いつの間にか眠っていたようだ。 また夢を見た。 俺は通勤電車に乗っていた。 人影はまばらだ。 同じ車両の少し離れたところに、黒髪で真っ白のワンピースを着た女が座っている。 髪の毛は肩よりも長く、顔ははっきりとは思い出せないのだが冷たい表情をした女だ。 やがてとある駅に着いた。 俺が下車するとその女も一緒に電車を降りた。 その女が先を歩き、俺も同じ方向に向かって歩いていた。 少し進むと、左斜め前方に人だかりができていることに気がついた。 不思議に思ってそちらに
寒くなったら暑くなる。 初秋だというのに残暑のぶり返しがきつい。 いい加減諦めろよ残暑と思ったりもするが自然には逆らえないのだ。 暑さが続くとはいえ花粉症の季節は否応なくやってくる。 『木から飛び出す婆さん』の相手をするのに飽きたので、散歩コースもバリエーションが増えてきた。 最近は緑を求めて田んぼの横の道を歩いている。 スギ花粉が舞う季節ではないのだが、どうやらこの近辺にはブタクサなるものが沢山生えているようで、スギ花粉にアレルギーがある俺はブタクサにも過敏に反応
あれからも同じ道を通る度に婆さんは出てくる。 老木に近づくにつれて緊張感が増していくが、平常心を養うには丁度良いのかもしれない。 少しずつ距離を伸ばしてコンビニの近くまで来れるようになった。 店内に入ってみる。 このコンビニにはよく通っていたので懐かしい顔を見る。 軽く挨拶を交わしてから、すぐに外に出た。 まだ人と上手く会話できるような状態ではないらしい。 自分が本当に情けなく思ったりするが、ここまで弱ってしまったのだから仕方がない。 腹を括って前を向くしかないのだ
帰り道、タクシーの中で今日という日を振り返る。 診察室で聞かされたことを頭の中で整理しながら、思い悩む。 心臓の動きが良くなってきたとの報告があるが、程度としては8割の回復傾向らしい。 ちょっと待て、入院中少し心臓の動きが悪くなっていると聞いてはいたが、8割良く動くようになってっるて何だ? 先生表現がざっくばらんすぎて良く分かりませんが、それなら入院中はどんな感じだったのですかと聞いてみた。 「嗚呼、あの時は6割」 「どういう意味ですか」 「6割程度しかよく動いて
「お風呂ショッ〜ク!!」 から三日経った。 相変わらず湯船に浸かっても凍えるような思いをするだけで、体調に良い変化は現れない。 全身に渡る痛みは消えず、足裏の痛みも和らぐことはない。 久しぶりに外に出てみた。 最初はゆっくりと、家からあまり遠出をせずに歩いてみる。 通りすがりに近所の人に声をかけられる。 応対はするのだが、今の俺には苦痛でしかない。 足を一歩踏み出すごとに激痛が走るんだから、それだけで気が気じゃない。 何とか耐えながら歩を進める。 首が相変わらず
昨夜お風呂に入ってみた。 最後に入ってから2週間以上は経っている。 夏なのでシャワーだけにしておこうかとも思ったのだが、免疫力を高めるためには体を温めた方が良いのだ。 蛇口を捻ってお湯を出す。 指先で軽く温度を確かめてから浴槽に湯を張った。 一旦部屋に戻り、頃合いを見計らって再び浴室へと向かう。 湯船にはもう半分ほどお湯が溜まっている。 そのままシャワーに切り替えて、まずは頭を洗う。 「気持ちいい」 「気持ちいいけど、なんか変?」 洗っている最中何故だかフラフ
自宅に戻って二日が過ぎた。 今夜はカレーになる予定。 自分から夕食をリクエストした。 焼きそばにカレーなんてまるで子供の食べ物だとか言われそうだが、食べたいものを食べないと心にも体にも良くないのだ。 体の中に溜まっているコルチゾールが増え続けて、コルチゾールまみれになってしまう。 相変わらず眠れない夜は続いているが、それでも少しは体を動かさないと本当に動けなくなってしまうので、今日から一日の大半を居間で過ごすことにした。 居間に出てソファに腰掛けると犬達がすり寄って
眠れぬ夜が明け、朝が来た。 太陽の光を感じられる喜びは何事にも変えられない。 自分が生きていると一番実感できる瞬間だ。 本当は散歩に出たりしたいけど、用心の為2〜3日、いや4〜5日は様子を見よう。 次の受診日までには一度は散歩に出たい。 お袋が食事を運んで来てくれた。 後ろの方から犬の鳴き声が聞こえる。 おそらく居間にいるのだろう。 「今日何が食べたいか?」と聞かれたので、焼きそばが食べたいと答えた。 昼に食べのたか夕食になったのか、もうよく覚えてはいないけど、
エレーベーターを降りて、正面玄関手前にある入退院受付を目指す。 お袋に肩を借りながら、なんとか待合室の受付の前にある長椅子まで辿り着いた。 困ったことにお袋が手続きができないらしい。 俺の方も認知能力がおかしくなっているのか、言葉を投げかけられても理解し難い場合がある。 相手の話す内容によっては瞬時の理解が乏しい。 恐らく長期間に渡って発熱していた為の後遺症だろうと感じてはいたが、戸惑いだけが俺の全てを支配している。 両手はあまり力が入らない。 その上ガチガチに固ま
退院日がやって来た。 二日前に看護師さんがやって来て、突然退院を告げられた。 まだトイレまで行くのがやっとなのに本当に大丈夫なのだろうか? 医師に説明を求めると「山場は越えたから」と返事が返ってきた。 体内の敗血症を起こした張本人は既に消え去っていて、敗血症自体は落ち着いているらしい。 トイレに置かれた四角い容器は、毎日俺が出す尿で溢れそうになっている。 元々持っている不安障害を落ち着かせる手段として水を良く飲むのだが、入院してからはそれに拍車が掛かっていた。 そ
「愛しきグレープフルーツ王よ」 ごめんなさい貴方を嫌いになった訳ではありません。 ただ、毎日顔を見ていると何と言うか倦怠期とでも言いますか、長年連れ添ったご夫婦でも一度は経験するというそれです。 もっとはっきりと言いますと、飽きました貴方に。 「うわ〜こんな事言われたら立ち直れないわ」 最近の俺はこうやってグレープフルーツをネタにしたり、色々と妄想を膨らませては時間を潰している。 暇といえば暇。 生きている時間をこんなことに使っていて良いのかと思ったりもするが、
「ああ、ようやく点滴が外れた」 今日は少し気分がいい。 色々な抗生剤を試しては拒絶反応を起こしたりと不安な日々に苛まれていたが、もう心配する必要はなさそうだ。 ずっと点滴を打ちっぱなしだったので、針を刺す血管が潰れて看護師さんが拾えなくなって、遂には手の甲から通すようになっていた。 いつの間にか昇圧剤もなくなっていたようだ。 体を拭いてもらう機会も増えたので、それだけ回復してきたと言いたいのだろう。 点滴の減りと共に看護師さんの担当も入れ替わり、今は男性の看護師さ
「おはようございます」 「尿がどれぐらい出ているかチェックしたいので、便器の方にしないでこちらにしてくださいね」 看護師さんが大きな四角い容器を持ってきて便座の横に置いた。 これからしばらくは、この中を目掛けて用を足さなくてはならないのだ。 「そう、容器の中心に向かってベストショットを放つ」 一滴も外に漏らさず、尚且つ看護師さんの手を煩わせることがないように、俺の俺をコントロールしなければならないのだ。 今の俺にそれができるのかは定かではないが、頼まれたからには仕
「自力トイレ来たー!!」 「めでたし、めでたし」 回復しだしたので、トイレまで自力で行くように指示される。 個室内にあるトイレまでの僅かな距離が遠い。 相変わらず鏡で自分の顔色を見ると、うんざりしたりはするのだが、前進したことに変わりはない。 「気になるのは便の色だ」 緑色の便が出続けている。 顔は青い、便は緑でまるで野菜な俺。 担当の看護師さんに伝えたら、整腸剤が食後の薬に追加された。 点滴はさらに減って一本になった。 血液中の酸素量が少ないらしくて、酸
「点滴が一つ減った!!」 何が減ったのか内容は分からないが、気分は少し良くなるものだ。 血圧が100を越えて安定するようになってきた。 まだ時々100以下に落ち込んだりもするのだが、段々と落ち着いてきたようだ。 少し前に先生から心臓のエコー検査の結果を聞いた。 「少々心臓の動きが悪くなってるようです」 「でも、心配するほどのことじゃありませんから」 そう言って先生は立ち去った。 果たしてそれをどう捉えたら良いのだろう。 言葉通りに素直に受け止められたら良いのだ
「グレープフルーツが食べたい」 昨夜お袋に頼んだグレープフルーツが今日には到着するだろう。 甘味、塩味、酸味、を感じなければ、あとは苦味しかない。 味覚とはその4つに旨味を加えて基本の五味として表現するらしい。 午前中、看護師さんがやって来て心臓のエコー検査に連れて行かれた。 検査結果は後ほど先生の方から報告が来るそうだ。 時たま胸が締め付けられるようになって、深夜に起きてしまうのはその影響なのだろうか? 心臓に何かが起きているとしたらグレープフルーツはあまり良くはな