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にんしん? 2

 人間っていうのはあまりにびっくりすると声をどこかに忘れてくるらしい。声はいったいどこに忘れてきてしまったのだろう。
 手に持った細い棒を握りしめトイレの中で動けずにいる。さーっと血の気が引いていくのがわかる。立ち上がろうにも動けない。手が、体が震え出す。
 朝の10時。穏やかな春の日差しがトイレの窓の影を床にくっきりと四角くうつしだす。細く開いた窓から風が入ってきてレースのカーテンを膨らます。
 どうしよう……。
「どうしよう」
 誰もいないけれど声に出す。声は戻ってきたみたいだけれど、戻ってきた声を自分で聞き現実に引き戻される。
「くっきりじゃん」
 トイレからやっと立ち上がり、台所に向かう。どうみても、青い線が両方の窓にきちんと規則正しく並んでいる。
【片方の窓だけ青線が浮き出たなら陰性です。両方とも青線が浮き出たら陽性です】
 妊娠判定期にそう記述してある。
 どうみてもわたしは妊娠したようだった。とゆうか妊娠だ。キャーと今さらながら叫ぶ。
 産婦人科にいくべきだろう。それとも先に修一さんにいうべきなのだろうか。いやいやそれともいわないほうがいいのだろうか。いえば困らせてしまう。けれどどう考えても彼以外の男じゃないといい切れる。

「俺、タネないから大丈夫」
 リングを抜き出血が止まったすぐに抱き合ったあと、修一さんがふと、おもいだしたかのように口にした。
「なんで? 大丈夫なの?」
 おもいきり中で出した。いつもだから外で出すということがむずかしくなったななどといい笑う。
「高熱がでたから」
 え? 間抜けな声が出て、なにそれといい笑った。
「高熱が出るとタネがなくなるの?」
「あ、うん。そのとき飲んだ薬がさ、タネがなくなりますみたいな強い薬だったんだよ」
 へー。そうなんだ。わたしはさらっと聞き流し修一さんの胸に顔を埋めた。なんでこんなにいつも好きなのだろう。わたしだけが好き。修一さんはわたしの体だけ好き。そんなこととっくにわかっている。体だけが好きだしわたしはもう彼に対して重たくない。重たくない女にしたのは彼だ。
「……できないよ……もう、子どもは」
 天井を見上げながらつぶやいた。そんなのわかならいよ。修一さんがいい返す。
「できないよ……。わたし一度おろしてるし……」
 薄暗い部屋の天井の模様がなぜか雲だった。空をイメージした部屋でベッドがやけに上の方にあった。だからよくおぼえている。修一さんはそれ以上なにも言葉を発しなくなった。いくら待っても彼の声は聞こえてこなかった。
 それから3回くらい抱き合った。1週間に1度くらいのペースで。3度目のとき
「生理きた?」
 さすがに疑問におもったのかおかしいと感じたのか聞いてきた。
「きてないよ」
 わたしは軽くこたえた。きていたら連絡しないでしょと付け足す。
「そっか。そうだよなぁ。けどさ、検査してみろよ。かなり来てないじゃないの? お前の血、前はいやになるほど見たけれど見ないとそれはそれで心配じゃん」
「まあ、そのうち来るさ」
 まるで誰かが遊びにくるような物言いに修一さんはクスッと笑った。
 あのときはもう宿っていたのだろう。きっと。
 
 吐き気はつわりだったわけで胃炎ではなくずんと体が重たくなった気がする。妊娠すると体がひと回り膨張するような気がしてならない。前に妊娠したときもそうだった。そのときの相手はヘルスのスタッフだった。一人暮らしだった彼のところにいつも通っていていつの間にか住んでいた。色白の男だった。体の相性だけがよかった。ヘルスの女だったわたしだから彼はわたしにお金を貸してくれといい、いやというとすぐ布団に押し倒した。ろくでもない男だなとその頃唯一話せる女の子がいて別れなよとよく忠告された。 
「けど……さみしいんだもん」
 わたしはよくさみしいと口癖のように言葉を吐きだしていた。
「男がいないとダメ。おかしくなっちゃう」とも。女の子はなにそれ、と笑い、あんたもわたしも男を相手にする仕事してんじゃんとさらに笑った。あんたさ、本当にねっからの好きものだねと辛辣なことを平気でいいのけた。そうかもだね。わたしはけれど本当のことだし笑って誤魔化した。妊娠をしたことを女の子にひっそりと告げると、マジで! と毛虫を踏んだようにおどろき、どうするの? と今度は真顔に戻って心配そうに聞いてきた。
「どうもこうも……」
 相手の男にはいわなかった。とゆうかいえなかった。なぜかといえば男は他にも付き合っていた女がいてその女と逃避行をした。
 わたしは途方に暮れ、涙すら出なかった。
 堕胎の当日になり女の子が付き添うよといってくれたけれど、仕事が入ってしまい、ごめんいけなくなったと謝るから、ううん、大丈夫よと笑っていいひとりで病院に行った。自転車に乗って。
 病院に行くと承諾書を渡され、明日何も食べずにきてくださいねと予約を入れた。当日には手術はできないと知った。
 わたしはなぜだか涙が出てどうしょうもなかった。これも春先の出来事だった。

続く

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