見出し画像

続・息子がいるのならぜひとも男子校に通わせたい

(こちらの記事の続きとなります)

生まれつきの肉体的な問題として、頭のよさや、何かをすることの上手さや、言うことの面白さがある程度決まっていることについて、俺がまともに何かを考えたりすることがないまま大人になってしまったのは、中学高校と男子校に通ったからというのが大きかったのだろうと思う。

そして、男子校というだけではなく、俺の通った学校が、何もかも中途半端な、特定の色が希薄な学校だったからというも大きかったのだろう。

俺が通ったのは、あまり賢くない私学だった。

余裕のある家庭で育ったさほど賢くないとはいえ中学受験して引っかかりはするという程度のひとたちだけが集まっていたということでは、かなり均質性の高い集団だったのだと思う。

知能もみんな大差がなく、総じて誰もいばることもなく、総じてみんなのんびりわけへだてがなかった。

そういう場所で、俺は世界はそれなりに平等な場所だと思ってしまったのかもしれない。

思春期の六年間、身の回りにいるひとたちが自分と似たようなひとたちだったから、人間はみんな似たようなものなんだと思い込んでしまったところもあったのかもしれない。

そして、そんな甘っちょろいものの見方をする十八歳になったあとは、比較的高学歴なひとたちとばかり関わるような人生になってしまった。

アルバイト先ではいろんなひとがいたのだろうけれど、アルバイト先のひととは、女のひとと一対一で仲良くなったことがあった以外には、仲良くなったひともいなかった。

社会人になってからも、IT系の底辺というわけでもない職場をいくつかだったから、比較的まともなひとしか社内にはいないし、自分が応対する客もIT部門の担当者をやれるようなひとたちだったし、話がまともに通じないひとなんて世の中にあふれかえっているのに、俺は社会人生活の中では話の通じないひととほとんど関わらずにやってきてしまった。

もちろん、それはいいわけでしかなくて、俺がまともな頭をしていれば、俺が生きてきた道筋の中でも、そういうことに気が付いていけたのだろう。

小学校には、支援学級もあったし、自分の同級生でも、高学年になっても九九があやふやな子もいたし、時間の進み方がその子だけ遅いように感じるような子もいた。

障害者ではないだけで、普通のひとに混じってみんなと同じように授業を受けているのは本人にとってはぎりぎりで、小学校はなんとかなっても、もうそのあとはどうしようもなくなっていくだけだった子もいたのだろう。

中学に入って以降、そういうひとが身近にいないのをいいことに、そういうことに鈍感になり続けていたというだけだったのだと思う。

大学に入って、バイトをしたりして、また小学校以来久しぶりに、普通のひとに混じって生活するようになって、いろいろうまくやれないけれど、ぎりぎり踏みとどまっている感じのひとたちとも接するようになった。

俺は多分、ちょっと頭が鈍いひととか、ちょっとどんくさすぎるひととかに対して、まわりよりちょっとだけ親切なひとだったのだと思う。

俺はそのひとたちができないひとだと思っていなくて、自分と大差ないのだから、うまいこと伝わればちゃんと理解してくれるだろうと思って、どうしたら理解しやすかったり、そのひとがやりやすかったりするのかを考えて伝えればいいとだけ思っていたし、実際にそうしていた。

そんなつもりで接していたから、当然、頑張っていろいろ話しても結局無駄になったとか、時間をかけてサポートしてやってもらったことが結局失敗になって二度手間になるということが何度も繰り返された。

そうやって、ちょくちょくとそういうひとたちと話したり、そのひとたちが不器用にあれこれやっているのがどんななりゆきになっていくのかを遠目に見ながら、そのひとたちがうまくいかないのは、うまくいかなくなってしまうような思考や行動の癖がついてしまっているからではなく、そもそもの感じ方や最初の感情の反応の仕方からして、こちらが想定しているところに届いていないところをうろうろしているような、そういう感じ方になっているからなんだろうと感じるようになった。

そして、ぎりぎりなひとたちの中でも、ひとによって、普通を目指しながら普通に届かなさというのが、それぞれにばらばらだというのを知っていって、俺はそういうひととうまく意思疎通することの大変さに、シンプルに面倒くさいなと思っていたのだと思う。

中学高校はゲームばかりして、あとは音楽を聞きながら受験勉強したくらいで終わってしまったけれど、さすがにもう少しはいろいろ考えるようになったということなんだろう。

それまで六年間、いつもの仲間で集まって、ただ面白いやつが面白いことを言おうと頑張っているのに笑わせてもらっているだけで楽しく過ぎていく毎日を過ごしていた。

そこから急に、友達もいないし、女のひとたちもいる環境に変わって、初対面のひとたちとの毎日になって、自分が相手ごとにいろんな印象を持たれるけれど、そもそも自分がどんな印象をもたれるつもりで生きているのかもよくわからなかったり、誰と喋っていても、もっと何か言えそうなのにたいして何もでてこなくて、自分がひどく空っぽに感じられたりした。

中学高校の思春期だった時期にたいして自分のことを真面目に思い悩まなかったせいで、俺はそういうことを悩むのが大学に入ってからになってしまった。

そして、そうやって自分はどんな程度のどんな存在なのだろうかと思いながら、自分のそばにいるひとが、自分とは全く違った頭の回転で考えをどんどん進めていったり、物事の理解力や見聞きしたものを頭の中に入れてしまえる力が全く違ったりするのを感じたりしながら、みんなそれぞれに違った感受性と身体性を持っているということを実感していったのだろう。

俺はもともとみんな似たようなものだと思っていたから、ひとのことをあまりどういうタイプのひとだとも見ていなくて、だから逆に、みんなひとそれぞれだとシンプルに思っていたけれど、それがそこで逆転したのだろう。

他人とまともに関わるようになって、だんだんとそのひとの感受性や身体性をそのひとのそのひとらしさとして感じられるようになっていって、みんなそれなりにばらばらなのだと思うようになったし、そうすると逆に、みんな自分の行動パターンに固執してばかりで、自分の好きなように振る舞えていないものなのだと思うようになっていったのだと思う。

そう思いながら、いろんなひとと接しているうちに、頭の働き方が自分とは大きく違っているひとたちへの感じ方も変わっていったのだろう。

腕立て伏せが一回もできないひともいれば、スーパーマリオブラザーズがどうしてもクリアできないひともいれば、音痴じゃないと言われないように歌えないひともいるように、その場の空気が読めないひとがいたり、ひとの話をうまく理解できないひとがいたり、勉強が全然できないひとがいるというだけで、それは障害者か健常者かということでもなく、ただ知能の腕立て伏せが五回以下しかできないひとを障害者としているだけだとか、そういう認識に変わっていったのだろう。

けれど、そんなふうにまわりのひとたちのことを見るようになっても、自分には自分の限界があって、それは自分が思っているよりもはるかに狭い範囲で自分を囲っているというのを、俺は全くわかっていなかったなとは思う。

たいして努力しない人生だったけれど、とはいえ、周囲のひとたちの平均よりは、よかれと思って苦労しながら疲れることを試行錯誤した二十代とか三十代の半ばまでを過ごした気はする。

けれど、平均ちょっと上くらいの努力量じゃそんなものかなとは思っているけれど、今となっては、なんとなく思っていたよりも、自分はたいして何もできなかったなと思ってしまう。

きっとそういうことを思うのが遅すぎたりしたのだろう。

そもそも、自分はどれくらいどんなことができるひとになれるつもりだったんだろうかと思うけれど、それこそ素朴に何でもできると思っていて、可能性は無限大だと思っていたのかもしれない。

もちろん、俺がそんなふうに素朴な人生観で、自分の価値とか、自分がどの程度の存在なのかということを気にすることに神経質にならずに大人になれたのは、男子校に行っていたからというだけではなく、それ以上に、そんなふうに育つこともできる時代や社会だったからというのが大きいのだろう。

俺のようにみんな似たような存在で、自分も頑張れば何でもそれなりにやれると思ったまま思春期を過ごすなんてことは不可能なのだろう。

それでも、男子校であることで強迫されずにすむものはあるのだと思う。

俺はいけていない男の子だった。

俺に子供がいたとしても、そうなるのだろう。

小さい頃からすでにいけている男の子になっているのなら、そのままそういう自分を楽しんで生きていけばいいのだと思う。

けれど、いけていない男の子にとっては、わけもわからないまま、いけていない男として恋愛社会に巻き込まれて、自分を弱者であるかのように思いながら自我を固めていくより、恋愛社会の中での自分をアイデンティティに組み込まずに自我を固められたほうが、自分が自分であることを苦痛に思わずに生きていけて、気が楽なはずなのだ。

もちろん、復讐心はエネルギーになるのだろう。

俺はさほどエネルギーの強い人間ではなかったし、そんな人間が、のほほんと生きられるから男子校のほうがいいんじゃないかと思うのは、あまり建設的なアドバイスではなかったりするのかもしれない。

けれど、俺はコンプレックスが強い人が苦手だし、卑屈な人が苦手だし、自分が誰のこともうらやましく思ったことのない人生だったから、他人の妬みの感情に触れるとびっくりしてその相手を軽く軽蔑してしまったりするような人間なのだ。

そういう人間として、自分の子供が自分のような賢くもないし、運動神経もよくないし、いけてもいない子供だったとしたときに、男子校に行けるのなら男子校に行ったほうがいいんじゃないかとアドバイスしたくなるというのは、そんなにおかしなことなんじゃないかと思う。


(終わり)


「息子君へ」からの抜粋となります。

(この二つから抜粋して加筆)


息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。


全話リンク

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?