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くうきな男

 仕事から帰ってもはやなにもする気もおきずにけれど手洗いとうがいをし、冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルトップを開ける。
 プシュという音とおもてからささやかに耳にはいってくる慈雨のノイズはいいコラボだなと思いつつ喉をならしごくごくと飲む。冷たい液体が食道から胃に到達したなと感じ次は頭がキーンと痛くなる。冷たすぎるから缶ビールは常温でいいよと男にいってあるのになぜかいつも缶ビールは冷蔵庫の中に集合いや密集している。

 疲れたな。とつぶやく声にもちろん返事などない。疲れたな。今度は心の中でつぶやく。金曜日。さすがに疲れがマックスになるのはあたりまえだ。 
 作業着を脱いで下着になりブラもとって布団に滑り込む。馴染んだ匂いにほっとする。男が使っている枕を抱きしめながら横向きになって目をつむる。お腹が空いたな。けれどもうこの中に入ったら出るに出れなくなる。まるでちょうど良い温度のお風呂のように。
 このままずっとこうしていたい。まるで男に抱きしめられているような感覚があたしの肌という肌をすべて包み込む。ささやかな幸せ。この場所はあたしのもの。 
 カサッと音がしてあたしはこんどはきつく目をとじる。涙が枕に落ちた音だ。カサッ。慈雨の音はもう聞こえてこない。やんではいないと思うけれど今あたしはとんでもなくひとりで孤独でまあるくなるだけのとりえしかなくわけもない涙を流しつつそのまま意識を遠い世界に持っていかれる。

 「……、ちゃん、」ゆさゆさと体を揺すられはっと目が覚める。また寝てたのもう部屋の電気もつけないでと男はぶつぶついいながらあたしの頭をわしゃわしゃとする。あ、うん。寝てた。と目をこすり布団からゆっくりと出てソファーにかけてある毛玉だらけのカーディガンを素肌に羽織る。
「唐揚げ弁当とカレイの唐揚げ弁当どっちがいい?」
 またその2択かよと思いつつ唐揚げでとこたえると、えー! という非難の声があがり、じゃあカレイででいいよといいなおす。
「いつもカレイだからさ。俺、今日唐揚げの気分だったから」はははと笑いよくわからないいい訳をする男が猛烈にかわいく思えてきてなんだろうこのこみ上げてくるものはとぼんやりと考える。

 ご飯はさつくらなくてもいいし食べたいものは自分で買ってくる。というルールになってはいるけれど最近あたしはあまりものを買ってこないし食べないから男は弁当を買ってくるようになっていてなぜかいつもの習慣になっている。

「とりあえずビール」
 男もまた冷蔵庫からビールを取り出しプルトップを引くと一気にごくごくと飲むから、やっべー頭いてーと叫ぶ。あたしはクスクスと笑う。それさっきあたしもやったよ。なんでさ、冷たいものを飲むと頭がキーンと痛くなるのかな。かき氷なんて食べたら直ぐになるよね。そだね。男は笑いながらこたえて弁当に手を伸ばす。
「どうして唐揚げかカレイなの?」
 ちょこんとテーブルに座って足をブラブラさせるあたしはまるで子どものようだ。そんな子どもじみたあたしを抱く男の手を見つめながら質問をする。
「悩むのが嫌いだから。あと、唐揚げとカレイの唐揚げがやっぱり一番うまいから」
 かなぁ〜。語尾を上げて唐揚げを頬張りながらやっぱりうめーと歓喜の声を上げる。
「そだね。大森さんは迷うの苦手だしね。無難な線をいくよね。会社でもそうでしょ? 回鍋肉かかに玉」
 あ、水曜日はカレーっていってたっけ? とつけたす。
「うん。そう。そう。カレーが一番うまいんだけれどさ、おかわりしちゃいけないんだよね。今。前はさ、おかわり自由だったのにな」
「けれど、そんなに昼間に食べたら眠くなるでしょ? 普通」
 ははは、まあそうだけどといって男は顔をしかめる。男はなにせ健啖家なのだ。
 あたしのあまりの食べなささに最初は心配していたようだけれど6年も一緒に住んでいるからもう食べないのが当たり前になっていてなにもいわないし気にもしない。カレイの唐揚げだけ食べてご飯は一口しか食べない。別にダイエットとかではない。本当に食欲がないのだ。ただでさえ痩せている。痩せた女が好きだと豪語していたその昔。あたしはそのときからどこかに食欲という欲を置いてきたのかもしれない。いつまでもこの男の理想の女でありたい。見た目がやばくなっても枝のように細く華奢でありたい。6年前よりも8キロは痩せている。けれど男は気が付いてないのか知らぬふりをしているのかまるでわからない。もっと痩せたい。けれどダイエットじゃない。好きな男のためにあたしはあたしでなくなってゆく。男が作り上げたあたしになってゆく。それでいいとさえ思うほど男に依存し依存をしている自分を支えにして生きている感じがずっと拭えない。
「あのね、」
「ん?」
 テレビをつけたと同時に話し出してしまったから、あ、なんでもないよといって缶ビールを飲む。最近本当にテレビがつまらないよねとザッピングをしてニュースチャンネルでやっと落ち着く。
「で、なに?」
 急に話を振られてあれ、なんだっけかと一瞬考えて、あっ、そうそうと思い出し話し出す。
「昨日の夢に猫が出てきたの。それもねとてつもなく大きな猫でね。けれど顔だけが絶対に見えない位置にあるの。体だけは見えるんだ。茶色の猫でね。長ーいの」
 男はへえといって話の続きを待つ。
「で、たくさん猫が出てきてあたしはけれど大森さんを探すの。おーいって」
 で? 
 そんな顔をし微笑んでいる男はもうすっかり眠たそうだった。
「それだけです」
「えー。なにそれ」
 はははと笑いながら女って本当にオチのない話が好きだよねとまた笑う。
 そうだね。ごめんと謝るもなぜ謝っているのかわからない。そもそも猫の話などする気など全くなかった。
「さー寝るか」
 お弁当を片しシャワーをしにいく男の後ろ姿を目で追い待ってあたしも行くとその背中に抱きつく。
「こらこら」
 うざったそうな声がしてあたしは悲しくなる。最近なぜか悲しんでばかりだ。
 裸になれば全部洗ってくれる。全自動体洗い機だ。こんなに甘やかしあたしをどうしたいのだろう。この人は。ろくでなしにでもしたいのだろうか。

 空気のような存在になりそれが過ぎて今はやっぱり空気でなくては死んでしまう存在なのだ。空気がなくなれば死んでしまう。空気のような存在という意味はふた通りあって空気のように存在感のないことと空気のようになくてはならないものとのふたつだ。男は後者になっている。空気がないと死んでしまう存在に。苦しくて死んでしまう存在に。
 喧嘩をしたこともなくただあたしをおもちゃのように可愛がる男でもいつかはあたしに飽きてぽいとティッシュのように捨てるのだろうか。

 スマホの画面に浮き出ていた『部長今日はとても楽しかったです』の文字を見てしまったあの日からあたしはまた2キロ痩せて精神状態が異常で過敏でもう空気なんて吸いたくないのに吸ってしまい絶望感にうちひしがれる。
 慈雨は大雨になったようで雨がアスファルトをたたく音が徐々に大きな音になっていく。
 梅雨が始まるのかな? ねぇ。
 男は隣でスヤスヤと眠っている。

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