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男の子が小さいときからきれいなお姉さんが好きというのは、ルッキズムではなく、よさそうな人に見えるか、嫌な感じがする人に見えるのかというだけ

 ルッキズムだけではなく、全ての差別がそうなのだろうけれど、自分が所属している集団の価値観を受け入れて、集団の他のメンバーと同じように振る舞おうとしていると、そういうつもりもないのに、結果として差別をしてしまっているというのが、その差別の中身のほとんどなのだろうなと思う。

 もちろん、それは俺の側からしたときにそう見えるだけで、外見至上主義的な人間の見方をしていると批判されているひとたちからすれば、かわいいひとを見ると気分がいいのも、ブスを見るとがっかりするのも本当のことなのに、ブスがそれを言われて傷付くというのはわかるにしても、それを差別的なものの見方だと言われるのは納得がいかないと思っているのかもしれない。

 ブスを笑う男たちにしても、素直な心でブスに嫌な気持ちになって、素直な心でブスをいじっているのに、それは男たちが男たちで男たちらしく盛り上がるために、なるべく自分たちが興奮できるように暴力的で侮辱的なものの見方をして遊んでいて、そういうひとを傷付けるだけの自己満足の遊びを続けることがまだ許されていると思っているのかと責められても、何をわけがわからないことを言っているんだという感じなのかもしれない。

 ルッキズムは、人間の動物としての習性と深く結びついた差別なのだろうし、そのあたりの線引きは難しいところなのだろう。

 そもそも、見た目によって相手の価値を判断して、外見に応じて相手の扱いを変えるというのは、それ自体は差別ではなく、人間にとって自然な行為なのだろう。

 よさそうなひとに見えるのなら、よさそうなひとだと期待して接すればいいのだし、関わると危険そうなひととは関わらないようにした方がいいし、話しかけないといけないとしても、なるべく嫌なことが起こらないように気を付けながら話しかけた方がいいのだろう。

 そして、どこかに用事で出かけていって、その場にいいひとそうな見た目をしたひとと、そういうわけでもなさそうな見た目をしたひとがいたとして、どちらのひとに近付いて、用事はここでいいのか聞いて、もしいい感じならそのまま用事まで話していようと思うのかといえば、どうしたって自分にとっていいひとそうな見た目をしたひとの方なのだろう。

 そういうレベルでは、見た目で判断して、相手への行動を変えるのは当たり前のことでしかない。

 それと同じように、新しい環境になって、みんなで集まったけれど、誰も自分には近付いてこないし、話しかけてもくれないときに、みんな見た目しか自分のことを知らないのに、みんなで示し合わせたかのように自分だけを遠ざけてくるなんていじめだと思ったとして、みんな全くいじめている気なんてなくて、ただ当たり前のように、なんとなく関わらない方がよさそうだと思って他のひとに近付いただけなのかもしれないのだ。

 もちろん、ルッキズムというのは、基本的には、格好いいとかかわいいとか美しいとか、そういう基準で容姿がいいとかよくないと判別して、それによって扱いを変えることを差別だと非難することなのだろうし、いいひとそうであるか、そうではなさそうかという相手の印象で対応を変えるのはまた別だということになるのかもしれない。

 けれど、いいひとそうだという印象を持つことと、見た目がいいと感じることは、そう単純に全く別のことだといえるわけでもなかったりするのだろう。

 よく男の子は小さいときからきれいなお姉さんが好きだとか、赤ちゃんでも、かわいい若いお姉さんだとよく懐くといわれていたりとかする。

 そういう現象は、かわいいひとがいるときに起こっているけれど、かわいいからそういうことが起こっているのとどうかはわからないんじゃないかと思う。そもそも赤ちゃんの場合は目がはっきり見えていないのだから、視覚的に引き寄せられているわけではないのだろう。

 少なくても、顔の造形なんかではないのだろう。

 ということは、見えていなくても感じられるもので判別していても、はたから見ればかわいいひとばかりを赤ちゃんが選んでいるように見えているということなのだろう。

 赤ちゃんが、きれいでかわいい若い女のひとには、抱かれてもうれしそうにしたり、自分からも近付いていったりするというのは、ただ単に、なんとなく全体としてそのひとがいい感じがするから引き寄せられているだけだと考えるのが妥当だろう。

 そして、いい感じがすることと、そのひとが美しいことは直結してしまいがちなのだろう。

 特に女のひとの場合、集団内での自分の地位を脅かされずに、リラックスした状態で、自分が思いたいことを思っていられるのだし、かわいいひとの方が突出してストレスが少なくて、そうすると身体的なコンディションも周囲よりもいいだろうし、それによって、肌も髪もいい状態で、体臭もいい匂いがするのだろうし、近寄ったり抱きかかえられたときに、健康的で生き物としていい状態にある肉体の感触が伝わってくるというのはあるのだろう。

 笑いかけられる感触としても、素直そうで、表情も裏がなさそうで見ていて安心できるような感じがしたりもするのだろう。

 そんなふうに、あまり目がはっきり見えていない赤ちゃんも、いい感じがする相手として、かわいいことでリラックスしてストレス少なく生きているひとに引き寄せられているというのはありえそうな話なんじゃないかと思う。

 男の子は小さいときからきれいなお姉さんが好きだという話は、女性向けの匿名掲示板のそういう話題についてのスレッドを読んでいたら面白くて、延々と読んでしまったことがあった。

 小さい子供でも男というのはかわいい若い女が好きだというのは、世間の母親とか、子供が身近にいるならみんな感じることのようで、こんなに小さいときから男は男なんだなと呆れてみせるのが楽しいのだろうし、女のひとで集まっているときにそういう話をするのも盛り上がるのだろうし、みんなが好きなトピックのようで、いろんな事例が膨大に書き込まれていた。

 読みながら、自分はどうだったんだろうと思ったけれど、記憶がない頃のことは全然わからないなと思った。

 俺にもそういうのはあったのだろう。けれど、希薄ではあったんじゃないかと思う。

 覚えていないけれど、小学一年生のときの担任の先生は美人っぽいひとだったらしいけれど、顔の印象は覚えていないし、俺はさほどきれいだとかかわいいと感じていなかったのだと思う。

 きっと、少年時代の俺にとって、生身の人間で、そのひとが誰なのか認知しているひとで、きれいなひととか、かわいいひととして認知していたのは、父方のおばさんだけだったんじゃないかと思う。

 おばさんは父親とそこそこ歳が離れていたのもあるのだろう。おばさんの方は、まだおばさんが結婚する前のかなり若い頃の顔の感じもなんとなく覚えている。

 そのおばさんは、目鼻立ちが華やかで、遠目に見てもかわいい感じのするひとだった。

 そのおばさんの記憶だって、小学生になってくらいの記憶がおぼろげにあるくらいではあるけれど、記憶にあるかぎり、おばさんのことはきれいなひとだと思っていたような気がする。

 けれど、そう思っていたからといって、おばさんと会えてうれしかった思い出もないし、小さい頃にしても、おばさんに懐いてはいなかったのだと思う。

 容姿がいいことに、何か特殊なものは感じてはいたけれど、かといって、俺はそれに吸い寄せられるような感覚はなかったということなのだろう。

 なんとなくの小学生の低学年くらいまでの記憶でいえば、俺はきれいな女のひとに引きつけられた経験はそんな程度にしかない。

 けれど、その女性向け匿名掲示板では、保育園でもきれいでかわいい保母さんが圧倒的に人気になるし、きれいで若いお母さんには子供たちが寄っていったり話しかけたりすることが多いとか、親戚で集まってもきれいな従姉妹なんかがいると、ずっとそっちの方を見てもじもじしていたりというのは、あまり反論もないような、みんなが納得できるような男の子あるあるのようだった。

 むしろ、私は美人だと言われるけど子供に好かれなかったとか、うちの子供はきれいなお姉さんよりかわいいお姉さんが好きみたいだったとか、きれいだからといって年齢によって食いつきが違って、二十代前半くらいの女のひとへの食いつきが一番いいとか、きれいなお姉さんが好きといっても、きれいの種類とかその他条件によるとか、そういうところで意見が割れるところがあるようだった。

 ナチュラルメイクの女のひとの方が好まれるらしくて、朝は日焼け止めくらいで送っていって、昼はメイクをして幼稚園に迎えに行くひとが、朝の方が男の子たちが寄ってきて話しかけてくるというようなことも書いてあった。

 美人でも、ばっちりメイクして、迫力がある感じにおしゃれしていると、寄っていかないとか、美人でも、かわいいというよりはクールな感じのひとだと子供は寄っていかないとか、そういう書き込みもたくさんあって、それに同意する意見は多いようだったし、顔の作りが整っているからというよりは、親しみがもてることが重要なのだろう。

 そうすると、子供が一番好きなタイプのきれいなお姉さんというのは、まだメイクしない頃からかわいいひと扱いされてきて、そのまま大人になってもナチュラルメイクで頑張りすぎないおしゃれで充分にみんなからちやほやされて、自分がかわいいことをあまり深く考えないようにしながら、みんなからのかわいい扱いをのほほんと受け流してきたようなひとということになるのかもしれない。

 けれど、それは子供たちの側から考えれば当然のことだったりもするのだろう。

 子供たちは、近付いたら何か自分にいいことがあるかもしれないという気になるから近付こうとするのだろう。

 そして、みんなからかわいいと思われているひとと、そうでもないひとを比べれば、近付くといいことがありそうなのは、どうしたってかわいいひとということになりがちなのだろう。

 計算高そうだったり、あざとい感じのかわいさではなく、ナチュラルにかわいいひととか、ナチュラルにかっこいいひとのことを考えると、そういうひとたちの方が、容姿がそこまでよくないひとたちよりも、優しそうだし、親切そうだったりもしてしまうし、それは仕方のないことなのだろう。

 かっこいいひととか、かわいいひとというのは、毎日一日中みんなからいい扱いを受けて、それにいい反応を返してあげているというのをずっと繰り返しているひとたちなのだ。

 ひとにいい反応を返すつもりで生活しているし、いつでもすぐに相手へのいい反応が顔に浮かぶような状態で生活していて、ひとが自分に視線をとめたときは、何かしら自分に対してポジティブな態度や行動を向けてこられるのだろうと予測して、相手の自分への好意的な振る舞いに釣り合うようなリアクションをするつもりで相手に顔を向けている。

 だから、子供たちはいい予感がするし、近付いてもすぐにさらっとしたいいリアクションが返ってくれるから、うれしくてそのまま近付いていけるのだろう。

 みんなから優しく接してもらっている容姿のいいひとたちの方が、特に意識しなくても優しい気持ちでひとと接することができる人柄である可能性はだいぶん高かったりしてしまうのだ。

 もちろん、みんなから容姿がよいと思われていないひとでも、優しいひとはたくさんいる。

 けれど、みんなから優しくされているひとの当たり前の優しさというのは、どちらかというとみんなから軽く見られていて、感じが悪く思われて攻撃されないようにと、他人に優しく接しようと心がけているようなひとの優しさとは、全く雰囲気の違った優しさなのだろう。

 軽く見られている自分を守ろうとして優しくしているひとは、いつその自分の優しさが突っぱねられるかわからないと、心のどこかでいつもすぐに防御できる準備をしているような状態なのだろうし、警戒心や、防御意識や、半分腰が引けた感じを相手に感じさせるのだろう。

 保育園や幼稚園の職場体験で中学生や高校生の男女がきた場合も、子供たちはまず最初に見た目のいいお兄さんお姉さんのところに群がるらしい。

 そして、だんだんと一生懸命遊んでくれるお兄さんお姉さんが人気になってくるけれど、見た目のいいひとが積極的に遊んであげていれば、やっぱりそのひとが一番人気になるらしい。


(続く)

「息子君へ」からの抜粋となります。


息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。

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