見出し画像

9月1日

 会社の日めくりカレンダーを見たら【1】だった。
 もう今日から9月なのだ。きのうの情事が忘れられなくてなかなか寝付かずあげく喉も痛くついでに体がまるでサウナに入ったかのように熱を帯びていた。まさか! あたしは今自分の体の中に起こっている不穏な変調に気がついている。まずいなぁ。多分昨日冷房の効きすぎた部屋で凍死するんじゃねぇと思うほど寒い部屋で裸で眠ってしまったことを後悔さずにはいられない。

 熱が出たのだ。39度も。それでもおそろしいほど効く今時の風邪薬(12錠入り1,400円)を2錠飲んで会社に行った。
 日めくりカレンダーの文字が1から徐々に11になり最後には111に見えてきて早退を決めた。クラクラする。薬が効いている間だけはなんとか平時運転が出来ても薬が切れるともうダメでこれじゃまるでヤク中の症状と同じではという変な疑問が拭えない。
 あんなに効く風邪薬はある種麻薬に相当するレベルだ。経理のサトウさんに体調が芳しくないと告げると、お大事にねとサトウさんこそ大丈夫じゃなそうな顔色の悪さにぎょっとなりながら揺れ動く足取りの中車に乗って帰宅を決めた。また有給を使ってしまった。あと4日しかない。だいたい風邪とかで有給など使いたくなどはなかったのにサトウさんが有給扱いにしておくねというからはいすみませんと答えてしまった。まあ有給はそうゆうためにあるものだってわかっているんだけれど。ドラックストアに寄ってゼリー飲料と同じ風邪薬を買う。ついでにポカリとアイス枕を買った。最近熱を出してないことに今さらながらきがつく。大人になると熱などなかなか出さない。けれど子どものころはよく熱を出す子だったよと死んだ母がいっていた。子どものころに出し尽くしてしまってもうださないのかと訝しんだこともあったけれどそんなはずなどはなくやはり出るものは出るのだしでうちにつくなり風邪薬をまた飲んでベッドの上に大の字になって体を横たえた。軽く冷房をつけておく。
 昨日の隣人は大丈夫だっただろうかと気にかける。そういえば隣人の方がたくさん汗をかいていたしけれど冷房で冷やされるしの繰り返しで最後の方は『寒いね』と強から弱にしたらいいのにリモコンまでいく気力も残っていなくてただ抱き合って薄い毛布を掛け合った。はっと目がさめると隣人の方には全く毛布は掛かっておらずあたしにだけ掛けてくれていたのだ。
 スエットに着替えてアイス枕を冷凍庫に入れて風邪薬を飲んで……、倒れ込んだら最後。やるべきことは全て頭の中だけで処理をしてしまいあたしは布団に吸い込まれるようにそのままうつ伏せのまま一切の音を遮断して遠くの世界に迷い込んでいった。

「あなた誰だったかしら」
 は? なにいってんの? あたしだよ。あたし。すっかり背中が丸くなった母があたしを警戒しつつ疑問をぶつけてくる。
「おかしいわねぇ? この人のこと知らないわ」
 さらに怪訝そうな声を付け足す。母親は重度の痴呆症だった。まだ73歳という若さでかなり重度の痴呆症になり結果的には肺炎で死んだけれど本人はもしかして死んだことを知らないのかもしれない。散々迷惑を掛けておいて。最後はなにも知らずに死んでゆく。母親はあたしが16歳のとき男と駆け落ちをした。5つ下の弟がいてあたしたちは親戚中をたらい回しにされた。
 許せない。許せない。許せない。死ね。死ね。死ねばいい。あんな女死ねばいい。もっとも恨んだ女は母親だ。16年間の間であたしのことをいつもないがしろにしてきた母親。いつも男だけを求めていた愚かな女。そんな女の終焉は痴呆症であげく肺炎だなんてまるでシナリオでもあったかのような死に方に涙すらも出なかった。残ったのは財産ではなくささやかな借金だけ。お墓は建てなかった。お葬式はやらなかった。身内という身内はあたしと弟だけだったからだ。親戚達は母とは縁を切っていたし母親には友達やら知り合いなど居なかったようだった。なんて寂しい結末なのだろう。母親の死に方についてとにかくただ寂しいという言葉以外見つけることができなかった。親孝行などはしていない。けれど後悔もしていない。だからあたしはいつだって男に執着をして縋ってしまう。仕方がないじゃないか。あたしは無償で愛してくれるはずである『親』からの愛を一切受けることがなかったのだ。父親の存在も未だに知らなし知る由もない。
『離婚して子どもが2人いる』
 隣人の言葉をあたしの父親も他の女にいったことがあるのだろうか。家族とは一体なんなのだろう。家族という集団。あたしはその集団生活を今まで生きてきてきっと味わうことはないだろう。

 体が痛くてはっと顔を上げる。うつ伏せで眠ってしまってからの記憶は夢うつつでまるでおぼえてはいない。時計を見たら4時を指していた。その4時は夕方の4時かと思っていたけれど、窓からの光が橙色ではなく薄明るいことにぎょっとする。眠ったのは確か午前11時で起きたのは次の日の朝がたの4時だったのだ。こんなに眠るなんてどうかしている。薬の効き目長くね? というか喉も痛くなく熱もないようで起き上がってバスタブに湯をはる。その間に腹が減ったのでカップラーメンでも食べようとお湯を沸かした。このまま起きていて仕事に行こうと決める。もう散々眠ったのだから。
 スマホを見ると知らない番号からショートメールが来ていた。
【月曜日はありがとう。ごめん君のスマホから名刺が出ていて勝手に持ち帰りメールしてます。また会いませんか?】
 え? まじでと頬が緩み嬉しくてつい声を上げる。名刺をいつもスマホに挟んである。たまたま落ちたかいやきっと彼は盗んだのだろう。会社の名刺だけれど。携帯の番号は書いてある。
 盗んだのはあたしの心だけではなくあたしの名刺もだったのか。
 ニヤリと笑いがとまらない。けれどこうやって縁が出来ていき付き合ったり別れたりするのだろう。
 あたしは母親のようにはならないと決めけれど母親のようにいつも男に溺れている。
 それでもいいかもしれない。あたしは女だ。女という時間は短い。母親はそれだけをそのことだけをあたしの中に刷り込んでいった。
【あたしも会いたい。もっとあなたのこと知りたいです】
 ありきたりなメールを打っておく。きっと起きて確認をするだろう。あたしはけれど今こんな変な時間にカップラーメンを食べている。
 恋の予感にどこかワクワクしているあたしがいてもう少し生きてみようかと久しぶりに思った。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?