伊藤計劃を布教したい~夭折のSF作家は貴方の「物語」となる~
1 「伊藤計劃」を知らない人でも伊藤計劃を楽しめる、とあるYoutube放送のススメ
突然だが私の好きなSF作家(といっても私自身ほとんどSF作品は読まないし、SFジャンルに詳しいわけではないのだが)に「伊藤計劃(いとうけいかく、プロジェクト・イトウ)」という方がいる。私の周囲にはSF作品や、まして伊藤計劃の作品について語れる同士というのは皆無であったので、伊藤計劃の作品に触れた人の感想を、言い換えればその人が伊藤計劃に出会った「物語」に飢えていた。そんな最中、何気なくYoutubeを眺めていると、このようなYoutube放送が流れてきた。
【コラボ 】みゃもさんと、伊藤計劃先生の読書推し配信【#諸星めぐる
#Vtuber】 (youtube.com)
この放送は、書店員Vtuberとして民俗学をわかりやすく解説してくれる学術系Vtuberの「諸星めぐる」氏が、同じくVtuberとして京都や美術を紹介している学術系Vtuberの「みゃも」氏と一緒に「伊藤計劃はいいぞ」ということを伝える放送であった。なお、ここではVtuberのジャンルについては厳密な区分を設けることはせず、あくまで私の主観でこの二人を「学術系Vtuber」と定義させていただくことはご了承いただきたい。この二人のVtuverのことが気になったという方はリンクも張っておくので是非見てみて欲しい。
諸星めぐる Megu.ch【書店員VTuber】 - YouTube
2 「伊藤計劃」とは~基本情報~
さて、読者の皆様が伊藤計劃が何者かを知らないままこのnoteの投稿を続けるのも仕方がないので、ここで私からも伊藤計劃を紹介させていただく。もっとも、伊藤計劃を全く知らないというのであれば、上記の【コラボ 】みゃもさんと、伊藤計劃先生の読書推し配信【#諸星めぐる
#Vtuber】 (youtube.com)のリンクをクリックして放送を視聴してもらえればそれが一番手っ取り早いかもしれないのだが。
伊藤計劃とは日本のSF作家である。名前の「計劃」という字は、作家デビュー前のウェブサイト運営時代から使っていた名義であり、「自分自身を計画する」という意味でつけられた。また、あえて旧字体の「劃」という字を用いているのは、ジャッキー・チェンが主演・脚本・監督・武術指導を担当した映画『A計劃(プロジェクトA)』などの香港映画でよく使われるのが印象的だったためと言われる。1974年東京都生まれで武蔵野美術大学を卒業している。2009年没、享年34歳というあまりにも早すぎた夭折の作家である。短い生涯で残した代表作に『虐殺器官』『ハーモニー』『The Indifference Engine』(以上早川書房刊)『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』がある。
※『屍者の帝国』は伊藤計劃の遺作とされているが、冒頭部分を書き上げた時点で伊藤計劃は亡くなってしまい、残りの物語部分(体感9割5分)は伊藤計劃の盟友であるSF作家の円城塔が引き継いで完成させた作品であるので、個人的には『屍者の帝国』は実質円城塔の作品だと思っているため、あえて伊藤計劃の代表作としては挙げてはいない。この点の異論は認める。上記の伊藤計劃布教配信でも『屍者の帝国』についてはほとんど言及されてはいなかったように思われる。
伊藤計劃は2007年に『虐殺器官』を発表したことで当時の日本SF業界に衝撃を与えた。その後2008年に発表された『ハーモニー』は第40回星雲賞(日本長編部門)、第30回日本SF大賞、2010年フィリップ・K・ディック記念賞特別賞を受賞するといったように国内外のSF業界に影響を与えた。
また、ゲーム『メタルギア ソリッド』シリーズ開発に携わった小島秀夫氏の20年来のファンであり、「小島原理主義者」を自称するほどであった。小島氏と伊藤計劃との関係性は当初はゲーム製作者と熱心なファンの間柄を超えるものではなかったものの、2001年に伊藤計劃が癌に侵されてから段々と関係性は変化していき、2007年に『虐殺器官』で伊藤計劃が作家デビューしてからは小島氏は『虐殺器官』を『メタルギア ソリッド』シリーズへの理解を多く反映した作品であると評し、『メタルギア ソリッド4』のノベライズを伊藤計劃に依頼することになるのである。こうして、伊藤計劃によりノベライズされた『メタルギア ソリッド4』こそが『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』なのである。
他にも、生前に個人運営していたホームページにおいて多くの映画時評を残している。また、自身の闘病生活についても克明に書き残している。この辺りの詳細は、後述の「その他伊藤計劃関連書籍」にて紹介している。
3 「伊藤計劃先生の読書推し配信」の魅力
今回の投稿は伊藤計劃を布教することが目的であるのだが、いったん伊藤計劃を抜きにして上記の「伊藤計劃先生の読書推し配信」自体の魅力について語っていきたいと思う。
諸星めぐる氏とみゃも氏両名の伊藤計劃大好きっ子ぷりは配信のテンションから伝わってくる。それに加えて、二人とも話が上手なのである。理路整然と伊藤計劃の魅力を伝えつつその熱量も本物であるから、自然と視聴者はこの配信の虜になり、ひいては伊藤計劃の魅力の導線になっているのである。
(1)諸星めぐる氏の伊藤計劃オススメポイント
諸星めぐる氏は主に『虐殺器官』をメインに伊藤計劃を紹介している。そもそも諸星めぐる氏はゲーム『メタルギア ソリッド』シリーズから伊藤計劃の存在を知りその魅力にとりつかれ、『The Indifference Engine』も勧めている。私はゲームの『メタルギア ソリッド』シリーズをプレイしたことはないが、諸星めぐる氏が言うには虐殺器官を読むと『メタルギア ソリッド』をプレイしたくなるのだそうだ。伊藤計劃本人も『メタルギア ソリッド』シリーズに影響を受けていることから、『虐殺器官』の描写は『メタルギア ソリッド』シリーズをプレイしたことのあるユーザーであればニヤリと出来る描写が仕込まれているのかもしれない。
諸星めぐる氏の言う伊藤計劃作品の魅力は大きく分けて二つあるという。すなわち、①一人称ナレーションであること、②ポストヒューマニティを描いていることであるという。前者について、小説というのは主人公目線の一人称視点か、客観的視点である三人称視点から描かれるものであるが、伊藤計劃の作品では主人公の一人称視点によるナレーションが採用されている。この一人称ナレーションの利点というのは、主人公の置かれている残酷な状況・ディストピア的な状況がユーモラスに描かれるようになるのだという。こうすることによって、読者は主人公の置かれている状況に共感しやすくなるのだそうだ。後者について、そもそも「ポストヒューマニティ」とは、「人間中心主義を脱し、人間無き世界を思考する新しい哲学」のことである。伊藤計劃がこうしたポストヒューマニティ的世界を描くようになったのは、自身の闘病生活が影響しているだろうと分析される。闘病生活に伴い投薬治療がなされると、自身の身体が「物質」であることを嫌が応にも気付かされることに思うことがあったことは想像するに難くない。伊藤計劃は幼い頃から闘病生活を余儀なくされていたことから「科学技術によって維持される身体、科学技術が無ければ消滅してしまう身体」と表現していた。また、絶望や恐怖・悲しみといった感情も投薬であっさり吹き飛んでしまったことも伊藤計劃の捜索に影響を与えたことは疑いないことだという。
そして、諸星めぐる氏は伊藤計劃が残した「人間は物語でできている」という言葉に感銘を受けたそうだ。私も好きな言葉である。この言葉は後述する「その他伊藤計劃関連書籍」の中の『伊藤計劃記録Ⅱ』(ハヤカワ文庫)に収録されている伊藤計劃の自問自答から来ている。「人は何故子供を作るのか」という最初の疑問から始まり、人はいつか必ず死ぬから自分自身を残すためにともに過ごした時間の記憶、様々な性向や仕草、癖、すなわち「自らの物語」を残すために子を育てるのだという。というより、人間は物語としてしか子に自らを残すことは出来ないのだそうだ。なぜなら、人間は物語で出来ているからだという。そして、人間は物語で出来ているということはどういうことなのか、また延々と説明が続く。続きは自分の目で確かめて欲しい。ここで、あえて私見を述べるならば、人間が物語であるということは、血のつながりをも超えて生き続けることが出来るということになるだろう。『鬼滅の刃』で産屋敷が鬼舞辻無惨に語った「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」という台詞に通ずるものがあるとも言える。このように、諸星めぐる氏は、マイフェイバリット伊藤計劃語録を見つけることを勧めてもいる。
(2)みゃも氏の伊藤計劃オススメポイント
一方、みゃも氏は『ハーモニー』を中心に伊藤計劃を紹介している。みゃも氏の伊藤計劃との出会いは美容院に入る前に立ち寄った本屋で平積みされていた白い表紙の『ハーモニー』を偶然目にしたことだそうだが、それまで純文学ばかり読んでいたみゃも氏は初めて読んだSF作品が『ハーモニー』となったことで大層衝撃を受けたそうだ。
まず、みゃも氏が衝撃を受けたポイントというのは、『ハーモニー』が「タグの付いた一人称の物語」であるということだ。これがどういうことなのか、実際の文章を引用して見てみよう。
『ハーモニー』という作品は全編を通してHTMLタグのような表現が散見される。「この時この人物はこういう感情を抱いていますよ」「目の前のこれはこういう意味の物です」といった具合に表現される。『ハーモニー』がこうした表現を採用しているのは、実は伏線でもあるので気になった方は是非原作小説を最後まで読んで欲しい。最後まで『ハーモニー』を読み終えた時、貴方は『ハーモニー』をもう一度最初から読みたくなる衝動に駆られるはずだ。これは、音声や映像表現では上手に表現しきれない、まさに小説だからこそ表現できることなのだ。だからこそ、劇場版も作成されているが『ハーモニー』は一度は小説で味わって欲しいとみゃも氏は述べている。
また、みゃも氏は『ハーモニー』の世界観がとても好きだという。みゃも氏は『ハーモニー』が2009年に発表された作品でありながら、コロナ禍後の世界を予言していたのではないかということに言及している。実際にコロナ禍が勢いを増していた時期にはカミュの『ペスト』の売れ行きが上がったようだが、世界的な感染症が流行した後の世界を追体験するという意味でも『ハーモニー』を読む意味はあると言える。むしろ、コロナ禍を経験したからこそ『ハーモニー』を読もうという呼び声はもっと声高に叫ばれてもいいはずなのだ。一歩間違えればコロナ禍を経験した現実世界は『ハーモニー』の世界に足を踏み入れることになるのだから。そんな『ハーモニー』の世界では①生命主義=健康の保全を第一に考える社会、②「社会に貢献し、優しく正しくあれ」という社会規範、③個人情報は全て社会に開示され、貢献度や経歴といった社会的評価が筒抜けで社会からの評価が常に表示されている(それ故に『ハーモニー』の世界では「プライバシー」という言葉がエッチな意味で捉えられていたりする)、といった具合の管理社会になっている。基本的にはこの世界観は「ユートピア」として描写されているが、人によっては「ディストピア」と捉える人もいるだろう。そんな世界において主人公である霧慧トァンは戦場に逃げてタバコを吸うという「破廉恥で不摂生な」描写があるわけだが、その描写をみゃも氏は「エモい」と感じたそうだ。
ところで、みゃも氏が『ハーモニー』を読み返した際に「涼宮ハルヒのオマージュじゃん」と思った部分を発見したそうだ。伊藤計劃は古今東西の小説・映画・ゲーム・アニメの小ネタをふんだんに作品や書評に用いることがあるが、本当にそのような描写があったのか私も確かめてみた。そして、確かにそれは存在した。引用するとこのような形で描写されている。
それに対して、涼宮ハルヒの有名な台詞は以下のようである。原作小説の『涼宮ハルヒの憂鬱』は読んだことはなくても、京都アニメーションが製作したアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』で聞いたことがある人はいるかもしれない。そんなハルヒの名台詞はこちらである。
この台詞を暗唱できるかが一種のオタクとしてのステータスを図る一要因となっていた時代があった。それはともかく、伊藤計劃の作品や文章にはこうした小ネタが詰まっていたりするので、幅広く色んなジャンルにアンテナを伸ばしておくとより深く伊藤計劃の作品を楽しめるだろう。ひいては、気付かぬうちに教養の深い人間に勝手になってしまっているはずだ。
そして、みゃも氏は『ハーモニー』で描かれている「私の体はだれのもの?」という問いかけにも深い関心を寄せていることがうかがえる。『ハーモニー』の世界では大人になると「WatchMe」と呼ばれるナノマシンを身体に入れられることになっており、これによって人類は有史以来の超健康社会を手に入れることが出来るようになるのだが、それと引き換えに身体は個人のものではなく社会のものという規範が生まれることになった。こうした社会規範ないし共同体意識に嫌悪感を抱く少女達の物語が展開されていくわけだが、男性視点ではなく女性視点だからこそこの嫌悪感を描けたのだろうとみゃも氏は分析する。みゃも氏は伊藤計劃について、どんな人生を歩めば男性でありながら女性の・少女の心情を掴めるのだろうと感嘆していた。もしかすると男性視点で読むのと女性視点で読むのとでは、同じ『ハーモニー』という作品を読んでも感想や意見が分かれたり変わったりするのかもしれない。「複数の視点や感想が現れるのが良い小説の条件の一つ」的なことをどこかで聞きかじった記憶があるが、『ハーモニー』は正にその条件を満たす作品と言えるだろう。
さらに、みゃも氏は『ハーモニー』で描かれる「表現の暴力性」についても言及している。『ハーモニー』の劇中では以下のような描写が描かれている。
つい先日、とあるアーティストの新作MVが歴史的配慮を欠いた表現であるとして炎上した騒ぎがあったが、芸術的表現はどこまで社会に配慮すべきなのかということをみゃも氏も一表現者として考えているからこそ、この『ハーモニー』の描写が一瞬だけとはいえ強く印象に残ったのだという。そして、あえてミァハに誰かを傷つける可能性のある表現を描けることを「うらやましい」と言わせたことに伊藤計劃の作家性が強く現れていることを述べている。
4 私と伊藤計劃との出会い
ところで、私自身はどのように伊藤計劃の作品と出会うことになったのか気にはならなかっただろうか(別にならないか)。私が伊藤計劃のことを知るようになったのはギリギリ大学生時代か、法科大学院生時代になってからである。しかし、当時の私は少なからず読書の習慣はあったものの(法律を学ぶ以上少なからず法律分野の基本書や法律の周辺領域の学際的な社会科学分野の読書量は増えるものである)、SF作品の読書には消極的だったのである。むしろ、アニメを視聴している時間の方が圧倒的に多かった気さえする。大学に入学して一人暮らしをするようになり親の監視下を離れるようになったことと、周囲の友人がやたらアニメを見たり勧めたりする環境にいたことが重なり、大量のアニメを浴びるように視聴する習慣が身についたのである。そんな生活を続けている最中に『PSYCHO-PASS』(第一期)という作品に出会った。これが後に伊藤計劃作品と出会う導線になるのである。
『PSYCHO-PASS』とは、フジテレビのオリジナルアニメーション作品シリーズである「ノイタミナ」(アルファベットの「ANIMATION(アニメーション)」を反対から読んだ造語である)の一作品として放送されたテレビアニメ作品である。2012年にテレビシリーズの第1期が放送されたのを皮切りに2024年時点でテレビシリーズは第3期まで放送され、劇場版も長編が3作、短編が3作上映されるほどの人気作品である。『PSYCHO-PASS』はシリーズによって主人公陣営の登場人物の立ち位置が変動したりする影響で作品のジャンルも一言では言いがたいものがあるのだが、私が強くオススメする第1期に限って言えば、『PSYCHO-PASS』とは「近未来SF刑事ドラマ」である。舞台は22世紀の日本。世界は戦争やら内戦やらで治安がひどく乱れており、日本以外で安住して生活できる場所がほとんど無いという世界観である。何故日本は世界で唯一安全・安心な生活を送れるようになったかというと、「シビュラシステム」という(雑に言えば)スーパーコンピュータあるいはスーパーAIを導入したからである。「シビュラシステム」は日本国民全てを適切に管理することで絶対的な安寧と幸福を保障することに成功している。そして、この絶対安心を裏付ける仕組みとしてシビュラシステムは「犯罪係数」というものを導入している。「ドミネーター」というシビュラシステムとリンクしている未来の拳銃を対象者に照準を合わせることで犯罪係数を計測し、一定水準の犯罪係数を上回った者をその場で気絶なり射殺なりするという治安維持を行っている。『PSYCHO-PASS』はこのドミネーターを駆使した未来の刑事ドラマなのである。
そして、『PSYCHO-PASS』第1期を「原点にして頂点」たらしめ、2期以降の評価を1期に比べてイマイチとさせている存在こそが、私を伊藤計劃沼に引きずり込んだ存在でもある「槙島聖護(まきしましょうご)」という人物である。彼の立ち位置としては『PSYCHO-PASS』第1期におけるラスボス的立ち位置のキャラクターであり、第1期の主人公の一人である狡噛慎也(こうがみしんや)とは因縁がある。この槙島聖護は読書家であり博識でもあり、その豊かな知性と立ち振る舞いからカリスマ性がありふれているキャラクターである。しかも槙島聖護役の声優は櫻井孝宏ということで、槙島の存在感に説得力を持たせていることに成功している。
そんな『PSYCHO-PASS』(槙島聖護)と伊藤計劃のコラボ企画がハヤカワ文庫で行われており、大学生協の本屋で見つけた『伊藤計劃映画時評集1』という本の帯が、槙島聖護が「紙の本を読みなよ。」とこちらに問いかけるスペシャル仕様になっていたのに心引かれ、購入することになった。これが私と伊藤計劃とのファーストコンタクトであり、ベストコンタクトであった。ちなみに、このような帯である。↓
5 私的伊藤計劃作品紹介
伊藤計劃の作品自体の魅力は上記の【コラボ 】みゃもさんと、伊藤計劃先生の読書推し配信【#諸星めぐる
#Vtuber】 (youtube.com)で十分に説明し尽くされている気もするのだが、あえて私自身の言葉でも伊藤計劃の作品の紹介をしたいと思う。ここでは伊藤計劃三部作と言われる『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』に焦点を当てて紹介したい。また、これら三部作は劇場アニメ映画化されているのだが、上記配信では劇場版についてはあまり触れていなかったように思う(あくまで原作小説にフォーカスを当てた配信だったと記憶している)ので、劇場版の評価も加えた紹介を加えたい。
(1)『虐殺器官』
原作小説を家族の前で読む際は、表紙をブックカバーで覆い隠すことをオススメする。特に思春期に「虐殺」なる物騒なワードの入った書籍を堂々と読んでいると周囲の親御さんに余計な心配をされる恐れがあるからだ。
作品のあらすじを紹介すると、『ハーモニー』の前日譚(というより、『ハーモニー』が『虐殺器官』の続編にあたる)に相当する、近未来における一部地域での戦争、内紛が最終的に全世界に波及するまでの物語だ。『虐殺器官』の主人公であるクラヴィス・シェパード大尉はアメリカ情報軍・特殊検索軍ⅰ分遣隊という暗殺を専門とする部隊に所属する隊員である。クラヴィス達の今回の標的は謎の男、ジョン・ポール。彼が姿を現す先々ではテロリズム、民族紛争が蔓延し、必ず虐殺が起きるという。幾度となく暗殺対象となりながらもその度に姿を消す謎の男ジョン・ポールを追い、クラヴィス達は世界を駆け巡る、という話である。
原作小説と劇場版の両方を体験した身としては、原作小説の方が登場人物の心情や行動の動機付けがしっかり描かれているという点で優れているのではないかと思う。原作小説を読まずに先に劇場版を見てしまうと、主人公の行動の動機が不明、あるいは説明不足で話が飛んでいるように感じるかもしれない。逆に原作小説を先に読んでから劇場版を見ると(私はこのパターンだった)、原作小説で描かれていた描写、特に主人公クラヴィスの行動原理として重要な立ち位置に存在する「母親」の存在がカットされていたり、ヒロイン役のルツィアを守りに行く動機付けが原作と比べて弱く感じてしまうのではないか、と感じてしまう。私が劇場版の『虐殺器官』に不満を抱いている点はこの2点に尽きる。早い話が原作小説を先に読んでしまったら、わざわざ劇場版を見なくてもいいのではないかと思ってしまったのだ。逆に言えば、劇場版の不満点はそれくらいのもので、映像美はハイクオリティを保っている。劇中に登場するSFガジェットや戦闘描写は伊藤計劃が『メタルギア ソリッド』シリーズの大ファンであることを意識してなのか、とても丁寧に描かれていたように思う。メタルギアシリーズファンであれば、話について行けなかったとしても戦闘描写だけで劇場版の『虐殺器官』に高得点を与えるのではないかと感じた。そもそも、当初劇場版の『虐殺器官』の製作を請け負っていた「manglobe」というアニメ製作会社が倒産してしまい、一時期『虐殺器官』の映像化は不可能という噂さえ流れたものだが、何としても『虐殺器官』を劇場映画化させるために新たに「ジェノスタジオ」というアニメーション製作会社が立ち上がり、このジェノスタジオが『虐殺器官』製作を引き継いだことで何とか劇場版『虐殺器官』は完成にこぎ着けられたのである。それを思えば、私の否定的な感想は贅沢なのかもしれない。ちなみに、劇場版のジョン・ポール役の声優が櫻井孝宏なので、『PSYCHO-PASS』の槙島聖護が好きなのならば一度は劇場版『虐殺器官』を視聴してもいいかもしれない。
一方、小説としては長編ということで分量に圧倒されるかもしれないが、意外にも読みやすく最後まで挫折することなく読めるだろう。『虐殺器官』は、伊藤計劃本人はSFを意識して書いた作品ではあるが、その実マンハント小説でもあり、私立探偵小説でもあり、冒険小説でもありと全方位型のエンタテイメント小説に仕上がっているからである。さらに言えば、伊藤計劃がエンタテイメント小説の在り方を変えたとさえ言われているのである。
(2)『ハーモニー』
伊藤計劃三部作の中で、原作小説としても劇場アニメーションとしても私が一番好きなのがこの『ハーモニー』という作品である。伊藤計劃三部作の劇場版においてはこの『ハーモニー』が余すことなく原作小説を細部まで再現していると思われるので、ストーリーだけを追うのであれば劇場版だけを観ても大丈夫かもしれない。しかし、やはり原作小説も触れて欲しいと思うわけである。というよりも、原作が小説だからこそ表現できることもあるので、劇場版の『ハーモニー』を先に観たという人はぜひ原作小説も手に取って読んでみて欲しい。
まず、小説版の魅力については、上述のみゃも氏の伊藤計劃オススメポイントで紹介し尽くしたように思うが、そもそも『ハーモニー』という作品のあらすじを紹介していなかったのでここで改めて紹介することにする。登場人物の直接的なつながりこそないが、『ハーモニー』は『虐殺器官』のその後の世界を描いた作品である。21世紀初頭に起こった全世界的な騒乱<大災禍(ザ・メイルストロム)>(つまり、『虐殺器官』ラストのネタバレ)から約半世紀。人類は大規模な福祉厚生社会を築き上げていた。医療分子である「WatchMe」を体内に入れることで人類は病気をほぼ放逐することに成功し、見せかけの優しさや倫理に包まれた「ユートピア」での生活を謳歌していた。そんな社会に疑問を抱いた3人の少女は餓死することを選択した。それから13年。生き残った・死ねなかったかつての少女であった主人公・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただ一人死んだはずの少女・御冷ミァハの影を見る。現在世界を襲う大混乱と13年前のミァハの死が関係しているらしいことを知ったトァンは、この謎を追い、彼女の遺体が収容されたという医療都市バグダッドへと飛ぶ、という話である。
そして、劇場版『ハーモニー』は伊藤計劃三部作の中で一番完成度が高いのではないかと思っている(個人的に)。劇場版『ハーモニー』が一番伊藤計劃の原作との乖離が少ないというか忠実に原作を再現していると言えるからである。『ハーモニー』で描かれた管理社会が映像化されると、なかなかグロテスクだなぁと感じた(いい意味で)。緑や水色や黄色など、健康に良さそうな色彩は他にも色々ありそうなのに、『ハーモニー』世界で「健康」とされる日本社会は全体的に薄いピンク色で覆われていた。その様相はまるで母親の子宮が檻のように覆い被さっているようなグロテスクさを想起させて、なんとも言えない気分になった(伝われ)。
何より、私が伊藤計劃三部作の中で『ハーモニー』が何故一番気にいっているのかといえば、劇場版の御冷ミァハがあまりにも完璧な存在だったからである。私は原作小説を先に読んでから劇場版の『ハーモニー』を映画館で観に行ったが、劇場版のミァハが原作を読んだ時の脳内ミァハのままの「声」を発していたのだ。御冷ミァハ役の上田麗奈がとても良い仕事をしてくれた。この世界で上田麗奈以上に御冷ミァハを演じられる・顕現させられる役者は存在しないだろうと断言できる。それほどまでに上田麗奈の芝居は神がかっていた。おかげで、御冷ミァハが女性化した槙島聖護というイメージが脳内にこびり付いてしまった。槙島聖護も御冷ミァハも、紙の本を読むことに強いこだわりを持っていた。『ハーモニー』において、ミァハは読書についてこのように言及している。
御冷ミァハは、霧慧トァンと零下堂キアンという二人の少女にとっての絶対的なイデオローグ(あえて安い言い方をすれば「カリスマJK」)としての地位を確たるものとしていたが、劇場版では上田麗奈が「声」を与えることでよりその存在感が強みを増しているのを否応なく感じた。登場人物だけでなく、視聴者の「心」あるいは「魂」に直接入り込んでくるような透明感のある、それでいて不快感を感じることなどなくむしろ心地良くさせてくれるその「声」に老若男女問わず魅了されるだろう。御冷ミァハのことを「ファム・ファタール」と評する者が現れても全然不思議ではないと思っている。実際にミァハは劇中で重要なキーパーソンとなる。かつては死んだものとされていた存在が実は生きていて現実の理想的世界を混乱の渦にたたき込もうと暗躍しているのだ。そんな存在がどんな結末をたどるのか、是非その結末を自分の目で確かめてみて欲しい。
劇場版の御冷ミァハがどのような存在感を放っているのかは劇場版の本予告だけでも十分伝わってくる。もしよければ本予告の映像だけでも見て御冷ミァハの存在感を感じて欲しい。ただ、『ハーモニー』の『本予告には流血・大量出血といった描写も流れてくるので、そういった表現が苦手な人は予め注意して欲しい。実際劇場上映の際も「PG12」レベルの「暴力描写注意」という表示が出ていた位なので。
「ハーモニー」劇場本予告 (youtube.com)
若干ネタバレっぽくなってしまうが、ハッキリ言えば私は『ハーモニー』の結末が気に入らないと思っている。だがそれは「作品がつまらない」という意味ではなく、自分の価値観では絶対に乗り越えることの出来ない選択を取ったということで、むしろ評価に値することなのである。言い換えれば、私は『ハーモニー』という作品を「結末が気に入らないところも含めて好き」なのである。矛盾したことを言っているような気がするだろうが、そうとしか言い様がないのである。
この点についてもう少し詳しく説明を加えるとすると、私は基本的に「人間賛歌」を謳った作品が好きなのである。「人間賛歌」という言葉は『ジョジョの奇妙な冒険』で使われたフレーズであると記憶しているが、要するに「知恵と勇気を駆使して目の前の困難を乗り越える物語」(例:『シン・ゴジラ』、『機動警察パトレイバー ON TELEVISION』等)だったり「無茶と気合いで道理を乗り越える熱血作品」(主にロボットアニメに見られがちなヤツ、例:『天元突破グレンラガン』、『キルラキル』、『プロメア』)を意味するのである。一方で、『ハーモニー』というのは「アンチ人間賛歌」というべきなのか、「人間の意思なんてものは進化の過程で生まれた副産物に過ぎない・自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識など、わたしがわたしであることを捨てた方が良い」という思想を貫いた作品なのだ。なので、『ハーモニー』は私の本来の好みの作品ではないのだが、一周回って「この作品スゲー」という感想に至ってしまったのである。伊藤計劃は自身のことを「ディストピア萌え」と評していたが、貴方はこの「ディストピア萌え」に共感できるだろうか。
(3)『屍者の帝国』
原作小説と劇場版でだいぶ差異が多く見られる作品である。大まかなストーリーを知りたいのであれば劇場版の方が理解しやすいと思われる。原作小説と劇場版で何が違うかといえば、主人公の人間関係が一番異なっているのだ。原作小説だと主人公ワトソンのただの従者というような形でフライデーという「屍者」が登場しているのだが、劇場版だとこのワトソンとフライデーがかつて友人関係であったと改編されており、このワトソンとフライデーの友人関係というのが、『屍者の帝国』の完成を引き継いだ円城塔と生前の伊藤計劃のメタファーとして読み取れるのが奥深いポイントだろう。
原作小説『屍者の帝国』のストーリーの説明をどうしようか迷っている時にYoutubeをつらつら眺めていると偶然にも『屍者の帝国』を紹介している配信を発見した。【ネタバレあり読書会vol.169】諸星めぐるさんと『屍者の帝国』を語るぞ!|書三代ガクト (youtube.com)という配信である。「書三代(しょみだい)ガクト」という小説系Vtuberの配信のゲストに、なんと先程から紹介している諸星めぐる氏が登場しているのである。世間はなんと狭いものかと思い知らされた。私の拙い説明よりも諸星めぐる氏の上記配信での『屍者の帝国』のストーリー説明の方がよっぽど上手いので、『屍者の帝国』の大まかなストーリーの説明や原作小説の魅力は主にそちらに委ねたい。
原作の『屍者の帝国』が『虐殺器官』や『ハーモニー』に比べると読みづらい(決してつまらないという意味ではないことに注意されたい)と感じるのは無理からぬことである。これは『屍者の帝国』を引き継いだ円城塔の文体による影響が大きいと思われる。円城塔の文体は論文のように正確な描写を心がけているそうなので、その文体になれないと頭の中で描写を再現するのが困難になるのだろう。もっとも、『屍者の帝国』は円城塔の他の作品と比べると比較的読みやすい部類に入る作品なのだそうだ(私自身は円城塔の他の作品に疎いのでその辺りの詳しい事情は不明である)。噂によると円城塔は文章よりは映像作品に関わった方がその作家としての実力を発揮できるのではないかという話があったりする。そう言われると、円城塔が脚本に関わったテレビアニメ『ゴジラ シンギュラポイント<S.P>』は確かに面白かったなぁという記憶があるのだが…。
話を『屍者の帝国』に戻す。『屍者の帝国』の舞台は19世紀末。この世界では労働力として、そして兵器として「屍者」という死んだ人間をロボットのように動かせるようにした存在が当たり前のようにいる。そんな世界で「屍者の王国」を建国しようとする男カラマーゾフを追って、ロンドン大学の医学生ワトソンは諜報員として記録専用屍者のフライデーを連れて世界中を捜索する…というのが大まかなあらすじだ。原作小説の時点で登場人物が多くその人間関係も複雑に絡み合っているので、いきなり原作小説を最初から読もうとすると挫折するかもしれない。なので、そういう意味でも劇場版を先に観て大まかな話を頭に入れてから原作小説を読んだ方が時間を無駄にせずに作品世界を楽しめるかもしれない。
個人的な感想としては、私は原作小説よりは劇場版の『屍者の帝国』の方が好きである。2時間程度の尺で物語が終わるように話や人間関係を整理・改編したのが功を奏したように思われる。誤解を恐れずに言えば、劇場版『屍者の帝国』は公式同人映画なのだ。そう思わせる原作小説には無い劇場版オリジナルの台詞がある。
この台詞は主人公のワトソンが友人であり屍者でもあるフライデーに向けていった台詞であり劇場版本予告でも取り上げられている台詞でもある。このワトソンとフライデーのやりとりは「ワトソン=円城塔」であり「君=フライデー=伊藤計劃」と置き換えて読み解くことも出来る。あるいは、「ワトソン=伊藤計劃の読者、視聴者」と読み解くことも出来るだろう。こうした原作小説には無い要素を、メッセージを載せたからこそ私は劇場版『屍者の帝国』を「公式同人映画」と称したのだ。劇場版『屍者の帝国』の本予告の動画を念のため以下に張っておく。「屍者の帝国」劇場本予告 (youtube.com)
(4)その他伊藤計劃関連書籍
①『伊藤計劃映画時評集1』『伊藤計劃映画時評集2』(ハヤカワ文庫)
上述したように、私の伊藤計劃との出会いはいわゆる伊藤計劃三部作ではなく『伊藤計劃映画時評集1』であった。『PSYCHO-PASS』第1期に登場する槙島聖護が文庫版の『虐殺器官』を片手に持っている姿で「紙の本を読みなよ。」というキャッチーな台詞までも印刷されたフェア帯に惹かれそのまま購入してしまったのが始まりであった。そういうわけで、私の伊藤計劃の第一印象は日本を代表するSF作家なのではなく、「映画好きの面倒臭いオタクのおじさん」というものであった。伊藤計劃の上記映画時評集はもともと伊藤計劃の個人サイトである「Spooktale」に掲載されていたコラムを編集したものであるから、作家としての伊藤計劃というよりは一個人としての映画評論家(オタク)としての伊藤計劃の印象が強い。だから、私の中の伊藤計劃像は「映画評論も出来るオタクが凄いクオリティのSF作品を残してこの世を去った」という印象がどうにも拭えない。一つ一つの映画評論は数頁で読み終わることが出来るし、論文のような文体ではなくあくまで感想文のような文体なので読みやすいから、『虐殺器官』や『ハーモニー』が分量が多くて読めないというのであれば、こうした映画時評から伊藤計劃を知るというのも悪くはないと思う。伊藤計劃が評論した映画作品は『踊る大捜査線 THE MOVIE』『スター・ウォーズ エピソード1』『ゴジラ2000 ミレニアム』『ロード・オブ・ザ・リング~二つの塔~』『マトリックス』『マトリックス リローデッド』『ターミネーター3』といった有名な映画から『ガメラ3・邪神<イリス>覚醒』『金融腐食列島 呪縛』『アヴァロン』『リベリオン』『イノセンス』といった映画マニア向けの作品も多数紹介している。何なら『腹腹時計』(ハラハラとけー)なんていう誰が知っているんだというマニアックな作品まで紹介している。この『腹腹時計』を紹介することで、「映画とは、いかに恐ろしい存在なのか、映画を作るとは、いかに危険な行為なのか」といったことが嫌でも分からせられるのだ。昨今の表現の自由をめぐる問題を考える上でも貴重な知見を得られると思われるので、一読の価値のある本である。
個人的には、伊藤計劃の『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』『ゴジラ-1.0』『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』『プロメア』『楽園追放』『鬼滅の刃 無限列車編』『ONE PIECE FILM RED』、アニメーション映画『GODZILLA』全三部作、『トップガン マーヴェリック』『宇宙戦艦ヤマト2199(2202、2205)』シリーズ、『銀河英雄伝説 Die Neue These』シリーズ、『沈黙の艦隊』『劇場版ガールズ&パンツァー』シリーズ、『劇場版PSYCHO-PASS』シリーズ、劇場版『空の境界』シリーズ、劇場版『Fate/Staynight HF』全三部作、『劇場版魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』、今敏監督作品(『パーフェクトブルー』『パプリカ』『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』)、『夜は短し歩けよ乙女』『帰ってきたヒトラー』『マッドマックス 怒りのデスロード』『岸部露伴ルーヴルへ行く』『ルックバック』の映画時評を読んでみたいと思った。あるいは、伊藤計劃自身の創った作品三部作の劇場版を評論するとしたらどうなるのだろうかと妄想してみたりする。いっそ自分の脳内伊藤計劃に書評してもらおうかという、いわゆる「脳内なりきりチャット」を実行しようかという衝動に駆られてしまいそうだ。いや、現代なら「伊藤計劃なりきりChat GPT」なんてものの開発を待った方が現実的かもしれない。著作権法など色々解決すべき課題は山積みだろうが、技術的にはAI伊藤計劃にもうすぐ会えそうなところまで来ている、いや来てしまったと言うべきかもしれない。もしかすると既にChat GPT4.0といった精度の高いAIに「伊藤計劃になりきって映画評論文を書いて」と打ち込んだら本当に伊藤計劃になりきった文章を生成してくれるのかもしれない。それが本当に伊藤計劃の文章と言えるのか、何だか段々話が「テセウスの船」ならぬ「テセウスの伊藤計劃」になってきた気がするのでこの辺りで話は打ち止める。
②『伊藤計劃記録Ⅰ』『伊藤計劃記録Ⅱ』(ハヤカワ文庫)
こちらは伊藤計劃が生前運営していた個人ブログ「伊藤計劃:第弐位相」を中心に、各雑誌 に発表されたコラム、インタビューを収録した本である。特に伊藤計劃第弐位相の内容には上記の映画時評には収録されていない映画時評だったり生々しい入退院が繰り返される赤裸々な闘病生活の模様が描かれている。闘病生活と言っても苦痛や絶望に苛まれた悲壮感溢れた文章というわけではなく、絶望的な状況が起こってもあくまでユーモラスな文体を忘れずに描かれているので、読んでて辛くなるということは(多分)ないはずである。
ところで、私は幸運にもこれらの書籍からマイフェイバリット伊藤計劃語録を発見することが出来たので、皆様にも紹介したいと思う。一つは、「情操教育にはSFを」ということ、もう一つは「人という物語」というものだ。それぞれ正確に引用しようと思うが、後者については全てを引用すると長くなりすぎるので、最後の方を抜粋するに留めることにする。
③『蘇る伊藤計劃』伊藤計劃・山形浩生・藤井太洋・中原昌也・佐藤亜紀・多根清史ほか著、宝島社
いわゆる伊藤計劃のムック本である。この本が刊行された時期が伊藤計劃三部作の劇場版が公開される前だったということもあって、『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』の紹介・論考に加え、伊藤計劃の未発表・未収録作品までも掲載されている豪華内容の本である。
『伊藤計劃映画時評集』や『伊藤計劃記録』を読むことを楽しめる人種であれば間違いなくこの『蘇る伊藤計劃』に収録されている伊藤計劃が生前残した未発表エッセイ「不毛のタイトル地獄」、未発表ショートストーリー「グローバルファイナンスと愛の園」、未発表コミック『ネイキッド』を楽しめることは間違いないだろう。だが、何の因果かこの『蘇る伊藤計劃』が貴方の初めての伊藤計劃作品との出会いになるのなら、伊藤計劃の(悪)ノリに付いてこれるか一抹の不安がある。もし貴方が①『銀魂』や『スナックバス江』の下ネタのノリについて行けない、もしくは苦手であるか、②漫画家の平野耕太(ヒラコー)のツイッター(現X)のネタ投稿についていけないか、③バキ童チャンネル【ぐんぴぃ】 - YouTubeの下ネタコンテンツ(例題:「性癖食わず嫌い王」など)が苦手であるというのであれば、上記の未発表コンテンツを読むことをオススメしない。しかし、貴方がこれらのコンテンツを嫌いでない、むしろ好物であるというのであれば、是非とも何とかして『蘇る伊藤計劃』を入手して、これら未発表コンテンツを味わい尽くして欲しいと思うのである。
(※バキ童チャンネルの製作スタッフの中に伊藤計劃に明るい者がいれば間違いなく何かしらの企画が作られても何ら不思議ではないと思うのである。バキ童チャンネル製作スタッフよ、どうか伊藤計劃とバキ童チャンネルとの親和性に気付いてくれ‼)
そう、私がここで勧めている伊藤計劃の未発表コンテンツの本質は、下ネタとパロディである。下ネタ方向に振り切っているのが「不毛のタイトル地獄」と『ネイキッド』であり、パロディ方向に振り切っているのが「グローバルファイナンスと愛の園」である。ちなみに、親切にも(あるいは野暮ったいことは承知の上で)『蘇る伊藤計劃』に収録されている「グローバルファイナンスと愛の園」には元ネタが明示されてあるので、予習にも復習にも用いて伊藤計劃が言うところの「くだらなさ」を笑い飛ばして頂きたい。
「不毛のタイトル地獄」とは、言ってしまえば「パロディAV」タイトルにひたすらツッコミを入れていくというだけのコーナーなのであるのだが、その歯に衣着せぬ物言いが読んでて面白いのだ。それはこんな具合である。
とまぁ、こんな具合のパロディAVタイトルの紹介が続いている。思春期の童貞中学2年生マインドを捨てきれない貴方ならタイキック不可避でしょうね。あともう一つ、どうしても紹介したいネタがあるのでまた引用を続けることにする。
初見でこの文章を見たときには思わず爆笑してしまった(現在でもうっかりすると笑いが込み上げてくる)。『銀魂』や『スナックバス江』を読んでツボに入ったネタを見てしまったとき並に爆笑してしまった。ツッコミが秀逸なのに弱いのかもしれない。ちなみに、私のマイフェイバリット伊藤計劃語録はこの「不毛のタイトル地獄」で発見されてしまった。それがこのフレーズである。
もう少しマシな文脈でもこうしたフレーズは発見できたろうに、よりにもよって「不毛のタイトル地獄」なんてところから発見してしまった。ちくしょう。
一方、パロディ全開の「グローバルファイナンスと愛の園」は容赦ない二次創作である。ピクシブなどの二次創作サイトを漁れば似たようなノリの作品はいくらでも読めるかもしれないが、伊藤計劃の二次創作が読めるのは『蘇る伊藤計劃』など限られた手段しかない。伊藤計劃の二次創作を知らずに生きるのは何かもったいない気がする。特に貴方が笑いに・パロディに飢えているならなおのことである。例えば、世界的に有名なゲームシリーズである『スーパーマリオ』シリーズのパロディだったらこんな感じである。
また、映画化やユニバーサル・スタジオ・ジャパンのアトラクションなどでも有名な『ハリーポッター』シリーズも、伊藤計劃にかかればこのようにパロディ化されてしまうのだ。
さて、先のスーパーマリオのパロディにしろ、このハリーポッターのパロディにしろ、もう一つ別の作品のパロディが掛け合わされていることに気付いただろうか。ここではそのネタばらしをすることはしないが、気になって仕方がないという人は是非『蘇る伊藤計劃』を入手して思う存分元ネタを味わって欲しい。
6 伊藤計劃作品をより深く楽しむための書籍紹介
伊藤計劃が生前残した作品、特に長編である『虐殺器官』『ハーモニー』をより深く味わうためには、まずは『伊藤計劃映画時評集』で紹介された映画を視聴したり、『伊藤計劃映画時評集』そのものや『伊藤計劃記録』を読み込んだり、あるいは『蘇る伊藤計劃』内で紹介されているSF小説やノンフィクション作品をこのnoteの投稿に列挙しようと思ったのだが、当初の予定を大きく上回ってこの投稿が長大(冗長?)になってしまったので、ここで改めて取り上げるようなことはしない(各自で確認して頂きたい)。ただ、伊藤計劃の作品理解に役に立つと思われる書籍をいくつか紹介したいと思ったので、もし良ければこれらを購読してより一層の伊藤計劃作品ライフを楽しんで頂ければ幸いである。
(1)『SFマンガで倫理学 何が善くて何が悪いのか』萬屋博喜著、さくら社
この本ではコミカライズされた『ハーモニー』(原作:伊藤計劃、作画:三巷文、KADOKAWA、全4巻)が紹介されている(生憎、私の手元にはコミカライズ版の『ハーモニー』は無い)。普通に『ハーモニー』のネタバレを引用しているので『ハーモニー』未読・未視聴勢は注意されたし。この本では健康を理由にして個人の自由を制約してよいのかという、いわゆる「パターナリズム(に基づく制約)」に言及している。法学部やロースクールで憲法の勉強をしたことがあれば、あるいは司法試験受験生であれば「パターナリズムに基づく人権制約」という論点を目にしたことがあるはずだが、『ハーモニー』はこのパターナリズムに基づく人権制約を考える上で最良の教材と言える。
※ここで、「パターナリズム」について補足説明を加える。憲法の学習を進めると、内心の自由(思想・良心の自由)を除いた他の自由は絶対無制約ではなく、一定の制約が課されることがしばしばある、ということは常識になるはずだ。片方の自由を認めることは、反対側の自由を少なからず制約することになるからである。こうした他者加害を理由とした自由の制約を「公共の福祉(に基づく制約)」と呼んだりする(「公共の福祉」に関する議論はここで展開することはしない)。一方、自己加害を理由とした自由・人権の制約というものも存在する。未成年が酒やタバコを自由に摂取できないことがよく具体例としてあげられる自由の制約類型である。これは、判断能力が未熟な本人に代わって国家が親代わりとなって「あなたの自由を健全な方向に導くために、あらかじめ害のあるものを排除させていただきます」という理屈である。酒やタバコは自身の健康を害するだけで別に他人に危害を加えるわけではない(副流煙という別の問題はある)が、判断能力が未成年の場合は特別に成熟するまで自由を制約するという自己加害に基づく制約というものがある。これこそが、「パターナリズム(に基づく制約)」というのである。
『SFマンガで倫理学』は『ハーモニー』の他にも『鋼の錬金術師』や『寄生獣』、『銀河鉄道999』や『進撃の巨人』といった有名な作品を用いて倫理学を具体的に読み解こうとしている。これらの作品をより深く味わうために、あるいは人生をより良く生きるためのヒントとして『SFマンガで倫理学』を一読されては如何だろうか。
(2)『この不寛容の時代に ヒトラー『わが闘争』を読む』佐藤優著、新潮社
2020年に入り世界が新型コロナウィルスに翻弄されていた中で刊行された書籍である。現実世界が『ハーモニー』の<大災禍(ザ・メイルストロム)>の数歩手前まで近づいたような雰囲気に包まれた中、世界ではロック・ダウンといった緊急事態条項に踏み切ったり、日本国内でも「緊急事態宣言」が発令されたりと大騒ぎになった。こうした非常事態においては行政権の優位が強まり、かつてのドイツでは非常事態の果てにアドルフ・ヒトラーという独裁者を生む結果となった。
負の歴史を繰り返さないためにアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』を批判的に読む訓練を積むという目的でこの書籍は刊行された。そして、この本の第3章「性も健康も国家が管理する」という項目、これはまるで『ハーモニー』の世界のようではないか。だが、フィクションではなく現実にこれを実行した国家がかつてあった。その国家の名は「ナチス・ドイツ」。もっとも、ナチス・ドイツはドイツ国民の健康を重視する反面、労働できなくなった高齢者や障害者を排除する方向に動き出し、ユダヤ人を「人類の癌」とみなして収容所送りにしたりと暴走する末路をたどるのだが。こうしたナチス・ドイツの健康政策について『健康帝国ナチス』(草思社)という書籍にも言及しているが、そちらを読む余裕が無ければ『この不寛容の時代に ヒトラー『わが闘争』を読む』を読むだけでも十分に『ハーモニー』の世界観の考察に役立つだろう。
(3)『健康帝国ナチス』ロバート・N・プロクター著・宮崎尊訳、草思社
第二次世界大戦直前に誕生し、アドルフ・ヒトラーを中心として熱心にユダヤ人迫害を行ったことで有名なナチス・ドイツであるが、実は世界に先駆けてナチス・ドイツが梅毒予防や癌撲滅に関心を持ち、胚芽パンや無着色バター等の健康食品を国民に推奨したことは知っているだろうか。なぜ当時のドイツ国民が健康に気をつけねばならないのかというと、ドイツ国民の身体はヒトラー総統のものという社会規範が生まれたからである。『ハーモニー』の世界観にリアリティを持たせるのはどうすればいいか思い悩んだときはこの本を読めばわかるだろう。もっとも、国家が主導して健康を促進するイメージ戦略を図るときは大体ろくなことにならないのは聡明な読者なら読まずとも察することは出来るだろうが。
(4)『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』小野寺拓哉・田野大輔著、岩波ブックレットNo.1080
上記の『この不寛容の時代に ヒトラー『わが闘争』を読む』や『健康帝国ナチス』、あるいは直接ヒトラーの『わが闘争』を読んで、もしくは『帰ってきたヒトラー』の原作小説を読んだか映画を視聴した影響を受けて、「実は『ナチス・ドイツが悪い国』というイメージは戦勝国が植え付けたプロパガンダなのでは?」という陰謀論にハマりそうになったときに処方箋として手元に置いておきたい本。この『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』という本が刊行されたのは2021年2月に小論文を教える予備校講師のツイートがちょっとした騒ぎを起こしたことがきっかけの一つである。そのツイートの内容は「指導する女子高生が『ヒトラーのファンでナチスの政策を徹底的に肯定した内容』の小論文を提出したが、『文体が完璧』で添削に困った」、というものであった。
「ナチスの政策を徹底的に肯定した内容の小論文」というのは、読む人(おそらく大多数)の感情や倫理観を傷つけ、もしくは不快にさせる意見だろう。たしかに、ナチスの行ったことを手放しで褒めることは歴史的な無知を差し置いても許されることではないのだろう(当該小論文を書いた女子高生はむしろよく「知っていた」のだろうが)。しかし、『ハーモニー』でわずかながらに言及された「表現の暴力性」というものを考えたとき、はたしてどれだけの人がこの女子高生を正しく非難することが出来るのだろうか。それこそ、とあるアーティストの新作ミュージックビデオが炎上した事件も問題の本質はこのナチス全肯定女子高生と同じように思える。どちらも許されることではないのかもしれないが、誰かが行った「悪い」ことに便乗して無関係な第三者がその「悪い」ことをした人を非難して自分の(ささやかな)正義感を満足させるのも、同じくらい「悪い」ことではないのだろうか。
※ところで、これはとっさに思いついた本当にどうでもいいことなのだけれど、もしかしてナチスの全肯定小論文を書いた女子高生の名前って、「御冷ミァハ」だったりしません?
また、『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』では、「そもそも『良いこと』とはなんなのか」ということにも言及されているが、この「良いこと」について考えることは、図らずも『虐殺器官』という作品の内容を批評する際にも重要な指針になるのではないかと感じた。ジョン・ポールが世界各国で虐殺を誘発しているのは、どこかの少佐のように「戦争が大好きだから」とかそういう理由ではない。むしろ『進撃の巨人』の主人公であるエレン・イェーガーに近いかもしれない。とりあえず、世間体を気にするのであればナチス・ドイツの行ったことはとても肯定されるものではなく、「良いこと」とされるナチスの政策もその実態を丹念に紐解くと必ずしもその有効性には疑問が持たれるといった態度を取っておけば間違いないのかもしれないが、安易に思考停止状態の「右に倣え」的な態度を取るのではなく、本当に目の前のことは「良いこと」なのか「悪いこと」なのか、考え悩み続ける忍耐力を持つことも大切ではなかろうかと思うのだ。
そういうわけで、『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』という書籍は、『虐殺器官』と『ハーモニー』という伊藤計劃の代表作を読み解くのに貴重な示唆を与える書籍であることが証明されたと思う。書店で目にした際は是非一度手に取ってみて欲しい。全部で120頁なので下手な文庫本や新書よりも読破することは容易であろう。
(5)『サピエンス全史 上』『サピエンス全史 下』ユヴァル・ノア・ハラリ著・柴田裕之訳、河出文庫
人類の進化の過程について、伊藤計劃の人間観は『虐殺器官』や『ハーモニー』に色濃く現れている。伊藤計劃の人間洞察は多くの人文科学、社会科学に関する書籍や文献を参考になされているので、伊藤計劃作品を読むだけでも人類を見る目は変わるだろう。しかし、伊藤計劃の没後に刊行されたこの『サピエンス全史』もまた一読に値するといえる。サピエンス全史の特徴として、(1)人間は①認知革命②農業革命③科学革命という三つの革命を経験して繁栄したということ(2)通常は肯定的に評価されるであろう「農業革命」について著者であるユヴァル・ノア・ハラリは肯定的評価だけでなく人類にとって「悲劇」とも捉えていることが挙げられる。こうした知見は伊藤計劃の作品を読んだだけでは得られない知見である。このような『サピエンス全史』を先に読むことで『虐殺器官』や『ハーモニー』を読んだ際にまた新たな発見があることだろう。あるいは、『虐殺器官』を先に読んだ後で『サピエンス全史』を読むと、「現代まで続くホモ・サピエンスが生き残っているのは人類の中にある虐殺器官のおかげなのか?」という問いかけが生まれるかもしれない。伊藤計劃作品と『サピエンス全史』は人類史の考察において互いに相乗効果を生む作用があるのかもしれない。
(6)『進撃の巨人』諫山創著、講談社
言わずと知れた大ヒット漫画・アニメである。もっとも、伊藤計劃作品、特に『虐殺器官』との親和性があるのは、『進撃の巨人』原作の終盤(アニメだと「ファイナルシーズン」)からであると思われる。巨人に変身できるエルディア人(ユミルの民)以外の「普通の」人類(マーレ人など)が登場するようになり、巨人に変身できるために世界各国から忌み嫌われるパラディ島の住民=主人公であるエレン・イェーガーにとって大切な同期・同胞がいる島を守るために、パラディ島以外の人類を虐殺することを決意したエレンが暗躍するようになってからのストーリーが『虐殺器官』と類比しやすいだろう。勿論、『進撃の巨人』が当初大ヒットした要因であるダークファンタジー的側面の強い、巨人の正体や世界の謎に迫る前半までの展開(アニメだと「シーズン3まで」)も面白いのは言うまでもない。
『虐殺器官』のジョン・ポールが世界で虐殺を誘発している点と、『進撃の巨人』のエレン・イェーガーがパラディ島民以外の人類を虐殺しようとしている点はどこが同じでどこが違うのかを考察するのも頭の体操としては良いのかもしれない。
7 おわりに~なぜ私はこの「物語」を書こうと思ったのか~
【コラボ 】みゃもさんと、伊藤計劃先生の読書推し配信【#諸星めぐる
#Vtuber】 (youtube.com)の配信を見てから突発的に伊藤計劃を布教する投稿をしようと安易にnote記事を作成しようとした結果、当初の予想を大きく超えて長文になってしまった。正直に言えば今回の投稿作成はなかなかに骨が折れる作業であった。しかし、終りが見えてくると不思議な充足感があるのもまた事実であり、なぜか創作意欲も復活してきた気さえする。一種の「ランナーズ・ハイ」ってヤツかもしれない。
ところで、なぜ私はこの膨大な「物語」を書こうと思ったのだろうか。それは、「伊藤計劃はいいぞ」というシンプルなメッセージを伝えたいという「諸星めぐる」と「みゃも」という二人のVtuberの「情熱」が私に伝染したからである。さながらウィルスが爆発的に増殖し人にどんどん感染していくように、伊藤計劃という「物語」が「情熱」として私の中に再び燃え広がったのである。
東大卒プロゲーマーの「ときど」氏はその著作(『東大卒プロゲーマー』ときど著、PHP新書)にて、「情熱」についての考察を述べている。
伊藤計劃は生前「僕のことをいつまでも覚えていてほしい」と語っていたそうだ。伊藤計劃でなくても誰でもそう願うことだろう。けれど現実は残酷なもので、大半の凡人はなくなると段々と忘れ去られることが当たり前のようになり、やがてはそもそも存在していたことさえ忘れ去られてしまうものだ。しかし、伊藤計劃は違った。生前は言わずもがな、死後もその読者を増やし続け(私もその読者の一人だ)、ひいてはヴァーチャル世界にもその名を轟かせるに至っている。こうしたことが可能なのは、生前の伊藤計劃が「情熱」をもって創作活動を行っていたからだろうと推察する。若くして癌に侵され、常人と比べて余命幾何も無いと悟っていたからこそ、より一層その創作活動に「情熱」をもって取り組めたのではないか。だからこそ、伊藤計劃は「誰かにとっての物語」になることができ、これからも語り継がれる存在となることができたのだ。
願わくば、このクソ長い投稿を最後まで読んでくれた貴方に伊藤計劃作品の魅力が届いてほしい。あるいは、私に伊藤計劃への情熱を焚き付けてくれた諸星めぐる氏やみゃも氏の配信の魅力にも取り付かれてほしい。そして、私も貴方も誰かに語られるような存在になれるように共にどこまでも歩けるところまで歩いて行こうじゃないか。
最後にもう一つ。伊藤計劃だけでなく、今後も私を私たらしめているコンテンツを、「情熱」というか私の「魂」のような何かを語り続けることをどうか今後も見届けて欲しい。誰が読んでいるかもわからないのに、どうしてここまで長々とものを語るのか。それは我が体内に流れる阿呆の血のしからしむることだからである。これは恥じるべきことではなく、誇るべきことである。伊藤計劃はオリジナル作品も、評論も、その為人も、何もかもがおもちろい。だから、最後はこの一言で締めくくろうと思う。
「面白きことは良きことなり!」
…伊藤計劃で始まり森見登美彦で締めるのはどういう了見なのだろうか。そういえば、槙島聖護役でありジョン・ポール役でもある櫻井孝宏は森見登美彦原作アニメ『有頂天家族』で下鴨矢三郎役でしたなぁ。勝手に物事を強引に結びつけるオタクの悪い癖もご愛敬ということで。
改めまして、ありがとうございました!
本当の本当に終わり
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