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For Tracy Hydeの解散を考える/セカイから世界へ

トレイシー・ハイドという子役が出演した1971年のイギリス映画『小さな恋のメロディ』を初めて観たのはFor Tracy Hydeの大傑作アルバム『New Young City』(2019)を聴いてしばらく経った後だった。当時の年間ベストアルバムにも選んだバンド名に関連してる人物の映画なのだから、さぞこのバンドの根源に繋がる作品だろうと思っていたが、観終わった後にバンド名の由来はWondermintsの楽曲「Tracy Hide」から取られていたと知って少々脱力してしまった。映画自体はとても可愛らしくて良い作品だったのだが。

しかしFor Tracy Hydeの旧譜を1stアルバム『Film Bleu』から遡り始めると、どうしても『小さな恋のメロディ』がよぎるのだ。大人たちに邪魔をさせず、時に友情もそばに追いやり2人だけのセカイに夢中になる幼い恋心という描写はそのまま『Film Bleu』の世界観に直結していくように思えたのだ。


時は過ぎ、For Tracy Hydeは2023年3月25日のライブをもって解散する。評価の高いアルバムを連発し、芯を持った音楽性ながら作品ごとに柔軟に変化する天井知らずのバンドだと思っていたがゆえに、解散のニュースを観て疑問は浮かんだ。しかし、この報を受けて『Film Bleu』から2022年のラストアルバム『Hotel Insomnia』をひととおり聴き直すと、バンドの物語が閉じることに納得する部分があった。For Tracy Hydeの音楽精神を分析してみると見えてきた"セカイから世界へ"という重要な変遷を勝手ながら書き記したい。



For Tracy Hydeの「想像界」と「象徴界」

『Film Bleu』(2016)

残響の効いたギターとシンセが揺らめくエモーショナルかつドリーミーなサウンドに、アニソン的とも言えるJ-POPメロディとボーカルeurekaの可憐な歌声が合わさったバンドの基本形が詰まった1stアルバム『Film Bleu』。眩しくキラキラした音像は2人だけのセカイを見事に演出し、僕と君が重なり合っているという確信を描く歌詞が甘美な聴き心地を高めていく。バンドを人、作品をその瞬間の精神が表出したものと捉えるならば、当時のFor Tracy Hydeの心は精神分析家・ラカンが言う「想像界」の段階にいたように思う。

「想像界」とは生まれて間もない幼児が母(血縁者でなくとも絶対的な保護者的存在)と自分の区別がつかず、一体となっているように思う段階のことだ。もちろんフォトハイの楽曲自体は幼児が主人公ではないが、バンドとしては1stアルバムという生まれたての時期であるし、楽曲の中にそういった全能感が込められると考えるのも無理はないはずだ。ここで描かれる君への思慕は君=この世界そのものと捉えるような絶対性があり、また自分と君とを同一視するような、不可侵な2人だけのセカイが広がっている。言葉はなくともすべて満たされているような状態に陶酔しきった世界観が透徹されている。

「おんなじように息を呑みたい…….」
For Tracy Hyde「Emma」より
だって、僕が君を見るように君は僕を見ているの?
For Tracy Hyde「Crystal」より

なおここでカタカナで"セカイ"と書いているのは当然"セカイ系"を念頭に置いているからだ。セカイ系の定義は様々にあると思うし、『小さな恋のメロディ』をセカイ系と呼ぶのは流石に強引すぎるとは思うが、少年少女のクローズドな関係が周辺に影響を及ぼすというのはセカイ系的な作品の方向性とも近接しているように思う。For Tracy Hydeが生み出していたセカイもまた地球を赤い液体に沈めたり、天気を操って雨を降らせ続けることはないが、2人の甘美な関係性が何か未知なるものを引き起こそうとする夢想的なイメージに溢れている。ドリームポップ的な音像も示唆的なように思えるのだ。


『he(a)rt』(2017)

For Tracy Hydeは元より批評的かつ戦略的なバンドである。洋楽的なサウンドデザインと邦楽的なキャッチーさを持つメロディという掛け合わせはバンドイメージを定着させる上で重要な一手だったわけだが次なる手として、バンドを取り巻く周囲のシティポップブームとの対峙になるのは必然だったと言える。こうしてシティポップ的なサウンドアプローチを用いて夢や希望が詰まった都市幻想を解きほぐすような2ndアルバム『he(a)rt』に辿り着く。


その結果として、歌の中で2人だけのセカイに浸ることはできなくなった。都市に身を置くと、2人以外の大勢の他者の存在を感知せざるを得なくなる。広がっていく人間関係の中、つまり社会の中へと飛び込んでいかなければならない状況下に陥るのだ。ゆえに2人だけのセカイはその脆さが露呈していく。すれ違いが生む孤独感、疲弊に先にある倦怠感は、都市生活者を描く上での必須要素であり避けて通ることはできない。甘美さを遥かに超えた、生きていくことの苦味が全編に行き渡っているアルバムなのだ。

この作品はラカンの精神分析における「想像界」から「象徴界」へと向かう段階と言える。「象徴界」とは自分と他人の区別が必要となり、今生きている世界のルールに沿い始める心の成長段階だ。自由にイメージできた「想像界」を制御し、世界に従うことが促される。観念としてのとともにあった甘美な時間を切り離す、観念としてのの存在が精神に対してを与えていくのが「象徴界」なのだが、このアルバムにおいてそのとは都市、そしてアーティストとしての表現欲求が担っていると言えるだろう。都市を生きることを描くため、そして批評的な表現を行うバンドであろうとする意志を達成するための必要条件としてこのアルバムは屹然とした存在感を放つ。



世界と向き合う

『New Young City』(2019)

『he(r)art』における陰影の濃い作風から一転、3rdアルバム『New Young City』は『Film Bleu』をも凌駕する瑞々しい音が鳴り響く。青春映画のような風景に回帰し、2人だけの甘いセカイへと戻ろうとしているよう。私はこのアルバムがリリースされた時に、その素晴らしさを語るために「好きな女優たちを1曲ごとに当てはめた奇妙なnote」を書いたりもした。美しかったり、尊かったりするものへの想いをどうしようもなく喚起させる作品だ。

『New Young City』と題された通り、このアルバムは東京とは異なる新しい街だ。この都市で生きていくしかないという『he(r)art』で突きつけられた事実と折り合いをつけるべく、新しい理想郷を心の中にシェルターとして作ったアルバムだと私は解釈した。本作からボーカルのeurekaがギターを弾くようになり、より分厚い音の壁が全編を貫く。現実世界から心を守るために必要な堅個な城壁のようだ。しかし、後半に向かうにつれこのアルバムは次第に喪失感を吐露しながら記憶と向き合うような質感の曲が増えていく。

終わりの季節に始まったありふれた恋の筋書きが、
冴えない夢とうつつの狭間で鳴っている 
For Tracy Hyde「君にして春を想う」より
さようならサーチライト。
あなたの形の美しい闇を抱いたまま生きてゆく。
For Tracy Hyde「Girl's Searchlight」より
いつか君がほどいた言葉を捨てきれるまでどれくらいだろうな。
For Tracy Hyde「水と眠る」より

こうした作風に寄った理由はこのインタビューから察せられる。シティポップと比較せずバンドのアイデンティティを確立すること。人の生活に寄り添う表現として音楽=芸術を作ること。こうした信念が『New Young City』という過去の保存と現在の受容を同時に行う本作へと結実したのだろう。『Film Bleu』と似た構図ではあるがそれがぼやけたように見えるこのジャケットからも、バンドの精神における明確な思春期の終わりが示唆された。



『Ethernity』(2021)

かくして心の中に大切な風景を閉じ込め、世界と向き合う準備を整えたFor Tracy Hyde。そして2020年、COVID-19の感染拡大によるコロナ禍が圧倒的に大きな影響をもたらしていく。コロナ禍に紐づいているかは分からないが、人々の分断や社会の暗部が嫌でも目に入る頻度が増えてきたあの2020年のムードは『Ethernity』に横たわっている。これは過去3作にあった、青春性やナイーブな感傷とはまた異なる、現実世界からもたされる強烈な痛みと言える。このインタビュー内でメインソングライター夏botは「こういう時代なので、現実逃避ばかりしてもいられない。」「今作をつくるにあたっては、現実に根差した表現をしようと。」と語っており、その変化は明らかだ。

足掻こうとも思い出は褪せていく。そして現実世界は今この目の前に立ちはだかっている。この局面でアーティストとしての覚悟が強まったことでFor Tracy Hydeは夏botの出生地・アメリカをテーマにしたこのアルバムに向かっていく。自身のルーツや人生の原風景と向き合いながら、この現代が抱える苦痛や空虚を完全なるリアルなものとして向き合う段階に立ったのだ。

アルバム後半には夏botのボーカルパートが増えるためパーソナルな印象を与えるが全編通して見据える世界は広大だ。男性モデルを起用したジャケット含め、これまでとは違う旅路へと歩みを進めた大きな節目の1作だろう。


『Hotel Insomia』(2022)


2022年末にリリースされた『Hotel Insomnia』が結果的にFor Tracy Hydeのラストアルバムとなった。夏botによるこちらの解説ブログによれば、元々は前作『Ethernity』との2枚組になる計画もあったとのことで、引き続いて現代社会にうごめく様々な苦しみと向き合ったような楽曲が並ぶ。題にホテル不眠症と冠されているのは、あちこちに心を運べるようになってもなかなか安らげる場所のない現代人の寄る辺ない心象を言い当てているように思う。

儚い少女の姿に己の悲しみを重ねたり、切ない追憶に縋ろうとはしない。メンバーの姿を起用したジャケットもまた、虚構性を拒絶しているように見える。明確なコンセプトを持つことなく群像劇のようにまとめられた本作は俯瞰の視点から世界を描こうとしていく。時にSF、時にファンタジー、時に青春映画とアプローチも多彩だ。また音楽性もドリーミーなだけではない、ヘヴィでラウドなシューゲイズやシリアスなラップなど多岐にわたっていく。

キラキラで眩しい2人だけのセカイに端を発したFor Tracy Hydeは、限りなく広がる世界に寄り添うべくあらゆるジャンルや表現を昇華できるバンドに育った。その事実は解散の報に夏botが載せた「今後数十年に渡って折りに触れて掘り返され、シーンへの影響を及ぼしうるだけのものを積み上げてきた、という確かな実感が自分のなかにあるからこそ、誇りを胸にいまこのバンドの活動に幕を降ろすことができます。」という言葉に繋がるのだろう。


1人の少女に捧げられているような名前を持つFor Tracy Hydeというバンドが狭くも温かな心象セカイから抜け出し、冷え切った現実世界と対峙するようになるというこの心的な成熟に至る道筋。これを理解した以上はFor Tracy Hydeの終結を拒否することは難しいと納得した。さて、私が最後にこのバンドを観ることが出来るのは今週末の名古屋公演。目に焼き付けるしかない。


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