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試論:シンギュラリティ後の人の価値 ~ AIに駆逐されない生き方 ~

自分の人生や、企業を経営する上で考えておいた方がいい基礎となること。国の方針やオピニオンリーダーたちを根底から理解するための素地となる部分を比喩を使って説明してみたので、ぜひご参考に。乗り物のたとえは私的には分かりやすくできた気がするので、大切な人にはシェアします。

人生も企業のあり方も乗り物の運行に例えることは出来ると思う。三輪車に始まってジェット機まで、その手段になる理由はそれぞれの目的次第ではあるが、その比喩で考えるといろいろと考えやすくなる。

例えば、船を使うとしよう。船に乗ってることを楽しむことも出来るが、それだと目的地はおざなりになる。それも在り方のひとつだが、外にいるものは誰もそれを評価したりはしないだろう。いわば社会性のない状態である。

ならばまず必要なのは目的地だ。あるいはそこを運航している理由だ。目的地への到達ばかりが運航理由ではないが、運航しているだけなら独りよがりで社会性はないことになる。それも認めるならそれはそれだが、それでも船の維持には相応のコストはかかるのは承知すべきだ。

つぎに船の構成だ。船を操作する部分と船を動かす部分である。更には都度、船の向かう方向を決める部分も必要だ。これら三つはどれが欠けても運航に支障が出る。

難易度で言えば、より高度な判断力を必要とする順に、方向を決める部分、操作する部分、動かす部分となる。だから、自動化するのが容易な順に、動力部、操作部、司令部となっていく。ただし、構造上は動力部の方が職人のノウハウや技能を必要とする領域ではある。技能やノウハウが共通しているだけだ。

さて企業に当てはめるなら、評価はどれだけ運航のスムーズさを実現してかという点と、いかに優れた進路をとっているかになるので、動力部と操作部の構造の機能性と、司令部の機能の卓越性が評価としては重要になる。

つまり、市場で売るという動力と、そういうことが可能にできる経理や人事、総務的な力が企業を進ませる構造となり、経営機能はどんな市場を選び、どんな売り方をするかに関わる。

人生ではそれを一人でやるが、企業の多くはそれを分業する。そして現代に求められるのがスピードであるゆえ、動力部と操作部の自動化を果たしていかないと周りの船に置いていかれてしまう。置いていかれたものたちが集まるのもありだが、それには逆風の中でつつましく操船している同種の船に出会うまでの結構な時間、孤独・孤高で過ごす覚悟はいる。

そういう包括的なことを含めて方針を決め、指示の第一歩を果たすのか経営部であり頭脳であるから、人生も企業もこの部分の妥当さが成績に直結している。この部分をコピーしたままだと自力で考える力に目覚めた人には敵わなくなる。ゆえに資源をこの頭脳の部分に集中させることは理にかなっている。

これが企業や個人たちを総括する国家がたどり着いている経済政策になっているので、この方針に合わせた方向を向いて並走するのが無難である。

もちろん船は進むだけが能ではないし、海中に意義を見つけることも自由度は色々な方向に広がっているが、それを周りに理解してもらうには時間はかかるだろう。個人やベンチャーとしてはいいが、堅実な企業ほど取りにくい操舵方向になる。

なぜパソコンでやるべきことが増えていくかの理由はこれまで述べたようなことが核心で、今後もその考えが変わっていかない限り、企業も個人もこの波には抗いがたい。抗うなら少なくとも覚悟はいる。

何を自動化の対象とするか、どこまで自動化し、そのコストパフォーマンスを評価できるかは、頭脳部の判断に関わっていく。船全体が求められる機能を判断して構造を決定していくという総合性から、そういう部分に頭を使うことが経営の本質のひとつになっていく。

つまり企業が何を目指しているのか、その目的のためにどう企業の構造を最適化していくのか、その機能は自動化できないから(より先端の人はそれをも試みているが)、それが人として企業と関わる醍醐味にもなりうる。

同じ課題はどの企業も抱えている以上、成功したモデルケースは既に存在する。それを採用してもしばらくは問題ないだろう。ただ借り物では貸主に逆らえなくなるし、競争すらできなくなる。だから、最低限、背後にある思考を盗み取って自分のものとし、それを応用することで自らの競争力をつけていく。それができないとモデルケースの是非も判断できない。

これからは企業も個人もこういう視点を理解したところから運営、航行していかねばならないのだろう。浜辺で素潜りしているだけが許されなくなってきたのだ。汚される海を傍観していれば、汚染の原因にもたどり着けないのだから、諦めるのでなければどうあれ自らが動かねばならない。

このメタファーで空を飛んだり海底に潜ったりというのはありだが、よほどのセンスと覚悟と力が必要になる。いや、一番大事なのは信念かも知れない。センスも覚悟も力も信念が構造化するからだ。水平面にいながら別の上下軸に気がつくことは、広い視野と射程と無縁ではない。鳥の眼と水中カメラは世界の見方をさらに俯瞰するから。(二次元から三次元への跳躍:この効果は計り知れない。)

AIに駆逐されない自分の価値は今から考えた方がいいだろう。創造性の源を公開してしまうと、その時点からAIは巧みに模倣してくるだろうから、さらにその先へ進む手段を確保しておく必要はある。最先端だけは人間である、と信じたい。人間の頭脳というより、人間の神性だとは思うが。

暴論めいた言い方をするなら、

人間の価値は神を理解し活用すること!

AIが絶対精神にたどり着くことだけはさすがにないと思う。構造的にも無理だろう。必ず上位の発信者を必要とするのだから。だから、AIと互換性がない人間とは発信元の絶対精神にたどり着いた人間であるともいえる。絶対精神のことはヘーゲルが語っているが、『大論理学』が術語関係なくすんなり頭に入る精神だ。

このことは『考える人 ー口伝西洋哲学史ー』池田晶子著(中公文庫)でその独特の言い回しで語られているので、興味があればご参考に。これをそもそも理解する鍵が「機能が構造を要求する」という真実でもある。形而上学は真実を語りえないが、正しく語り続けることはできるということだ。

宇宙がわかれば、そこで行われている営みは確実に理解できてしまう。すべてが規模の違うだけの同じ構造に見えてくる。マトリョーシカだ。違う構造であり得てもいいのではないか、と思い始めることができるなら、その世界の構造を超えたと言えるだろう。世界の機能をクリアし、宇宙に近づいたのだ。

TOE(万物の理論)がわかるかどうかで、人の心のことへの理解力も違うし、経済も政治も全然とらえ方が違う。当然、それらの総体として歴史を見ることにもつながるから、何が世界の動力源かも理解していくことになる。(物)理だって、(精)神のために構造化したのだ。別の世界では物と精の部分が異なってくる。

(物)理構造は(精)神機能に要求されている。この世界の創造はこれによる。創造はどの世界でも神の領域なのだ。この世界での神の否定は(物)神機能が(精)理構造をとっていると信じている者たちが辿り着いている結論だ。当然のことだが物に神を見ようとすれば、そこに神が「ない」のは当たり前だ。「ない」は、端的に見え(感じ)「ない」を勘違いしているからだ。


神、というか宇宙がどのように被造物を愛しているかについては、これまでの記事でもずっと語っているし、それしか語っていないともいえる。もったいぶってるつもりもないので一言で言ってもいいが、一言で理解できるならとっくに理解しているだろうし、この記事の内容は当たり前すぎて得るものすらないだろう。

その存在が(偽りなく)信じている通りのことを実現させてあげてる。

宇宙の権能はこれに尽きる。



Illust genereated by Aipictors(画像生成β)
prompt:A young woman with long black hair and blue eyes wearing a white dress talking with a small computer

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