自分の中の基準を自分が達成できているのかということの方が大事になるし、ほめられるくらいのことで自分の気分を操作されるようなことはなくなってくる。
 けれど、子供の間はそういうわけにもいかないのだ。子供は自分の体験してきた感情のバリエーションが少ないから、他人の感情もうまくとらえられない。ほめているようで、特に感情が動いていない場合に、このひとの言っていることは真に受けない方がいいというように警戒することもできない。親がたいしたことのない人間であることも知らないから、そんなひとにほめられたからといって特に意味はないとやり過ごすこともできない。
 子供を頻繁にほめることで、子供はほめられることの中に自分を見付けようとしてしまうけれど、それは子供なら騙せるからと、子供のうちに騙しておこうとするようなことでしかなかったりするのだ。
 君は騙されて、親が自分のかわいがりたいようにかわいがるのに都合がいい、ほめられたがりな子供として膨大な時間を浪費することはないんだ。君は自分を騙そうとしてくる全てのひとを自分の敵だと思って、どうしてこのひとはこんなことをしてくるのだろうかと観察しながら生きていくべきなんだ。
 君を騙そうとしてくるひとたちは、友達でも、仲間でも、知り合いでも、どこに行ってもとてもたくさんいる。君は一生ずっと、君がまともに自分の気持ちを感じたりはしないだろうと、君のことを舐めているのを隠そうともせずに、適当なことを言って君を思ったように動かそうとする悪意を自分に向かって垂れ流してくるひとたちの顔を見て、そのたびに嫌なものを感じ取って、今のこのひとにとっては自分はそういう存在なんだなと、確かめ続けていかないといけないんだ。




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