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好きになった人たちの中にブサイクがいなくてもそれを恥じるのはやりすぎ

(こちらの記事の続きとなります)

大学の知り合いとか同級生の女のひとたちだと、どのひとも、みんな子供を生んできれいになったように俺には感じられた。

毎日くたくたになりながら、子供にやってあげたいことをいっぱい思い浮かべて、めいっぱいそれをやってあげられる日々のすっきりとした充実感が、大学時代のそれなりに自意識過剰で、何をしても若い女がやっていることとしか受け取られない中で、他人に気を遣ってばかりの毎日を送っていたときよりも、そのひとたちをすっきりした優しげな顔にしていったのだろう。

俺が思っているきれいになるというのは、そんなふうに、中身がよくなるから外見もきれいになるというような、そういうきれいになり方のことなのだ。

きれいになれてうれしいというのは、何かを取り繕うことではなく、自分自身がよくなっていることへの充実感のようなもののはずだろうと思う。

自分の見た目がよくなったと感じるたびに、自分の所持金が増えたような、きれいになったことで自分の権力が向上したかのように勘違いしているようなひともいるのだろう。

けれど、きれいになったということが、もっと生きることと結びついたような、例えば、料理をしているうちになんとなく自分なりの感覚みたいなものができてきて、その感覚を遣って確かめながら作れば、毎回美味しく作れるようになったとか、会社での仕事を一人前にこなせるようになってきて、いろんなことが自分なりにどうすればいいのかわかってきたとか、そんな感覚に近かったりもする場合も多いのだと思う。

自分が自分にしっくりくるようになったことで、前よりも力が抜けた自分の見た目をひとがよいと思ってくれるようになったというパターンは多いのだと思う。

何をしたからきれいになるというより、いろんなことがあるうちに自分が変わって、自分が日々感じていることも変わって、それによって自分の見た目が変わったことで、みんなにとっての自分の価値が変わる。

そういう出来事が、人生の中で、自分の努力で自分の世界を変えられた実感を持てた最大の出来事のように思っているひとはたくさんいるのだと思う。

自分はダサいんだなと思いながら、ダサい自分にずっと自分でがっかりしていた人生が、何かにすっきりした気持ちで打ち込めるようになって、それを真摯に頑張る生活を送る中で、いつのまにかいい顔ができるようになって、自分のいろんなことを整えられるようになって、ひとと関わることにもしっくりくるようになって、そうしていたら、いつの間にか、自分のことを好きになってくれるひとがいて、素敵なひとだと思っていたと言われてびっくりしたというような出来事は、とてもたくさんの人々にいろんなところで起こっているのだろう。

そして、ダサかった自分も、ダサいと自分で思わなくちゃいけないほどじゃなくなったかなとは思っていたけれど、素敵なひとだと言われて、顔もきれいだと思うとか、一番かわいいと思うとか言われて、冗談のはずだと思ってそう言ってくれる相手の顔を毎回確認するけれど、どうしても本当にそう思ってくれているとしか思えなくて、そうなのか、自分はけっこうきれいだし、かわいいときもあるのかと思って、うれしくて泣きたくなってきたりしたひとたちがたくさんいるのだ。

男だって同じで、好きになってくれたひとから、格好いいと思ってたと言われて、顔がというか、全体的にとか、仕事をしているときにとか、そういうことだと思っていたら、顔を格好いいと思っているんだよとか、身体も好きなんだよとか、顔見てたり、抱きついたりしてるとどきどきしてきたりするんだよと言われたりして、本当に顔をじっと見てうれしそうにしてくれているみたいで、そんなことあるんだなと泣きそうになったようなひとがたくさんいるのだ。

それはただうれしかっただけじゃなくて、そのときが人生で一番うれしかったひともたくさんいるような、特別なうれしさなのだ。

自分は頑張ったと思えたような、自分で自分を認められるようなエピソードは他にあっても、頑張ることしかできないわけじゃなくて、自分は誰かにとってけっこういいものだったのだと思っていられるような、自分をその他大勢とは別の、何かしらの輝きを持ったものに思えるようなエピソードとして、きれいだと思うとか、顔が格好いいと思うとうれしそうに言ってくれたひととの時間をいつまでも大事に覚えているひとたちというのがたくさんいるのだと思う。

自分がこんな姿をしたひとであることをじっくりと確かめながらうれしそうにしてもらうというのは、それほどまでに素晴らしいことになりえるのだ。

恋人や配偶者とは、そういう瞬間もないまま、まぁいいかと思いながら一緒にいたというのが正直なところだというひとはとても多いのだろう。

自分らしさをほめ称えてもらった経験はそこにはないまま、感謝だけを交換して時間が過ぎていくというのはよくあることなのだ。

それをそれなりの日常だと思えたとしても、宝物のようなきらきらした記憶ということなら、あのとき自分にきれいだと思うと言ってくれたあのひとの表情の方が宝物に思えたりもしてしまうのだ。

それなのに、見た目のことにこだわるなんてバカだなんていうのは、単純にいろんなひとの人生に対して失礼なことなのだ。

そんなものはどうでもよく思っていればいいのだ。

見た目にそのひとの全てがあらわれているのだから、見た目で感じるものを含めて、そのひとに思いたいことを思っていればいい。

ただ誰のこともいじめなければそれでよくて、いろんなものに、それぞれ別の感じ方をするのを楽しんで、自分をいい気持ちにさせてくれるものとかひとに、すごいなと思って、思い切りうれしい顔をしていればいいのだ。

生まれつきも含め、そのひとの人柄とか、健康具合とか、その日のコンディションとか、そのひとの生きてきたもの全てとか、そのひとが今生きているもの全部ひっくるめて、そのひとはそんなふうにそこにいて、それは輝いて見えるかもしれないし、すごくかわいくて見ていてどきどきしてくるかもしれない。

美しさや格好よさやかわいさを感じたのなら、それは誰かの素晴らしいところに気が付いてあげられて、自分なりの魅力の感じ方でそのひとの素晴らしさにうれしくなってあげられているということなのだし、それはとても素晴らしいことなのだ。

それぞれのひとが、自分にとって見た目がいいひとのことを、自分をうれしくさせてくれる特別にすごくいい存在だと思っていていいし、好きなひとを前にして、かわいいなと思って気持ちを動かされるのなら、気持ちが動かされるままに、相手にうれしい気持ちを伝えるような顔をしていればいい。

そのひとにしかしない特別な顔をしてしまっていいし、そうやってそのひとだけを特別扱いしてしまってもいい。

誰かがそういう顔を向ける相手がきれいな顔をしていたときに、その近くにいた、その誰かのことをいいなと思っている顔がさほどきれいでもないひとは、その誰かが顔のきれいなひとにうれしそうな顔をしているのを見て、うれしそうな顔がとてもいいなと思って、けれど、それは自分に向けられた顔ではないし、自分にはそんな顔をしてくれることはないのだと思って、胸が苦しくなったりもするのだろう。

それはそういうものだし、それを気にすることはないのだ。

まともな人間になれて、たくさんの女のひとたちと知り合っていけたなら、何人もの顔の作りが整っているというわけではないひとたちをいいなと思って、かわいいなと思うはずなのだ。

だから、自分がかわいいと思うひとを好きになるだけでよくて、もしも、振り返ってみたときに、自分が顔の作りがきれいなひとばかり好きになっているように思えても、ちゃんとそのひとたちはみんないいひとなのだろうし、それを恥じる必要なんてまったくないのだ。


(終わり)


「息子君へ」からの抜粋となります。


息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。

(全話リンク)

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