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綿帽子 第十六話

「ああ、ようやく点滴が外れた」


今日は少し気分がいい。

色々な抗生剤を試しては拒絶反応を起こしたりと不安な日々に苛まれていたが、もう心配する必要はなさそうだ。

ずっと点滴を打ちっぱなしだったので、針を刺す血管が潰れて看護師さんが拾えなくなって、遂には手の甲から通すようになっていた。

いつの間にか昇圧剤もなくなっていたようだ。

体を拭いてもらう機会も増えたので、それだけ回復してきたと言いたいのだろう。

点滴の減りと共に看護師さんの担当も入れ替わり、今は男性の看護師さんが担当してくれている。

血圧はなんとか100のラインをギリギリ保っている。

測りに来てくれるついでに「それ競馬のゲーム?そんなのあるんだ」とか声を掛けてくれるが、相槌を打つときに声が出にくいのは変わらないので複雑な心境になったりする。

点滴が外れたのでお袋にも連絡した。

喜んでくれていた様子だったが、素直に喜べない自分もいる。

お袋とは随分と長い間不仲なのだ。

毎日来てくれるだけでも有り難いと思わなければならない。
しかし、それを認められない自分も常にいる。

叔母が同居していると以前書いたのだが、幼少期には随分可愛がってもらった。

それも今や昔。

かつてあったであろう古き良き時代の思い出として心に残っている。

今は顔を見るのも辛い。

親父がいなくなってから母方の親戚と俺の間には深い溝ができていた。

何故そうなってしまったのかは俺には全く分からない。

ある日突然、一方的に絶縁宣言をされた。

おそらく、このまま一生会う事もないだろう。

そして顔を見ることすら辛い二人と、何故なのか俺は一緒にいる。

叔母は一度だけお袋の代わりに見舞いに来てくれた。

終始気まずい空気が流れる中、心弱くなっていた俺は叔母に尋ねた。

「なあ叔母ちゃん、俺死ぬんやろか?」

「え?何や?そんなもん死なんやろ」

「そうか、ありがとう」

仏頂面をしながら答えた叔母だったが、少しは気を遣ったんだろう、何も言われないよりはマシなのだ。

面会時間になって、お袋がやって来た。

点滴が外れた様子を確かめると

「ホンマや、良かったな」

と、それだけ言ってベッド脇の椅子に腰掛けた。

俺は特に取り繕う訳でもなく、ありのままの感謝の気持ちを伝えた。

「毎日来てくれてありがとう、このまま順調に回復して退院できたらいいな」

と、そんな会話をしたと思う。

すると、最初のうちは黙ってうんうんと頷いていたお袋だったが、突然溜まっていた何かを吐き出すように喋りだした。

「それは分かった、ところでお前に聞きたいことがある。お前はこの前何故私を追い出した?」

「お袋」

「何でや?」

「あのさ」

それ以上言葉が出なかった。

確かに言わんとしていることは分からないわけではない。

体調を崩し始める一週間ほど前のある日、お袋との口論に嫌気がさした俺は「そこまで言うなら家から出て行け」と口にした。

お袋は無言で頷くと、部屋に閉じこもったまま出てこなくなった。

ドアを開けようにも内側から鍵を掛けたのか、押しても引いても開かない。

いい加減諦めて、外に出た。

しばらくグルグルと自転車で家の近くを走っていたが、なかなか気分が優れない。

「一体何をどうやったら良いのだろう」

「考えたって無駄だってことは分かっているんだ」

何も思いつかずに時間ばかりが過ぎてゆく。

俺は自転車を漕ぐのをやめてその場に立ち止まると、深く大きく息を吸いこんだ。

それからありったけの声を振り絞って叫んだ。

「おーい誰か教えてくれよー、一体どうやったらいいんだよー」

俺の声が、叫びが、淀みのない青空に吸い込まれていく。

辺りは当たり前のように静まりかえったままだ、誰からも返事はない。

「来たら怖いか」

自分の取った行動の馬鹿らしさに呆れながらも、ふと「今度はもっと上手くやれる」そんな気がした。

家に戻ると犬が二匹とも玄関口にちょこんと座って待っていた。

相変わらずこいつらは元気だ、俺に気づくと両側から足を引っ掻くようにしながら戯れついてきた。

構ってやりたいが、相手をしてやる暇もない。
犬の手を、いや足か?ともかく払い除けるようにしながらお袋を呼んだ。

「お袋、お袋、散歩でも行くかー?」

散歩でもしながら話せば、解決策が見つかるかもしれないと思ったのだ。

しかし、呼べどど叫べど何の反応もない。

返事どころか、気配すら感じられない。

諦めて家の中に入ると、叔母が居間のソファでくつろぎながらTVを見ていた。

「お袋どこ行った?」

「お母さんか?タクシー呼んで出て行ったで」 

「え?なんで止めないんだよ」

「そんなん知らんわ、あんたらが勝手にやったことやろ」

「ホントかよ」

これ以上話しても埒があかない。

俺はお袋が使ったであろうタクシー会社に電話を掛けると、そのままタクシーを手配して駅へと向かった。

利用してからそんなに時間が経っていなかったので、配車係の人が行き先を覚えていたのだ。

「間に合うかな」

心臓の悪いお袋を一人にするのはよっぽど俺の心臓にも悪い。

窓越しに流れてゆく景色の中に、本当の自分を見つけた気がした。

やがて、タクシーは駅のロータリーに滑り込んだ。

運転手さんにお金を渡して軽く挨拶を済ますと、急いで下車して目の前にあるエスカレーターを駆け上り、そのまま改札を抜けてホームへの階段を駆け降りた。

辺りに人影はない。

時刻表に目をやると、先発の電車が20分前には駅を出発している。
多分この電車に乗ったんだろう。

「はぁ」

ため息がでた。

ため息と共に得体のしれない倦怠感が一気に俺を包み込む。

俺は備え付けのベンチに腰を下ろすと、そのまましばらく動けなくなった。

何故だろう、気が抜けたせいなのか?急激な体の異変に恐怖すら感じる。 
お袋も気がかりだったが、むしろ危機感に怯えて帰路を急いだ。

二日後、叔母宛てにお袋から連絡が入った。

「昨日は金沢で泊まった、今日は長野の善光寺にいる。〇〇には教えなくていい」

と伝えてきたらしい。

相変わらずの強情っぷりに安心はしたものの、体調不良は変わらない。
結局ほとんど寝ずにお袋の帰りを待っていた。

帰って来たのは発熱する前日だ。

俺はお袋の顔をまじまじと見つめると「よく見ろ、点滴外れたばかりって分かるな?俺が今どういう状態なのか分かっているか?」と心の中で訴えた。

気を抜くと言葉に出てしまいそうになるからだ。

しかし、お袋はそんなことはお構いなしと喋り続けている。

今思えば「気が動転していたのかも知れない、疲れていたのかも知れないな」と思いを巡らす事もできる。

だがこの時点で俺にそれを求めるというのは、俺が仏を超えた変態な存在にでも成らない限りは無理な相談だ、酷としか言いようがない。

「頼むから今はやめてくれ、家に帰ることができたらちゃんと聞くから」

そう伝えるのが精一杯だった。

お袋は一瞬不満げな表情を浮かべたが、流石にそれ以上詰め寄ろうとはしなかった。

「もう帰ってええか、疲れたは」

と、言うとそのまま部屋を出て行った。

親父が生きていた頃も、我が家に特に笑顔が溢れていた訳ではない。
親父は無口だったし、俺は15の時から家を離れていたので家族と会話を交わす機会さえなかった。

それでも親父とお袋が建てた家には、ここがホームなんだという想いがあった。

その場所が、今では俺が最も心落ち着けない場所となっている。

自分のホームに居場所がないのだ。

心の癒しとなるはずの場所が、毎日が地獄のように感じる場所へと変わり果てていた。

俺はいつも踠いて苦しんで、自分の無力さを嘆き、そして自分で自分を抱きしめることで何かを掴み取ろうとしていた。


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