短編随筆「航海先に立たず」
店内は男と妻のふたりきりのゲスト。男は昔の影を想像させないほど痩せ細っている。尻も痩せこけて木製の椅子に腰かけるのも痛みを訴えるほどだ。店の赤いクッションを座布団代わりに敷いて店の奥のワインセラー前の壁際に向き合い座っている。男の後輩が店主のビストロ。妻はカウンター越しの自分と話しながら、ときおり男に話の内容の同意を求め声をかける。が、男は返事もせずにエッフェル塔の小さなモニュメントを見つめている。頭に画像として記憶すると一心不乱に店の壁に激励の絵を一生懸命に文字通り命がけで壁に描いている。絵はエッフェル塔を挟むように傾けたシャンパーニュグラスをが2つ。エッフェル塔をアルファベットのAに見立ててその下にVotre Santeと書き込まれている。店の開店を祝う「乾杯」を表現したサインだ。日付と自身の名前を刻むと、ゆっくりと妻の横に席を戻した。
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