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古代エジプトの疫病 | ナイルの恵みがもたらした恐怖


エジプトのナイルの氾濫は肥沃な大地を形成する恩恵の象徴としてよく紹介される。だが、実は同時に疫病を運ぶ恐ろしい側面も持ち合わせていた。今回は、華々しい古代エジプトの歴史の影に隠れた暗い側面にスポットを当てつつ、人間の遺骨や文字資料から読み取れる当時の疫病についてを探究する。

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古代エジプトのナイルの神ハピを描いた壁画。ナイルの豊かさを象徴し、ふくよかな身体付きをしている。カルナク神殿壁画一部。


病気が人間の遺骸に痕跡を遺すとは限らない。特に熱病の場合は痕跡を遺さない傾向にある。それゆえ、遺骸から疫病を確認することは、必ずしも容易いものではない。だが、古代エジプトでは「結核」と思われる疫病の痕跡が確認できる。結核は、当時のエジプトの人々を大いに悩ませた疫病のひとつだった。かつて、日本においても流行した疫病で、明治時代を始めとして多くの著名人がこの病で命を落としている。結核の菌株は様々だが、古代エジプトにおいては牛の菌株による結核が深刻な問題となっていた。古代エジプト人は古くから牛を大切な動物として扱い、特定の容姿を持つ牡牛を聖牛アピスとして信仰してもいたこともあり、牛との濃密な接触機会が多かった。

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聖牛アピスを描いたAE貨。ローマ帝国支配下のアレクサンドリアでハドリアヌスの治世に発行された。古代エジプトのおけるアピス信仰を現代に伝える考古資料のひとつ。イスラエル考古学庁正式輸出認可品。カタログ分類番号:SNG Cop 392 / Emmett 1114。


古代エジプトにおける最古の結核の発見事例は、エジプト南部エスナ近郊の先王朝時代の「アダイマ遺跡」で見つかった女性の遺骸である。彼女は結核によって起こった背骨の湾曲が明らかに確認できる遺骸だった。牛を媒介とした結核は、主にその肉や乳から人間に伝染した。牛の菌株に比べ、人間の菌株は極めて伝染しやすい性質を持つ。そのため、結核は大流行した疫病として人々を苦しめ続けた。当時のエジプトでは、結核に打ち勝つ薬がなく、食事や休養をきちんと摂る他に対処の手段はなく、有効な治療法は皆無だった。感染者は生活によって生じる咳や飛沫によって、別の人間へと鼠算式に次々に伝染させていった。

結核は人間の臓器に影響を及ぼすことがあるが、臓器は腐って朽ち果てるため、その証拠を臓器から検知することは極めて難しい。だが、結核の進行が酷い患者の場合、その侵食は骨にまで達する。この場合は、骨の変形から結核を検知できる。「ポット病」とも呼ばれる脊椎結核は、椎骨が破壊されて背中が湾曲し、瘤状になる性質を持つ。先王朝時代及び古王国時代の出土品からは、背中が不自然に湾曲し、瘤状になった人間を模した彫像が確認できる。尚、結核を患って死亡したと思われる人間のミイラは、英国ボルトン美術・博物館に収蔵されている。この幼くして亡くなった幼女のミイラは、結核による骨の変形がはっきりと確認できる。また、1891年にテーベで発見された第3中間期 第21王朝の神官ネスパヘルアンのミイラは、結核の末期患者に見られる特徴的な胸椎及び腰椎の破損が見受けられる。

このように人間の遺骨からは、興味深いほど様々な情報が得られる。もちろん、甲虫のような遺骸の骨を食する生物が疾患によって生じたものと似たような痕跡を遺すため、その点には細心の注意を払わなくてはならない。また、人間の遺骨以外にも、当時の壁画や彫像を始めとした出土品、加えて文字資料からも病気の痕跡を窺い知ることができる。

エジプト最古の病例を記録した文字資料は、1889年にファイユーム地方で発見された中王国時代の「カフーン・パピルス」である。このパピルスは、34個の婦人病症例を掲載している。1896年に英国の研究者ジェームズ・クイベル(James Quibell)によって発見された「ラメセウム・パピルス」にも、カフーン・パピルスと類似した病例が記録されている。大英博物館所蔵の新王国時代に記された「チェスター・ビーティ・パピルス」は、腸及び肛門の病例についてを記載している。独国ライプツィヒ大学所蔵の新王国時代第18王朝にテーベ記された「エーベルス・パピルス」は、病例記録の中で最長であり、且つ完全な形で現存している。皮膚病、眼病、胃病、咳病、婦人病、腫瘍、咬み傷等の外傷が記録されている。また、それらに対しての処方箋の調製方法の他、心臓と血管の観察記録、害虫・害獣駆除方法、身体の整形術など、多岐にわたる記録が綴られている。だが、処方箋に関しては、現代の医療の観点からすれば全く効用のないもので、半分はまじないに近い。このパピルスの翻訳を1890年に独国の研究者ヨーアヒム(H. Joachim)が、1937年に同じく独国の研究者エッベル(B. Ebbell)の二人が試みているが、訳文に欠陥が多く、正確性に乏しい。エーベルパピルスと同様に第18王朝にテーベで記された「エドウィン・スミス・パピルス」は、48個の外科症例を紹介したもので、外傷の治療法についてが記録されている。このパピルスは1930年に米国の研究者ブレステッド(J. H. Breasted)によって翻訳された。その他、当時の病例を記載したパピルスは、第18王朝に記された「ロンドン医術パピルス」と「ハースト・パピルス」、「カールスベア・パピルス」、第19王朝に記された「ベルリン医術パピルス」などが存在する。

古代エジプト人の医療にかけての知識は、当時最高峰と人々に認識されていた。ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』では、エジプトの医師はどの国より優れると紹介されている。また、古代エジプトでは、医師の中でも既に専門分野が形成されていた。それはエジプトを旅した前5世紀のギリシアの著述家ヘロドトスの文献から窺える。彼によれば、エジプトの医師は身体の特定部位を専門にしていたという。その他、ヘロドトスはペルシア王国のキュロス王が眼科医を求めてエジプトに使者を派遣したこと、ダレイオス王がエジプトは最も優れた医療技術を持つと認めていたことなどを記録している。

結核の他、天然痘と思われる疫病も新王国時代 第18王朝のアメンへテプ3世の治世では流行していた。テーベのカルナク神殿群のひとつであるムウト神殿の中庭からは、600基を超えるセクメトの等身大像が見つかっている。セクメトは古代エジプトの疫病の女神で、神話では病の息を吹いて人間を次々に葬ったと伝承される。この神話に基づき、当時のエジプト人は疫病の蔓延がセクメトの怒りを買ったことによるものだと考えた。それゆえ、彼らはセクメトの怒りを鎮めるために彼女の等身大像を大量に生産し、神殿に奉納したと推測されている。

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ムウト神殿の中庭から出土したセクメトの等身大像。太陽円盤を頭頂に頂き、左手に生命を象徴するシンボル「アンク」が握られている。これは人間の生命が彼女に握られていることを暗示している。国立ベルリン・エジプト博物館所蔵。

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台座に刻印されたエジプト・ヒエログリフからアメンへテプ3世の治世に造られたことが分かる。カルトゥーシュ(王名枠)に記された名前は、アメンへテプ3世とを示している。国立ベルリン・エジプト博物館所蔵。


天然痘の流行は、後のローマ帝国でも確認されている。マルクス・アウレリウスの治世の行われたアルメニア遠征で、ローマ人は勝利して大量の戦利品を手にしたが、皮肉にも同時に天然痘を持ち込んでしまった。帝都ローマを襲った疫病は発達した街道がまさかの仇となり、各属州にまで蔓延を促し、帝国は機能を失って崩壊していった。当時、約6000万人いた人口の内、600万人が亡くなったと見積もられている。総人口の1割に及ぶ甚大な被害を帝国は被った。ウイルスに対して打つ手立てがなかった彼らは、こうして滅びの道を歩むこととなり、衰退と終焉を迎える。このように、疫病は常に人間を窮地に陥れ、悩ませ続けてきた。

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ローマ帝国でマルクス・アウレリウスの治世にアルメニア遠征の成功を祝して発行されたデナリウス銀貨。表側にマルクス・アウレリウスの肖像、裏側にアルメニア人の捕虜を描いている。この遠征によってローマは天然痘を帝国中に招いてしまった。カタログ分類番号:RIC 82。


COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の大規模な流行により、世界は大きき変わった。疫病は人間の身体を蝕むだけでなく、生活環境、思考や精神にも変容をもたらしている。教科書で習った「スペイン風邪」のような疫病が、まさか自分たちが生きるリアルタイムで起こるなど、誰も微塵たりとも予期しなかっただろう。遠い先祖が経験した、およそ神話的な内容としか疫病を捉えられなかった現代人が直面した現実。私たちは、この険し過ぎる現実の壁をどのように乗り越えていけば良いのか。その答えは未だ誰にも分からない。だが、私たちは手探りでも生き抜いていかなければならない。不安と絶望が蠢く今、私たちはどう生き、何をすべきなのか——。その答えとなる一筋の光が、古代の先人たちが経験した記憶から、もしかしたら見えてくるのかもしれない。


*掲載画像は筆者撮影


Shelk 詩瑠久 🦋

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