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ドライブ マイ カー

「俺のほかにも……、」
 彼の目は真剣そのもので目を逸らすこともはぐらかすこともまるでできそうにもなかった。
 俺のほかにも。彼はそこでいったん言葉を切り、マルボロライトを取り出し何度目かの誕生日にわたしがプレゼントをしたビンテージのジッポで火をつけた。
 ジッポからは油の匂いがし、それはいつだって彼の匂いだということにわたしの頭の中には刷り込まれているのだ。まるで、俺のことを絶対に忘れないように。と。
「え?」
 その先の言葉はわかっていた。けれど、すっとぼけて、え? なにが? と彼の視線をやっとほどく。
「……、あ、いや、あ、なんでもない。忘れて」
「なにそれ」
 心がすごく痛んだけれど笑いながら、気になるじゃんといいつつも、どこかでホッと胸をなでおろすおろかで怠惰な自分がいた。
「明日、日帰りで温泉でもいこうか」
 急に話題が変わりびっくりして、え? もういちどいってと訊き返す。
「だから、温泉でもいこうかっていってるの」
「どこの?」
 つい最近いったちょっと遠くのゴルフ場の途中に小洒落た温泉があったという。そこに一緒にいってみたかったんだよ。とつづける。
「いいわね」
 車の中は密室だし重たい空気になるのはいやだったけれど、きっと彼はそれをその空間を望んでいるような気がしてわたしは腹をくくりいいねいこうよと承諾をした。
 もしかして、助手席に乗るのは最後かもしれない。けれど最後だからこそきちんと話しをしようと。車内は幸いにも並んで喋れる。別れ話にはもってこいの空間だとおもう。
 叫びたければ叫んでもいいし、泣きたければ構わす泣けばいいし、怒りたければ怒ったらいい。
 黒色のカローラワゴン。鹿にぶつかり右のバンパーに傷がついているカローラワゴン。

 車は高速道路を走行中で彼は細く開けた窓の外にタバコの煙を吐き出している。夏も終わりがけの8月下旬。山間ではひぐらしが気持ちよさそうに鳴いている。
「なんにんの男と寝ているんだ。隠す必要はない」
 ヒグラシの声と流れる風景をぼんやりときいてみていたら突然横から声をかけられた。
「なんで」
 最初に出た言葉がなぜかなんでになった。なにいってんの? でも、悪い冗談でしょ? でもない。なんで。これではもう半分は認めたことになってしまう。
「悪い。お前のスマホの画面にLINEがきててみるつもりなんてなかったけれど、つい目を向けたらみちゃったんだ。違う相手4人が4人とも、『あいたいです』だの『好きです』だのって短い言葉を」
「……」
 ああ、そうだったのかと納得をしてしまう。むき出しになっている簡単スマホの画面にLINEが表示されそれをみてしまったということか。と。
「よ、4人よ。だってあなた、いま、4人っていったじゃないの」
 開きなおるような口調になりわたしのほうが悪いのに彼がまるで悪者扱いになっているようになっている。
「で、だれが本命なんだよ」
「はぁ? 本命? そんなのいるわけないでしょ? あなた正気なの? わたしは腐ってもあなたの妻よ」
「で、だれって訊いてるんだ? 吉田か?」
 はっとして息を飲んでしまう。吉田。彼の部下。週に一度夜ご飯を食べにくるかわいい部下。そしてわたしの彼氏。
「吉田じゃないわ。中野よ」
「お前さ、なんで俺の取り巻きと寝るんだよ。いちいち」
 いったいこの車はどこへ向かっているのだろう。確か温泉のはずだった。けれど、ずいぶんと遠くまで来てしまっている。もう降ろさないぞというつもりなのだろうか。
「中野? あのデブでハゲのか」
「そうよ。あのデブでハゲでついでに水虫のね」
 彼は心底呆れているふうに大きなため息をはぁっとひとつ落とした。いいあらそいをしているのだろうか。わたしたちは。けれど、どこか他人ごとのようにおもえてならない。
「どうしたい?」
 どうしたい? そうきたか。わたしに決断をさせる。彼はいつでもわたしに決めさせるし、ほんとうはまるでどうでもいいのだ。わたしのことになど関心などはもうとっくにない。
「どうもしないわ。別に。だってもう若くないもの」
「……、まあ、そうだな……」

 定年を過ぎた彼。わたしももう還暦だ。いい歳をして。彼はぼそっと呟いたけれどもうなにもいおうとはしなかった。
 温泉はひどく気持ちがよかった。美人の湯と銘打ってあり、肌がツルツルになったし肩こりや眼精疲労も幾分解消した気がした。

「蕎麦でも食って帰るか」
「いいわね。お蕎麦。いつもいくところではなくて他のお蕎麦を食べるのはまた冒険でもあるわね」
 すっかり日は落ちてしまいもう濃い黒が空を覆い尽くしている。山間にある温泉だけあって外気温は低く天然の冷房がなんとも心地がよかった。
「LINEはもうやめるわ」
 だれにでもなくつぶやく。言葉は濃い夜空の中へ吸い込まれてゆく。星が出ていた。
「まあ好きにしろ」
「お腹が空いたわ」
 高速を降りるときにあった蕎麦屋にするかと彼は決めけれどわたしはサービスエリアにある立ち食い蕎麦を食べてみたいといいはるものだから、またいささか喧嘩になり無言になったけれど、結局彼のいく方になるのはわかってはいてわたしたちはもうすっかりどうでもいいことで笑いあっていた。
「浮気じゃないわ。ただのお遊びよ」
 そんなことはいわないけれど遊びだし、もうわたしだって若くはない。彼だってそんなことわかってはいる。
 この助手席には最後までわたししか乗らないことだって。

 わかっているのだ。


※村上春樹さんの短編集『ドライブ マイ カー』公開しました。きっと小説では味わえない内容だとおもいます。主人公の『家福さん』はもう西島さんにぴったりだとおもいました。映画観にいってきたいとおもいます。

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