綿帽子第六話
「メロディ」
体調の悪さを感じ始めた頃に、俺とは全くの無縁だと思っていたメロディが、突如として頭に浮かんだ。
いわゆるJPOP調。
それも80年代から90年代に存在していたようなドラマのタイアップソングのようなものだ。
それまでの俺はR&BテイストやROCK、JAZZテイストの入った曲を書くことはあっても、自分なりの拘りからJPOPというカテゴリーに手を出すことはなかった。
だからといって俺の書いた曲が日の目を見たことはない。
ただ、何故だかこのメロディはちゃんと形に残した方が良いのではないか?
そんな思いに駆られたんだ。
体調の悪さもあって、思ったようには進まなかったけれど、頭の中にはずっとメロディがあった。
入院し始めてからは闘病以外に特にやることもなかったので、iPhoneのメモ帳に思いついた歌詞を書き始めた。
別段良い歌詞だとも思えなかったけれど、この曲を書き上げたら自分の中で何かが変わるのではないか?
期待感だけが募っていく。
「だけど、書き上げたところで意味があるのだろうか?」
「このまま死んでしまうかもしれないのに、作って何になるのだろうか?」
「俺の生きるためのモチベーションを保つためだけならば、全く意味がないのではないだろうか?」
「曲というものは人の目に触れて初めて価値が生まれるものだ。」
「だったら、作りあげたとしても俺が持っていたままなら、何にもならないのではないか?」
「何としても俺が生きていた証だけは、この世に残してから消えていきたい」
「幸いなことにメモ帳にコード進行だけは書いてあるじゃないか」
「メロディも書けなきゃ、ボイスメモに録ってデータとして残しておけばいいんじゃないか?」
「だけど、誰に送る?」
目を閉じて考えてみる。
ある人の顔が脳裏に浮かぶ。
彼は確かシンガーソングライターとしてこれからの人生を歩んで行きたいと言っていた。
実際に会ったことはないのだが、SNS上では既に3年の付き合いがあり、電話でも何度も話した事がある。彼の人生観もよく知っている。中々出来た人だと感銘する部分もある。
「この人に送ろう」
俺はまるで何かに取り憑かれたように一心不乱にメールを書き始めた。
そして全てを吐き出すと、ゆっくりとテーブルの上にiPhoneを置いた。
読み返す必要はない。
今の俺の全てを詰め込んだメールだ。
滅茶苦茶長文にはなったけれど、この人ならきっと分かってくれるだろう。この曲を必ず完成させて、俺の想いを伝えてくれるに違いない。
書き上げた歌詞とコード進行は添付してある。
先に送っておいて、音声は録音して残しておけば、この人の手に渡ることもあるだろう。
あとは送信ボタンを押すだけだ。
不思議な安堵感が俺を包む。
俺はもう一度iPhoneを手にとって、友人のメールアドレスを確かめると軽く息を吸った。
「良し」
意を決して送ろうとしたその瞬間、親父の顔と共にある記憶が蘇った。
「あれ、こんな場面、以前にもあったような」
そう、すっかり忘れ去っていたのだが、今とほとんど変わらないシチュエーションを俺は経験したことがある。
そうだった。
「あの時親父が病室に入って来てくれなければ俺は死んでいたんだ」
10年前のあの時、俺はたまたま病院に見舞いに来てくれていた叔母を騙して、便箋と封筒を手に入れた。
本当に精神薄弱になっていたんだと思う。何を書いたら良いのかは分からなかったのだが、俺をこの世に生み出して、育ててくれた両親だけにはせめてもの感謝の気持ちを伝えたい、そう思ったんだ。
二、三行書き始めたその時、病室のドアが開き親父が中に入って来た。
「何やってるんだお前!そんな事したら死んじまうぞ!止めろ!」
親父は俺の手から便箋を勢いよく取り上げると、ベッド脇の椅子の上に放り投げた。
「馬鹿!そんな事したら死んじまうじゃないか!」
「だから書こうとしてるんだけどな」
そう思ったりもしたのだが、親父の酷く心配そうにしている顔を眺めているうちに、俺は冷静さを取り戻した。と同時にこの人の為にも生きなければならない、そう強く思えたのだ。
その日を境に俺の病状は回復へと向かったのである。
俺は今同じ事をしようとしているのではないか?
もしかしたら今ここで送信ボタンを押してしまったら、確実に死がやってくるのではないか?
だけど冷静になれ、俺はどう考えても助かるとは思えない。
今回ばかりはどれだけ頑張っても助かる気がしない。
だが、今ここであの時のことを思い出したということは、思いとどまれば俺は助かるということじゃないのか?
待て?入院前に錯乱しかかった時も、まるで映画のワンシーンのように色々な記憶が頭の中を駆け巡った。あれはやはり死の前兆を意味していたのではないのか?
一瞬のうちに色々な思いが浮かんでくる。
だが、一つだけ分かったのは
「俺は今、冷静じゃない」
そう思うと、何だか急に拍子抜けがした。
ひとまず持っていたiPhoneをテーブルの上に置いた。
そして、しばらく考えてはいたものの、もう一度iPhoneを手に取りメールを削除した。
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