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【連載小説】息子君へ 82 (19 君がお母さんにかわいがられすぎないか心配しているよ-4)

 俺は別にルッキズムを擁護したいわけじゃないんだよ。ただ、そういう価値観になっていくのは、時代の変化を考えれば自然なことだと思うというだけで、俺自身は、見た目のことにこだわりすぎたり、特に顔のパーツの形がどうのこうのということに執着しているひとの姿というのには、いつも見ていてうんざりした気持ちになっていた。
 日々ブス扱いされていたり、はっきりとブスを見る目で見られているようなひとたちは、そのつど危害が加えられているわけだし、そういう悪意に身構えながら生きるようになってしまうのも仕方のないことなのだろう。けれど、みんながそこまでの扱いを受けているわけではないだろう。
 俺の感覚からすれば、ひとの顔なんて、気にする習慣をつけなければ、他人の顔であれ、自分の顔であれ、特に執着なく生きていくのは難しいことではないだろうと思ってしまう。ブス扱いされることに苦しんだり悩んだりするのは当然だけれど、自分にとって自分がブスであること自体に苦しみまくったり、みんなが自分よりかわいいことに悩みまくっているひとを見ると、何もかも妄執だし、近所の禅寺で座禅でもしてくればいいんじゃないかと思ってしまう。
 当たり前のことだけれど、誰のことも顔で好きにならなくても何の差し障りもなく生きていけるのだ。顔を好きにならなくても、顔をかわいいと思わなくても、そのひとの顔を見ながら、そのひとのことをかわいいと思うことができる。顔の作りなんて、どうでもいいひとからすればどうでもいいことなんだろうし、俺はそうだった。俺は男だったから、自分の顔ですらどうでもよかった。あまり鏡を見ないで生きてきたから、ある程度大きくなってからは、外で何気なく顔を触っていたら鼻毛が飛び出ているのに気が付いてその場でむしるということがよくあった。実家にいた頃は自分の部屋に鏡もなかった。自分の顔というのをじっくり観察したことも、三分以上とかになると、今までに一度もないのかもしれない。自分の顔がどんな顔なのかということにも興味がなかったから、自分の顔を想像しようとしても、自分が写った写真を思い出そうとしても、なかなかはっきりとした像として頭に浮かばない。もちろん、自分の写真を見ることはなくはないし、俺が視覚的な記憶を頭の中で再現する能力が低いからということではあるのだろう。とはいえ、興味のなさも大きいのだと思う。他人の顔でも、自分の顔よりは思い浮かぶけれど、それでも、誰の顔であれ写真のようにはっきりとは思い浮かべられない。今まで付き合ったひとの誰一人の顔のほくろの位置を一つも覚えていなかったりする。そして、自分の顔のほくろも、背中とかお尻にある目立つものはどこにあるのかわかる気がするけれど、顔のほくろは右側に多いという以外には、ひとつもどこにあるのか思い浮かばない。
 俺は顔の造形の細部にさほど興味がなくて、ひとの顔も細部には関心がなかったけれど、そういう俺からすれば、きれいなひとを見てきれいだなと見とれてしまうところまでは生理反応だと思うけれど、そのひとを見ていてなんとなく素敵だなとかかわいいなと思うという以上に、自分が好きな種類のかわいいものとか格好いいものであればぱっと見るだけで気持ちよくなれるというのは、ポルノを見ていたらとりあえず勃起できるから勃起しておくというようなレベルの反応が身体に起こっているのだろうと思うし、それはフェティシズムによる変態的な楽しみ方でしかないんだろうと思う。
 特定の視覚的な刺激とか、もしくは、そのものを見ているというシチュエーションを自覚するだけで気持ちよくなっているわけで、そこには美しいものを感覚してから美しいと感じるまでの時間的な経過が抜け落ちているのだ。美しいものを見ていて、その美しさがどんなものなのかを感じながら、自分がどんな気持ちになっているのかとか、そのひとがそんなふうに美しいことに対してどんな気持ちになってくるのかという自分の気持ちの変化を自分で確かめようとはしていなくて、とりあえず勃起してきたから握ってさらに硬くして刺激しながらもっと楽しませてもらおうとしか思っていないような、自分の勃起度合いしかほとんど感じていないような感じ方をしているわけで、そういう他人の美しさの消費仕方は、どれだけありふれたものだとしても、どうしたって変態的なものだろう。
 どれだけ多くのひとが、自分の好きな顔があって、その顔を見るだけですぐにいい気分になれるし、そういう楽しみを日常的に味わっているからといって、それは変態的な気持ちよくなり方なのだと思う。犬とか猫を見るだけで気分が変わって、犬好きとか猫好きの感情セットに切り替わるようなひとたちがいるけれど、自分でも半分ギャグのつもりでやっているんだろうけれど、ああいうものだって、充分に変態的だといえる。八割のひとがそういうことを楽しめる感覚を持っているとしたら、全人口の八〇パーセントが変態なのだろう。
 人間は変態になれるようにできているけれど、生まれながらの変態はいないし、そういうフェティシズムのようなものは、頭が頭だけで気持ちよくなれるように、特定の刺激さえあれば気持ちよくなれる回路のようなものとして頭の中に作られるものなのだろう。みんな自分で、何かで気持ちよくなれるように、自分の感じ方を探りながら、気持ちよくなれる感覚を構築してきたということなんだ。
 オナニーしたことがない子供がやみくもにペニスを刺激してみても気持ちよくなれないけれど、適度な刺激ならなんとなく心地よさがあって、そこからスタートして、どうすれば気持ちよくなれるのか、自分のペニスと、ペニスの気持ちよさをどんなふうに身体で受け止めればいいのかを探っていって、だんだんと自分の身体を気持ちよくさせられるようになっていくとして、そこまでは肉体がもともと持っているものなのだ。けれど、勃起の気持ちよさに他の興奮を混ぜていって、別の種類の気持ちよさを頭の中に発生させて楽しむようになったら変態的になってくる。そして、それくらいで変態なんだから、セックスできるわけでも目の前にいるわけでもなく、スクリーンに映った画像に対して、自分の好きな顔だからと、見た瞬間に興奮できるというのは、どうしたって変態だろう。
 俺は今までフェティシズム的にひとの顔をかわいいと思ったことがなかったんじゃないかと思う。そのひとの顔を見るのが好きだからと、そのひとの写真を見たり動画を繰り返し見るということをしたひとがいなかった。そもそも、きれいだとかかわいいと思っていた芸能人もいなかったし、かわいいとかエロいと思って好きだった漫画のキャラがいたわけでもなかったのだから、それは当たり前のことではあるだろう。けれど、逆に言えば、かわいいと感じるというフェティシズムを形成しなかったから、テレビを見ていてもかわいいと思うひとがいなかったのだろうし、漫画を立ち読みしていても、このひとの絵のこのキャラクターのこの顔はすごくいいと思って、これは買わないといけないと思ったこともなかったということでもあるのだろう。
 俺が実家で過ごしていた頃は、テレビはリビングとダイニングと、あとは客間にあったゲーム用のテレビしかなかった。テレビは親がいるところでしか見られなかったし、もちろんパソコンも携帯電話もなかったし、親は雑誌の類も買っていなかった。自分の部屋にはステレオしかなかった。中学生とか高校生の間も、グラビアがついているような雑誌は読んでいなかったし、一時期ゲーム雑誌は買っていたけれど、俺は美少女ゲーム的なものは興味がなくて一本も遊ばなかったし、萌え絵的な方向性の絵は当時からあったけれど、そういうものを見ていていい気分になって何度も見ているということもなかった。ゲームと音楽にお金を使いたかったし、漫画はほとんど買っていなくて、美少女がでてきたり、性的なシーンがあるものだと、士郎正宗の攻殻機動隊しかなかったし、漫画として面白かったけれど、士郎正宗の絵のフェティシズム的なものにさほど興奮したわけでもなかった。その頃はエロ漫画雑誌も立ち読みできる本屋で立ち読みして、家に帰ってからそれを思い出してオナニーしたりしていたけれど、それにしても、絵に興奮していたというより、シチュエーション的なものに興奮していたところが大きかったのだろうし、好きな漫画家がいたわけでもなかったのだと思う。
 それは単にきっかけがなかったからそうなったというだけのことなのだとは思う。そして、俺が今二十歳になるくらいの時代に生まれていたなら、俺だって小さいときから子供向けの映像コンテンツをたくさん見て、そういうものに夢中になって、そういうものをもっと楽しむための回路を頭の中にたくさん作リながら成長することになったのだと思う。いろんな種類のかわいさやかっこよさを予定調和的に楽しめるようになって、思春期になって自然とそのひとの人格に引かれるようにして異性を目が追ってしまうようになる前に、こういう種類のかわいさが好きという、相手の人格とは関係のない属性やパターンで何かをかわいいと思って、そう思えそうなものを無意識に探しながら生活するようになっていたのだろう。もちろん、それと並行してこっそりポルノビデオやインターネット上のエロ漫画も見ただろうし、自分が興奮するための回路も頭の中に作っていって、街ですれ違うひとの身体つきがそれにかするだけで頭の中で性的妄想を再生していい気分になったりしながら通学するようになっていたのだろう。
 どう考えたところで、俺がフェティシズムの希薄な人間になったのは、俺がフェティシズム的なもので気持ちよくなれるように作られたコンテンツにほとんど触れることがなかったからでしかないのだと思う。今の時代に幼児期を過ごすのなら、毎日膨大な時間を携帯電話やタブレットを空っぽな顔で見詰めて過ごすことになるのだろう。いくらでものめり込んで延々と繰り返しそれを見られてしまうのだし、それを隅々まで知っていきながら、もっと気持ちよくなろうと集中して、それをもっと楽しめるような回路を頭の中に作っていくことになるのだろう。そういうコンテンツは、刺激が強くなるように、特徴的なキャラクターが特徴的なことをやっているものが多いだろうし、自分が何かを感じるまでじっくり相手を見るような感覚は薄れていって、相手が提供してくれる刺激的なものをシチュエーションとかパターンの面白さとして消費していくような楽しみ方にどんどん慣れ親しんでいくことになるしかないのだろう。
 俺が君のお父さんになれたのなら、君になるべく君に携帯電話の画面を見せないようにしてあげたいと思っているのは、そういうことでもあるんだ。君は自動的に携帯電話の画面の中の動画に夢中になるけれど、そうしたときには、君はほとんど自動的に、フェティシズム的な楽しみ方でものを見ることに慣れ親しみすぎることになってしまう。自分の感じ方の軸もない状態で、ただひたすら自分を楽しませてくれるものをより楽しめる自分になるために頭の中にフェティシズムを積み上げていったようなものの感じ方の人間になってしまうのは、そんなつもりもない小さい君にとってあまりにかわいそうなことだろう。だから、それよりも先に、何か面白いコンテンツを見られなくても、自分の気持ちを自分で感じながら、自分が思いついたことをやっているだけでずっと気分よくしていられる子供になれるようにしてあげたいということなんだ。
 それは別に大げさな言い方ではないんだよ。今のひとたちは、見るとテンションが上がるようなものばかり見て過ごすようになってしまった。テレビやインターネット動画で、かわいいものとか、きれいなものとか、きらきらしたものや、すごい迫力のものばかりを見ているのだから、現実の中で目に入るひとたちを、しょぼくれていたり、疲れていたりするひとたちをつまらなさそうなものに感じるようになってしまうのは仕方のないことなのだろう。
 俺の場合は、子供ながらに夢中になれるようなコンテンツを与えられることがそもそもなかった。俺の家には絵本がほとんどなかったけれど、それはきっと俺がそれほど絵本を好きじゃなかったからなのだろう。実際、絵本の思い出というのは全くない。まだ小さい頃は読んでもらったりもしていたのだろうけれど、小学校に入って、自分で読めるようになってからは、どういう本であれほとんど読んでいなかったのだと思う。何年も長いことダイヤブロックで遊んでいた気がするけれど、暇だからといって、何かを見れば楽しくなれるというものは何もなくて、自分でいろいろ想像しながらブロックで遊んでいるのが暇つぶしとして一番マシだったのだろう。ビデオは小学生くらいの頃にはあったような気もするけれど、アニメ映画とか、アニメ番組を録画したものとか、自分が好きなものをビデオで繰り返し見たこともなかった。共稼ぎだったから、授業が終わって家に帰ってから、親が帰ってくるまでひとりの時間があったけれど、小学生の間は自分の好きなときにゲームをすることはできなかったし、テレビもアニメとか子供向けの番組がやっていなければ見なかったし、漫画も家にはほとんどなかったし、面白いものを見て暇をつぶすということはできなかった。ゲームがやりたい放題だったなら何もかも違ったのかもしれないけれど、俺はそうではなかった。俺はずっと暇だったし、ずっと特にやりたいことがなくて、その無為な時間をアニメが始まって、そのうち親が帰ってくる一八時半とか一九時まで自分で何とかするしかなかったのだ。
 俺が小学生の頃でも、友達の中には、家に帰ってからはずっとゲームをしているような子もいたし、漫画雑誌を毎週買ってもらっている子もいた。けれど、どちらかというとそういう子供の方が少数派で、俺は特に話題についていけなくて悲しかったりしたこともなかった。たまに友達と一緒に遊ぶのも、雨でもなければ外で缶けりとかドロケイをして遊んでいたり、小学校の休み時間もいつもボール遊びをしていた。俺は小学校二年生のときに昭和が終わった年代だったけれど、子供時代の遊びということだと、それなりに昭和の子供として育ったといえるのだろう。そういう俺からすると、今の子供たちが、世間的に普通のこととして、小さいうちから毎日何時間もゲームばかりしていたり、録画したアニメを延々と見ているとか、インターネット動画を見まくっているのを許されているのは、どうにも不思議な感じがしてしまう。そういう楽しいものがあるからって、自分で楽しいことを考えて遊ばないで、楽しませてもらうようなことばかりをずっとやっていていいと親たちは本当に思っているんだろうかと不思議に思ってしまうんだ。

 今の子供たちは、退屈になるたびに、タブレットで好きな動画を見ているのだろう。面白いものや、すごいと思えるものや、かわいいと思えたり、かっこいいと思えたりするものにいつでもすぐに浸ることができて、気持ちよくなろうと思えば、すぐに気持ちよくなれてしまうようになったのだ。インターネット動画だけではなく、もう少し大きくなればゲームをやり始めるのだろうし、小学生の高学年くらいになって、自分用の携帯電話を持たせてもらったり、タブレットをひとりで好きに使えるようになったりすれば、ポルノ動画を見て興奮して楽しくなるような暇のつぶし方すらできるようになってしまうのだろう。
 ただ見られるだけではないのだ。昔はテレビが小さかったし、画像が粗かったというのもある。俺が小学生くらいでも、家にあったのは二十型とかで、二十七型が途中で家にやってきて、すごく大きいと思っていたくらいだった。画像も今のテレビとは比較にならないくらい粗くて、画面の中で何かが動いているのを見ていることで発生する気持ちよさは、今の子供が大型のテレビやモバイル端末の高密度なスクリーンを見ているのより、はるかに小さかったのだろう。
 そんなふうに、スクリーンを覗き込むだけで、いつでもかわいいひとや、かっこいいひとや、面白いひとや、エロいひとを見られて、いつでも頭を気持ちのいい状態にしてもらうことができるようになると、楽しいとか楽しくないという感覚はずいぶん変化してしまうだろうと思う。
 スクリーンを覗き込めば何の苦労もなく自動的に楽しくなれて、いいものを見ているいい気分になれて、けれど、スクリーンから視線を外して、現実の人間を見ると、みんなしょぼくれている。だからもっと自分を気持ちよくさせてくれるひとの顔とか姿を見ていたいと思って、延々とスクリーンに好きなものを映し続けてしまうのだろう。
 それは子供たちの問題ではなく、みんながそうなのだろう。けれど、今の子供たちは、ものごころがついたときにはすでにインターネット動画が大好きで、それを見るだけで気分がよくなるものやひとがたくさんある状態から人生が始まる。それは人生の最初から自分の中のフェティシズムで気持ちよくなるという自己完結的な物事の楽しみ方にどっぷり浸っているということでもあるのだろう。すでにそういう感じ方になっているところからスタートするのなら、手近に見ると頭を気持ちよくさせられるものがいくらでもあって、それで簡単に楽しくなれるのだから、それができるとみんながイケていると思ってくれることをやりたいという以外には、自分で自分を楽しませられるようなことをする必要を感じなかったりするのだろうと思う。そうやって、コンテンツ消費だけしていれば満足な子供が多数派になって、誰かのファンになって、そのひとに関連するあれこれを見ることで気持ちよくなって、一番他人への感情が盛り上がるのはそういうファン活動をしているときであるような人間の予備軍が増えていくのだろう。
 好きなものを探していろんなものを見て、好きになれそうなものがあったら、一生懸命に見て好きになって、好きなものを見てもっと気持ちよくなれるように、そのものの特徴をフェティシズム的に好きになっていこうとするのだ。そういう時間の中であまりにも気持ちよくなりすぎてしまうことで、そこに人生の喜びを見付け出してしまうようになったひとがどんどん増えているのだろう。
 もちろん、それが悪いことだというわけではないのだ。かわいいひととか、格好いいひとを見て気持ちよくなれるようになると、格好いいひとを眺めていたり、かわいいひとと話したりできることは、自分の生活の中でも特にうれしく感じられるような時間になってくれる。そういう特別なうれしさを生活の中に確保できることを大きな救いに思えるようなひともたくさんいるのだろう。ただ単にコンテンツ消費して楽しんでいるだけではなく、格好いいと思えたなら、自分の心が大きく揺れ動かされて、身体全体でそれに反応することができる。生活の中では、不快感と反発心と嫌悪感くらいしか他人に対して心が動くことはないひともいるのだろうし、そうしたときには、自分の好きなひとへのとてもいい気持ちになっているときこそが、自分の生きている実感を一番はっきり得られる時間になっていたりもするのだろう。
 そういう楽しみというのは、スクリーン越しにいつでもいくらでも見たいものを見ていられるようになったことで、そういう楽しみで気持ちよくなる習慣を持っているひとが増えてきているというだけで、昔から人間はそうやって他人を使って頭の中で自分勝手に気持ちよくなっていたのだろう。セックスがらみのことは、大昔からどんなセックスであればもっと興奮できるかと、文化として膨大にいろんなひとのいろんなフェティシズムがみんなに共有され続けてきた。女のひとの身体の形とか特徴に対しての好みというのは、まるごとそういうものだし、彼女にしたい女のひとと、セックスしたい女のひとが違うのも別のフェティシズムで相手を見ているからなのだろう。同じ女のひとをかわいく思うにしても、日常的な関わりでかわいく思いたいものと、セックスのときにどんなふうに振る舞ってくれるとかわいく思うのかが乖離しているというのもそういう問題だろう。そして、それはとてもありふれた変態性なのだろう。
 昔から男も女も、他人の顔や身体を見ながら好き勝手に頭の中で楽しんでいたのだろう。フェティシズムがなくても、きれいなひとを見ていればいい気持ちになれるし、男らしい身体や女らしい身体にはひきつけられる。好きになったものを何度も反芻しているだけで、頭の中で、あれはよかったなと思っていたものは、もっといいものになっていく。そして、実物よりも自分の頭の中でいいなと思っていたイメージの方が魅力的なものになっていくのだ。
 自分なりに好きなものをもっと好きになって、相手から伝わるものよりも、自分がそれをどんなふうに好きかということの方が自分にとって気持ちよくなってしまうのがフェティシズムだし変態的な好意なのだろう。そして、自分が自分の好きなものを知っていることが楽しくて仕方なくて、自分の好きなものを見付けて、やっぱりそれが好きだなと再確認できることがうれしくて仕方がないという感じになれたなら、そこからは一気なのだろう。そのうれしさや心地よさを何度も味わいたくて、いつも自分の好きなタイプのひとを探しているような状態になって、そうやって生活しているうちに、いつもなんとなく自分の目を自然と引きつけてくれるものがないかと探しているような状態になって、いいなと思えるものがあったら、それをじっと見ていい気分になろうとする習慣ができていくのだ。それは街を歩いていても、画面を見詰めていても、どこにいても、いつでも楽しめることだから、いつの間にかそうなったまま、一生絶え間なく続く頭の中のフェティシズムを使った暇つぶしになってしまうのだろう。
 俺は今まで、街を歩いているときなんかに、かわいいひとがいないかとなんとなく目が探してしまうのが癖みたいになっていたことがなかった。特に女のひとの身体つきに対しては、目が止まったり、目で追ったりすることが全くなかったのだと思う。それでも、女のひとと一緒にいて性的な雰囲気が発生してくれば、相手の身体に、感触的にも視覚的にも興奮できはする。
 街中で自分の好きな感じの身体をした女のひとに目がいくひとというのは、そもそも、無意識に特定の身体の形を探しながら景色を見ているからそうなるのだろう。大きな胸とかの特定の身体の部位の形とか、キャバ嬢的なファッションでくびれはありつつ大きすぎないお尻とか、制服でぱつぱつの足とかというような、特定の服装と体型の組み合わせとか、自分の中で概念として好きなものがあって、その概念に当てはまるものを見られたら、とりあえず瞬間的に興奮できてしまうような、そういう準備ができている状態で生活しているのだと思う。
 そうやって自分の好きなものに当てはまるものを見て喜んでいるときというのは、自分の見たいところしか見ていなくて、その相手の全体とか、そのひとの雰囲気とかには全く反応していなかったりするのだと思う。俺は逆にそのひとの身のこなしの印象が先に入ってくるから、神経質そうなひとだとか、どんくさそうなひとだとか、格好よさそうなひとだとか、そういうことをなんとなく思ってから、そのひとの身体とか顔を確認していくような感じになる。だから、何かしらの印象を持ったうえでしか、ひとの身体を認識していないし、身体の形に対してのフェティシズムもないから、体格とか身のこなしに目が止まっても、そのひとらしさのようなものを感じ取って、なんとなくの印象の通りのひとっぽいのかを確かめて、それで終わりだったりする。フェティシズムがなければ、それが自然なひとへの注意の引きつけられ方なんじゃないかと思う。
 体型だけではなく、他人の顔がかわいかったり格好いいことにうれしくなる感性というのも同じなのだろう。顔にしろ、身体にしろ、美しく感じるものを見ると気分がよくなるというのは、人間として生まれつきのものなのだろうけれど、顔に対しても、生まれつきの美しさへの反応とは別に、自分の好きな顔のタイプというものをフェティシズム的に自分の中に作っていくことができるのだろう。そして、それに当てはまるものを見ることで気持ちよくなるときには、目の前の美しいものを眺めながら、ずっと伝わってきている美しさの感触に、やっぱりすごいなと思っているうちにどんどんいい気持ちになっていくような感覚とはずいぶん違っているように見える。
 そういうことは、いかにもな感じのぶりっ子をかわいいと感じるひととか、いかにもな感じの格好つけた男をかっこいいと感じるひとを見ているとよくわかる。わざとらしいひとが好きなひとたちは、わざとらしいひとがわざとらしいことをしているのを見たときに、ほとんどまともに見もしないうちからかわいいと思っているように見えるし、そう思ったあとも、自分の思いたいように思うばかりで、ずっとうれしそうにそのひとの顔を見ているはずなのに、そのひとからにじみ出ているわざとらしさや目の中の冷たさや気持ちの動いていなさに気が付かない。そういうひとたちというのは、本人は自分がまわりのひとたちよりも面食いなつもりなのかもしれないけれど、実際は人並み以上にひとの顔をちゃんと見ていないし、そのひとが本当にきれいだったりかわいかったりしているのかも気にしていない、さっさと自己満足したいだけのこだわりがなさすぎるひとでしかなかったりする。
 どうしてそうなってしまうのだろうなと思うけれど、それは単純に楽だからなのだろう。よく見ていなくても、しっかり感じていなくても気持ちよくなれるような簡略化された回路としてフェティシズムが形成されて、それによって手軽に気持ちよくなっているということなのだ。なるべく楽なやり方で安定的にいい気分になりたいのなら、毎回ちゃんと目の前のものを感じるよりも、頭の中に気持ちよくなれる回路を作って、外部からちょっとした刺激をもらってその回路を動かして気持ちよくなるという方が、はるかに疲れないし、うまくいかなくていらいらせずにすむということなのだろう。
 それは単純に、目をつむりながら頭の中で好きに性的妄想をしながらセックスするなら、身体さえ好きにさせてもらえればそれなりに満足できるけれど、ちゃんと相手を感じてセックスしようとすると、相手に自分とのセックスを楽しんでもらえないといけないし、楽しんでくれている相手の姿が自分にとって魅力がないと満足いくセックスにはならないから、できればなるべく目をつむってセックスしたいというのと同じようなことなのだろう。そして、だからこそ、フェティシズムに逃げ込むのも自然なことになるということではあるのだろう。いい相手がいなくて、一生懸命セックスする気力もなくて、相手に楽しんでもらって自分を好きになってもらえるセックスもできないのなら、最初から相手の身体を使ってオナニーしておいた方がどうしたってコストパフォーマンスがいいということになるのだ。
 きっと、そうやって相手の身体を使ってオナニーするようにセックスするようなひとほど、相手の顔や身体に対して、もっとどうだったら興奮できるのにと、文句をつけたい気持ちになっているのだろう。そういう感じ方をするひとにとっては、他人というのは、見守っているうちにそのひとの中の気分や気持ちを感じ取ろうとする対象ではなく、顔や身体つきをぱっと見て、自分の好きな感じであればすぐに興奮して、そこからは頭の中で妄想を盛り上げていくためのネタとして、顔がいいこととか、胸や尻が大きいことを使うだけの対象になっているのだ。
 一日中頭の中のフェティシズムをいじくり回して暇つぶしをしているようなひとたちというのは、現実の自分が参加している人間関係と並行して、目に見えているものに対して、自分の頭の中で現実の自分には不釣り合いな態度で好き勝手なことを思い続ける時間を生きているのだろう。単純にいえば、オナニーするときのノリで現実を見て、オナニーするときのように頭の中で好き勝手なことを思うというのをやっていて、ひとによって、そういうオナニーノリの自意識の方が自分そのもので、現実の人間関係はその場での自分のキャラを演じながら相手に合わせているばかりの、自分らしくない振る舞いばかりをしている時間のように思っていたりするのだろう。
 そういう男というのは、全く珍しくなかったりするのだと思う。女のひとへの好みとか、自分は女のひとに対してどう振る舞えばいいのかという自己イメージが、現実の自分が周囲からどう見られていて、どんなリアクションを日々受けているのかということと釣り合っていないひとはたくさんいる。
 そういうひとたちというのは、少なくても、他人から自分への、おいおいという反応をリアルタイムに感じ取って、自分の相手への振る舞いとか態度を微修正し続けるという、普通のひとがいつもやっていることをやっていないひとたちではあるのだろう。もともと生まれつきに近い感じで共感能力があまり働かなくて、他人が違和感を持つようなことをしていても、他人の顔に浮かんでいる違和感が自動的に伝わってこなくて、自分が他人に違和感を与えていることに気が付くことができないというパターンのひともけっこういるのかもしれない。
 けれど、そういう共感の低さが土台にあったとしても、自分はそんなひとだと思われていないのに、それを無視して独りよがりなことをしているのは恥ずかしいと思って、わからないなりに他人の反応を確かめながら気を付けて生きているひとたちもいるのだろう。そういうつもりがないから、しょぼい男なのに何様のつもりなんだろうと思われたままになっているのだろうし、自分の現実を自分がよくしていきたいという気持ちよりも、自分の頭の中の妄想を優先して生きているからそうなっているとは言えるのだろう。
 もちろん、それは難しいところがあって、みんなからなんとなくしょぼいやつだと思われていたとして、みんなから思われている通りにしょぼそうなやつらしく振る舞ったとして、それが本人にとって幸せなことなのかはまた別だったりするのだ。自分が振る舞いたいように振る舞うと、みんなからはしょぼいくせにえらそうだなと思われて、ちょくちょく鼻で笑われたり、影でバカにされたりはするけれど、自分では自分のことをしょぼいと思っていないのにしょぼいかのように振る舞うよりはよっぽどマシだと思うとして、それを非難することはできないのだろう。集団の多数派からバカにされたからって、自分と似たような感じのひとで集まっているところでは、しょぼいんだからおとなしくしとけよという顔もされないし、みんなで自己イメージのままに気を大きくして喋ってもいられるし、これが本当の自分だとも思っていられるのだろう。だから、バカにされているのはわかっていても、だからって俺はへこへこなんかしないと思って、鈍感なふりをしながら、相手が嫌がっていても自分の好きにしようとしているひとも多いのかもしれない。おじさんなんかだと、もう今さら他にどんな顔をすればいいかもわからないという感じで、やけになっているような感じも漂わせながら、調子に乗ったえらそうな態度でまわりに接し続けているひとたちというのがたくさんいるのだろう。
 けれど、わざとそうしているところがあるからといって、そうやってまわりの反応を見て見ぬ振りし続けていられるのは、相手の感情をもろに感じないからだったりもするのだろう。他人の気持ちが常に自動的に伝わってくるひとたちは、自分が相手の意に沿わないことをした瞬間に心がずきっとして、今のは違ったなと思ってしまうし、自分のことをいつまでも誤解し続けているひととか、気軽に誤解してくる相手には、自分から距離を置きがちになっていったりするくらいなのだ。そういうひとたちからすれば、集団内で基本的に常に他人と噛み合っていないなんて、どんな気分なのか全く想像もつかないのだろう。




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