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短編小説

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#小説

ドライブ マイ カー

ドライブ マイ カー

「俺のほかにも……、」
 彼の目は真剣そのもので目を逸らすこともはぐらかすこともまるでできそうにもなかった。
 俺のほかにも。彼はそこでいったん言葉を切り、マルボロライトを取り出し何度目かの誕生日にわたしがプレゼントをしたビンテージのジッポで火をつけた。
 ジッポからは油の匂いがし、それはいつだって彼の匂いだということにわたしの頭の中には刷り込まれているのだ。まるで、俺のことを絶対に忘れないように

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1枚のチョコ

1枚のチョコ

「昨日の夜中さ、ぱっと目が覚めて何気なくテレビを見たら、どこかの国のどこかの人が板チョコを食べてたんだよ。それがまあ、うまそうで……」
 なにを唐突にいうのだろう。そうおもいながら直人の方に顔を向ける。あるある〜。たまにあるよね。チョコがものすごく食べたくなるときがさ、と声を出していい、いやいやわたし毎日食べてるんだよね、はいわないでおく。
 わたしはチョコがなおちゃんよりも大好きで毎日なにかしら

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にんしん? 2

にんしん? 2

 人間っていうのはあまりにびっくりすると声をどこかに忘れてくるらしい。声はいったいどこに忘れてきてしまったのだろう。
 手に持った細い棒を握りしめトイレの中で動けずにいる。さーっと血の気が引いていくのがわかる。立ち上がろうにも動けない。手が、体が震え出す。
 朝の10時。穏やかな春の日差しがトイレの窓の影を床にくっきりと四角くうつしだす。細く開いた窓から風が入ってきてレースのカーテンを膨らます。

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にんしん? 1

 最近朝目覚まし時計のかわりに吐き気で起きる。そしてオェっとなり階段を急いでおりトイレに駆け込む。しかし空腹なので吐いても出てくるのは胃液と涎と鼻水だけだ。ゼーゼーいい涙を流しながら何分かトイレの中で格闘をし口をトイレットペーパーで雑に拭い安いシングルのトイレットペーパーなので口の周りに紙が付着しているのも構わず台所の椅子に気怠く座る。
 落ち着く暇もなく今度は台所独特の匂いに対して吐き気を感知し

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つくし

つくし

「あのね、聞いて、聞いて!」
 日曜の昼下がり。わたしは徒歩3分のところにあるローソンでたまごサンドとハムサンドと豆乳と鬼殺しとから揚げくんを買ってうちに帰る途中とんでもないものを見つけてしまい慌てて直人に駆け寄った。
「なに? なんなの?」
 メガネを掛け、ジャージ姿の直人がソファーから体を起こしわたしの方に顔を向ける。不思議そうに。
「つ・く・しを発見しました!」
「……」
 で? そんな感じ

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ゆれる

ゆれる

「あ、今、揺れた?」
 男はギクリとした声を出し、わたしに同意を求めるかのように聞いてきた。揺れた形跡などはなくただ唯一考えられるのはわたしの若干な貧乏揺すりだった。
「そういわれてみると、揺れたような......」
 またいつものホテルにいる。またいつもの部屋でいつものニトリにでもあるような普通過ぎる茶色のソファー。無駄に広いダブルベット。糊のきいているパリッと音がしそうな真っ白なシーツ。
 ど

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美容師の彼

美容師の彼

 あまりとゆうかちっとも美容院の好きでないあたしは自分で切るか(やばいほど雑)ハルさん(おじいさんのオネイが趣味で経営している美容院)か、ささっと切ってくれる千円カットのどれかにいっていた。その日はたまたま千円カットが目に入りたまたまついた美容師が彼だった。
『えっと、おかっぱに、あ、まあちびまる子ちゃん的な?』確かそんなふうに髪型の指定をした記憶がある。
 男性の美容師さんかぁ〜まぁいっかとマス

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9月1日

9月1日

 会社の日めくりカレンダーを見たら【1】だった。
 もう今日から9月なのだ。きのうの情事が忘れられなくてなかなか寝付かずあげく喉も痛くついでに体がまるでサウナに入ったかのように熱を帯びていた。まさか! あたしは今自分の体の中に起こっている不穏な変調に気がついている。まずいなぁ。多分昨日冷房の効きすぎた部屋で凍死するんじゃねぇと思うほど寒い部屋で裸で眠ってしまったことを後悔さずにはいられない。

 

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おもい・おもわれ

 連休明け。なんとなく彼からメールが来るという変な自信があった。もうあたしからはメールをしないと決めていてメールが来たら返事を返すなり会うなりそうゆうあとのことは彼に全て委ねようとこの前から決めていた。
 どうしても終わりにすることが出来ない。出来ないとゆうか出来そうにないし彼はあたしの切ない気持ちなどおかまいなしに身勝手にメールをしてくる。
『あちい』
 夕方の4時。あたしはパソコンと向き合って

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牛力こぶ

牛力こぶ

 またか。とついつぶやく。
 おもては梅雨も相まってこれでもかというほどあるいはまじでこれって洗車じゃね? くらいの勢いで雨がシャワーのように降っている。それでも匂ってくる焼肉の香しい匂いに顔をしかめる。
 車を車庫に入れ傘もささないで玄関まで走る。走るといっても30メートルもあるわけじゃないしあっても30歩というところだ。けれどさすがに洗車でもできそうなほど降っている鬼のような雨はあたしの全てを

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くうきな男

くうきな男

 仕事から帰ってもはやなにもする気もおきずにけれど手洗いとうがいをし、冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルトップを開ける。
 プシュという音とおもてからささやかに耳にはいってくる慈雨のノイズはいいコラボだなと思いつつ喉をならしごくごくと飲む。冷たい液体が食道から胃に到達したなと感じ次は頭がキーンと痛くなる。冷たすぎるから缶ビールは常温でいいよと男にいってあるのになぜかいつも缶ビールは冷蔵庫の中に集合

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煮えきらない男

 まじで? ってそれを今ってゆうか今さらいうのぅ? 目の前じゃなくコロナなので横並びで座っている男が唐突になんの脈絡もなく、あ、そこの天かすとって、というような軽い口調で切り出した。
「でもさ、なんで寿司屋じゃないのに並んで座ってんだろうね」
 なるべく対面ではなく横並びに座りましょう。とお店のドアに書いてあったのであたしと男は律儀にそれを守っている。ただの古くさい喫茶店だ。結構奥ばったところに位

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シャセイしない男

シャセイしない男

 同じ派遣会社の男だった。配属された工場の製造ラインまで一緒で、そこの工場長が嫌なやつで嫌なやつだったお陰でその男と工場長の悪口をいう中で仲良くなっていき、気の利いた言葉などはまるでなくいつの間にかセックスをする間柄になっていて挙句あたしはその男のアパートに転がっていたしもっといえば、すっかり男のことをいや正確にいうと男とのセックスが好きになっていた。特に顔も性格も普通よりもやや下の方で決して好き

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さけのみの男

さけのみの男

 あうといつも酔っていた。酔っていないときの姿をみないほうがつき合った5年の中で日数にしたら30日くらいだったと思う。
 出会ったときも泥酔で異様にテンションが高くノリのいい人だなぁと思っていたし、多弁だったし初対面のあたしのことでも、あやちゃーんなんて気さくに呼んでくれ、馴れ馴れしく肩を組んできたりしてそれでもおさまらずに、チュッと唇にキスをしまだし足りないのかあーんといってポテトフライを口移し

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