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【連載小説】息子君へ 83 (19 君がお母さんにかわいがられすぎないか心配しているよ-5)

 世の中には、自分が気にしないのなら本当に気にしないでいられて、周囲と噛み合ってないまま、一方的に好き勝手なことを思って、好き勝手なことをしてしまえるひとたちがたくさんいるのだ。そういうひとたちはオナニーのようにセックスするひとが多いんだろうなと思う。現実の女のひとを前にしているときも、すでに人間関係といえるくらいのものがある相手でもなければ、そのひとを見ていても特にそのひとの人格については何も思おうとはしなくて、自分が思っていたいことを思うのにそのひとの像や属性を使うだけなのだろう。基本他人全般をバカにしながら、暇つぶしのようにして、目に映るひとの顔や身体や服装に自分の気分をよくさせる何かを思ったりするだけで、そのときそのひとの中には、インターネットでいろんなポルノを探して、これじゃないとか、これはなかなかだとか思っているのと同じような感覚しか動いていないのだろう。ポルノの世界こそ、最も徹底的にルッキズム的価値観とフェティシズムが支配している世界なのだろうし、現実の他人と噛み合わないまま思いたいことを思ってひとりで気分よくなっているというのにしても、まるっきりポルノでオナニーしているのと似たようなサイクルの感情を生きているということなんだろう。
 そういうひとはそこら中にたくさんいる。けれど、そのひとのそばで、そのひとが自分の頭の中のことしか感じていないような顔をしたまま興奮し始めるのを見ていたら、多くのひとは、そのひとのことをまるで感情がないみたいに感じるのだと思う。それくらい異様に感じてしまうほど、他人に心を動かされることをベースに生きているひとと、自分で自分の頭の中を楽しくさせるばかりで生きているひととでは、現実の中で体験している感覚が全く違っているんだ。
 なんとなく目が止まったものに何かを感じるまで目を留めてみることなんてめったになくて、いつも自分にとって心地よい刺激になるものを探すような視線で生きているひとがたくさんいるのだ。そういうひとにとっては、世界には自分を楽しませてくれるものと、そうじゃないものがあるだけで、そうじゃないものには、興味を持たない以前に、まともに目を止めることすらないのだろう。そうやって見たくもないものは見ないようにしているからこそ、それを見せられて、自分を楽しませてくれないものに関わらさせられるとなると、不愉快でしょうがなくなってしまうというのもあるのだろう。
 集まるというから来てみたら男だけなのかとがっかりしたり、女の子がいるというからきたのにブスしかいないじゃないかとがっかりするひとはたくさんいる。それを口に出すひとばかりじゃないんだろうし、言わないだけで、きれいなひとがいないとがっかりするというひとはもっとたくさんいるのだろう。ブスと喋らないといけないのは不愉快で、ブスに何かしらの表情を返してあげるだけでも屈辱的な感じがするとか、そんな感覚がある男というのは、俺の世代の男なら、過半数がそうなのだろうし、その大半がかなりいい歳までとか、もしかすると死ぬまでそんなふうに思い続けるのだろう。
 俺は中学高校の六年間、女のひとがいない環境で過ごして、テレビの中ぐらいでしか、ブスやブサイクをバカにしたり邪険に扱う姿を見ていなかったから、大学生になって、ブスに対しては当たり前のように冷たい視線を向けて、あわよくば無視しようとして、それができなければ嫌そうにだったり、苦笑いするみたいにして応対したりするまわりの男たちを見て、かなりびっくりした。女子みんなに対して、面倒くさそうにするならともかく、かわいい子にはにこにこして、そうじゃないひとには表情を消すなんて、どうしてわざわざそんなことをするんだろうと思っていた。
 当たり前だけれど、大学以降、どこに行っても、男たちの過半数はそんな感じだった。いつも俺はわけがわからないなと思っていた。そういうひとたちがブスだと思っているひとたちの半分くらいは、そんなに意地悪そうでもないし、素直そうなひともいるし、無理しない感じに楽しそうに笑っているひともいるし、そういうひとで、自分と感じよく喋ってくれていたら、地味な顔をしていたり、自分で自分のことをブスだと思っていそうでも、ちょっと太っていたりしても、させてくれるならセックスしたいなというような気持ちになっていた。だから、男たちのかわいい子がいないじゃないかという落胆が、何を見てのどういうがっかりなのか全くわからなかった。そもそも、男ほどじゃないにしろ、女のひとでも嫌なやつというのはけっこういたりはするけれど、あまりにも嫌なひとだったり、やる気がなさすぎるひとだったり、不健康で不潔っぽすぎるようなひとでもなければ、自分と楽しく喋ってくれれば、みんなそこそこかわいく思えるものだろう。むしろ、ちょっとくらい嫌なやつだったり、やる気がなくてつまらないひとだなとちょっと思ってしまうようなひとでも、ほんのちょっとくらい不潔でも、自分に向かってうれしそうにしてくれいれば、ふとするたびに今ちょっとかわいかったなと思って、させてくれるならセックスしたいなと思えてしまったりするくらいなのだ。ブスに対してわざわざブスを傷付けようとするための表情を向けようとするひとたちは、どうしてそんなふうなのだろうと思っていた。
 社会人になっても、女のひとが部署にくるのなら、ブサイクよりもかわいいひとの方がいいに決まっているじゃないかというようなことを女のひともいるところで当たり前のよう話すようなひとたちがいた。近くにいたひとがたしなめるように、でも仕事ができないひとが来ても困るよねというように言われると、ブスはたいてい仕事が速いわけでもないし、何をやってもらうにもいちいちうるさかったり面倒くさかったりするだけで、ブスが来たっていいことなんて何もないというようなことを言っていたりした。そして、そういう話をしていたひとたちは、ブスという仮想敵を攻撃できたことで少し気をよくしているようですらあった。
 もちろん、残念なことにというか、こんな世の中なのだから当然なのだけれど、統計的には見た目のいいひとの方が知的能力も運動能力も高い傾向があるだろうし、自己肯定感も高いから、何をするにも取り組み方が素直で成長速度が早い傾向すらあるのは、統計的に見たときにはどうしようもない本当のことなのだろう。もちろん、自己肯定感がそうなってしまうのも、まわりのひとが見た目至上主義によって差別することで強化された傾向なのだろう。職場で仕事を教わってやっていく上でも、教えてもらったり指示をもらうときにどれだけ親切にしてもらえるかが容姿によって違ってくることで、容姿による成長速度の違いも強化されてしまう。差別する気が満々のひとからすれば、自分のような差別的な人間が多数派の職場に来てもらうのなら同じことが起こるのだし、かわいいひととブサイクなひとを選べるのなら、ブサイクを選ぶメリットがないのは、そのひとの経験則としては正しくすらあるのだろう。もちろん、それはめちゃくちゃな思い方なのだ。自分がブスだとバカにして、頑張っても他のひとの頑張りより評価せず、落ち度を責めるばかりでやる気も下げて、必要な指導やフォローも充分にしてあげないことで相手のパフォーマンスを下げていえるくせに、ブスはみんな低能力だと思っているのだから、とんでもないことだなと思う。
 もちろん、それは見た目でバカにしているという以前の、ヘイトスピーチというか、言葉の暴力でしかないものなのだろう。けれど、男たちというのは、その場に女のひとがいても、ドブスがいないのなら、これはドブスの話だよというていにして、平気でそういう話をして笑っていたりする。
 えらそうにブスをバカにして、そのたびに、まわりのひとから、嫌なやつだなと思われているひとたちは、どういうつもりでそんなことを言っているんだろうと思ってきた。けれど、それは単に生き方の問題なんだろう。普通に世の中のニュースを見ていて、気になるニュースをもう少し見てみたり、世の中で重要視されているひとが紹介しているような本とか映画の中で、たまにちょっと興味を持ったものを見てみたり、読んでみたりしたのなら、もうそういう時代じゃないというのは、明らかにわかることだろう。そういう意味では、そういうひとたちは世の中に興味がないひとたちなのかもしれない。けれど、現実には、そういうことをわかっているひとたちだって、ブスをバカにすることをやめないし、それは単純に、まだ自分のまわりのみんながそういうノリのままでいるから、自分もそうしているということなのだろう。人間は自分のいる集団を世界そのものであるかのように思えるものだし、男たちで集まって下品な会話や下品な遊びを続けているひとたちは、何か困ったことでもないかぎり、今まで通りの感じで楽しくやろうとするものなのだろう。
 俺のいた会社の社長も、とてもいいひとだし、社員の女のひとには丁寧に接するし、なるべく冗談も言ってあげたりしつつ、セクハラにならないように気を付けつつという感じでやっていて、女性社員からもちゃんとしたひとだと慕われていたけれど、社長仲間や仕事仲間で集まってゴルフ旅行にいくときには、宿にピンクコンパニオンを呼んだり、付近のキャバクラやフーゾクにみんなで行ったりというのが半分目的のような遊びをずっと続けていた。個別の女のひとにはいつも優しく接してはいても、男たちとは買春して性的に消費する観点で女のひとのことを語り合ってげらげら笑っていたのだし、そうやって男たちで集まって、そういう種類の男ならではの楽しみで爆笑できるのが人生の喜びの一つでもあったのだろう。実際、ゴルフやキャバクラに付き合ったことはないけれど、その社長さん友達や仕事仲間友達のひとと飲んでいるところに混ぜてもらって飲んだことが何度かあったけれど、おじさんたちはそうやって集まって、子供っぽくふざけたり笑ったりしていて、みんな仲がよさそうだったし、とても楽しそうだった。そんなにも楽しいと、仲間たちとの遊びに深く組み込まれてしまっている、女のひとを性的に消費する遊びを自分からやめようという気にはなかなかなれないんだろうなと思った。
 一緒に仕事をして楽しかった大好きなひとたちのことを思うと、女のひとを性的に消費するのが大好きなことは、そんなに悪いことなんだろうかという気もしてくる。俺は確かにブスでもかわいくてもわけへだてがなかっただろうし、買春することもなかったし、女のひとを騙したり、本当ではないことを思い込ませてセックスさせてもらったりしたこともないし、恋愛としては女のひとを傷付けたけれど、それ以外ではあまり女のひととは積極的に関わらなかったし、ほとんど女のひとを傷付けることがなかったんじゃないかとは思う。けれど、そういう俺の人生は、男の人生として、何か自分によいものをもたらせた人生だったんだろうかとも思う。
 女のひとを排除したうえで、女のひとには聞かせられないようなことを楽しもうとするのを男らしい遊びというのなら、俺は男たちと男らしい遊びをしたり、男らしい話をしてげらげら笑っていたことがほとんどなかったのだろう。俺は俺で充分友達と楽しくやっていたけれど、かといって、世の中の多数派の男たちからすれば、俺が楽しかったときより、社長がおじさん友達と、ゴルフ旅行のときのキャバクラに行ったときの話をして爆笑しまくっている姿の方がもっと楽しそうに見えるのだろうし、俺が友達と少し遠出して遊んでいる光景より、社長たちの買春付きゴルフ旅行の方が楽しそうに見えるのだろう。どうしたって、笑い声の大きさも、みんなが疲れてしまうくらい笑ってしまう度合いにしても、社長たちの方が大きなエネルギーをそこで発散させてはいたんだろう。
 男の集団が自分たちさえ楽しければいいという感じで、下品な感じで騒いでいるというのは、その輪の外側の人間からすると、うるさいし鬱陶しいものに感じられる。けれど、その集団がみんなが仲がいい状態が続いていて、放っておいてもすぐに笑い声が湧き上がるような時期なら、そうやって周囲を排除しながら、自分たちだけで楽しくなろうと内向きに結束して、ひどいことをしたり言ったりして興奮しながら、気分任せにバカなことを言い合って笑い合っているというのは、それ以上に強烈な楽しさを感じられる時間なんてないくらいに、楽しいものなのだろう。
 人間は集団になって生きるだけではなく、自分たちが楽しくやれるような小集団を作って、そこで他の集団よりも楽しくやろうとするものなのだろう。男は男で集まって、その中でノリや金の使い方が近いひとで集まって、せっかくそういうメンバーでの集まりになっているんだからと、より自分たちらしく遊ぼうとするものなのだ。その自分たちらしさというのが、集団によっては、女のひとに対して横柄な態度をとったり、金で女を買う界隈のノリになったりするのだろうし、ひとりではそんなふうに振る舞うことがないひとも、その集団でいるときにはそういうノリで仲間といるときの乱暴な自分を楽しんでいたりするのだ。
 普段の生活の中では、女のひとのことをひとりひとり自分と対等な存在として感じているようなひとも、仲間と一緒にいるときには、対等な恋愛をしているときの自分の眼差しを忘れて、徹底的に性的消費する対象として女のひとを見て、そういう対象として話のネタにして、そういう対象としてセックス遊びに使おうとしても、全く後ろめたさを感じないでいられてしまうのだろう。目の前の金で買っている相手の気持ちを感じ取ろうともせずに、金で買っているぶん楽しませてもらおうと、身体を反応させようと乱暴に扱って暴力を受け入れさせる気持ちよさを満喫できてしまうし、変なひとにあたったり、何か面白いことが起こったら、それをみんなと話して爆笑できるのが待ち遠しくなってしまうのだろう。
 その社長にお前はゴルフはしないのかと言われて、しないですねと答えることで、俺はその仲間には入らないということを伝えて、男らしい仲間の外側の、もう少し公的な、社員の男のひとりというくらいの距離感で接してもらうことを選んでいたのだろう。もし楽しそうな仲間に入れてもらいたかったなら、俺はゴルフを始めないといけなかったし、買春ゴルフ旅行にも行かないといけなかった。
 男たちの多くは、それと似たような感じで、自分が仲間に入れてもらった集団で楽しくやるために何だってしてしまうのだろう。みんなが女の子のことをバカにしているからと、自分もそういうことを言うようになるし、みんなどういう体型が好きだとか、どういう顔がいいとか、何系のポルノが一番興奮するというような話をしているから、自分もどういうもので興奮できるかいろいろ試して、次にそういう話になったら自分がどういうビデオで何回射精してしまったということを言おうと思ったりするようになるのだろうし、普通みんなするからと売春するようになるし、みんなそれくらいの冗談は言うからと、何の罪悪感もなくセクハラなことを言ったりしたりするのだろう。
 二十代の頃にいた会社でも、俺のいたグループのひとたちは、キャバクラが好きなひとが多くて、飲み会のあとに、よく何人もでキャバクラに向かっていた。俺は一緒に歩いてあれこれ喋って、店の前で俺は入らないと言って帰っていた。それにしても、俺は友達にはならないという線を引いていたことでもあるのだろう。別に仕事上は密に話し合いながらやれていたし、スキー旅行なんかだと一緒に行っていたりしたし、キャバクラに行かないからどうってことはなかった。それでも、明らかにキャバクラには行かなさそうな男以外では、一切そういう店に付き合わないというのは俺だけだったのかもしれないし、俺はあなたたちとは一緒ではないというようなギャップは感じさせてはいたのだろうと思う。
 そして、実際ギャップはあったんだろうし、俺はみんなと比べれば、かわいい女のひととブサイクな女のひとにわけへだてがないだけでなく、会社内のみんなに対して、ダサいひとでも、仕事が遅いひとでも、仕事上空回りが多くてみんなにうんざりされているひとでも、誰にでもわけへだてなく接していた。そして、そのときの会社のひとたちは、みんなそれなりにいいひとたちだったけれど、それでも、いろいろとずれていてまわりに迷惑をかけているひとや、仕事で足を引っ張っているひとや、仕事が遅いひとたちのことはあからさまにバカにしていたし、あからさまに冷たく接しているところがあった。
 人間が集団になると、集団内に自分たちの普通という共通感覚が作られる。そして、仕事のでき具合とか、ダサさとかトロさとかが普通の範囲からこぼれ落ちそうになってきたひとたちに対して、自分たちとは違ってダメなひとだからという気分になって、そのひとたちがそのままドロップアウトしていくのを冷ややかな目で観察しているようになってしまう。けれど、集団というのはどうしたってそういうものなんだろうなと思う。人間は集団になると簡単に感情がないみたいな行動を取ってしまうものなのだ。




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