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綿帽子 第十八話

退院日がやって来た。

二日前に看護師さんがやって来て、突然退院を告げられた。

まだトイレまで行くのがやっとなのに本当に大丈夫なのだろうか?

医師に説明を求めると「山場は越えたから」と返事が返ってきた。

体内の敗血症を起こした張本人は既に消え去っていて、敗血症自体は落ち着いているらしい。

トイレに置かれた四角い容器は、毎日俺が出す尿で溢れそうになっている。

元々持っている不安障害を落ち着かせる手段として水を良く飲むのだが、入院してからはそれに拍車が掛かっていた。
そのせいで大量の尿が出るのだ。

退院前に心臓のエコーの再検査をした。

心臓の動きが弱くなっているらしい。
だから体に力が入らないのだろうか?

午前中に肺のレントゲンを撮る予定になっているので、お袋を待ちながら荷物を纏めた。
やがて看護師さんが迎えに来てくれるだろう。

それにしても体に力が入らない、本当に退院しても大丈夫なのか?
そんな不安が頭を過ぎる。

「〇〇さ〜ん」

名前を呼ばれて振り向くと、あの時の看護師さんが立っていた。

「〇〇さん、今日退院ですね。その前にレントゲン撮ってきてほしいんだけど一人で行けるよね?場所分かるでしょう?」

「夜中に先生を呼んでくると出ていって、今戻って来たのか」

そんな皮肉の一つでも言ってやりたい気分になった。

「看護師さんお久しぶりです。今日退院になってますが、トイレまで歩いて行くのがやっとなので一人で行くのは無理ですよ」

「そっか、じゃあ私今忙しいから誰か来させるね」

それだけ言うと看護師さんは部屋を出て行った。

「そう来るのか」

少なくともお世話にはなった。
お世話にはなったが、釈然としない思いで胸がいっぱいになる。

世の中大体こんなものなのだ。
命があるだけでも有難い。

気を取り直して迎えを待った。
しかし、待てども待てども誰も来ない、検査の時間に間に合わなくなりそうだ。

仕方がないのでナースコールを押した。

「はい、〇〇さんどうされましたか?」

「あの、レントゲンの予約時間に間に合いそうにないんです、一人では歩けないのでずっと待っているんですが」

「分かりました、すぐ伺いますから」

それから待たされること20分、やって来たのは看護師さんではない。
看護助手さんだろうか?
服装からはそんな感じがする。

しかし、車椅子はない。

「え?」

全く何も伝わっていないのだろうか?
流石にこれには自分を抑えきれなくなった。

「あの、何も聞いてないんでしょうか?歩いてなんてとても行けません。一人では歩けないので看護師さんにお願いしましたが、何も聞いてないのでしょうか?こんなこと言いたくはないけどあんまりじゃないですか」

「すみません、あなたを怒っても仕方がないのにあまりにも酷くないですか?私はトイレまでの距離を歩くのもやっとなんですよ。それを歩いてエレベーターに乗って、一階のしかも別館のあんなとこまで行けと言うんですか?最初は一人で歩いて行けと言われたんですよ、私に一体どうしろと言うんですか」

押さえつけていた感情が一気に溢れ出た。

「すみません、私行けと言われただけなんです。分かりました、車椅子を持ってきますから待ってて下さいね」

「すみません、ごめんなさい、あなたが悪い訳ではないのに」

「大丈夫です、直ぐに持ってきますからね」

申し訳ない気持ちで心が痛んだ。
しかしもう自分を抑えることができなかったのだ。

その人はなんとなく状況を察してくれたのだろう、直ぐに部屋を出て行くと車椅子を押して戻ってきた。

「こちらに移ってください、大丈夫ですか?申し訳ありませんでした」

「すみません、あなたが悪いわけじゃないと分かっているのに、本当にごめんなさい」

「いいんですよ、仰ることは分かりましたから」

本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
情けなくもあった。

会話はしているものの、声を出すのもやっとなのだ。
それでも一時期に比べたら声が出るようになってきてはいる。

入院するとベッドの上での生活になるので、一週間もすれば筋力低下が始まって足も痩せ細ってくる。

その為心臓の手術を受けた患者さんだって、早い段階から歩行するように指示される。

ただ、今回はダメだ。
どうにもなりそうにない。

前回入院した時も歩くのはかなり辛くなったが、それは三ヶ月近く入院していたからだ。
今回は2週間なのに体全体が痩せ細り、体重も8キロほど落ちている。

これだけ体にダメージを受けたのは人生で初めてだった。

体全体隅々まで、頭の天辺から顔の全部を含めて両足の指先までジンジンとした痛みに包まれている。

足の裏は一歩踏み出すごとに、まるで五寸釘を踏み抜いたような激痛がする。

五寸釘なんて踏んだことがないので例えとしてはおかしいのだが、少なくとも釘を踏んだことはある。
想像で言っているが近いものはあると思う。

車椅子に乗りながら助手さんと少し話をした。

本当は看護助手さんではないのかも知れないが、職種を聞くのもおかしいし、もう考える余裕すらない。
全く医療に関係のない人というのは有り得ないと思うので、自分の中で看護助手さんと勝手に認定することにした。

俺は助手さんらしき人にもう一度謝った。

すると、

「いいんですよ気になさらないでください」

と言った後に、こういうことは結構あると返事が返ってきた。

「え、そうなんですか?」

「ええ、こうゆうことたまにあるんですよ、看護師さんも忙しいんでしょうけど色々な人いますからね」

「さあ着きましたよ、ちょっと待ってて下さいね」

助手さんはそう言うとレントゲン室の受付に向かった。

「そうなのか」

情けないやら悔しいやら、今の自分はあまりにも無力だ。

助手さんの言葉が弱っている自分にとってはあまりにも優しく、そして暖かい。

仕事なのだから当たり前なのかも知れないが、普段人の優しさに触れる機会が少ない自分にとっては感謝でしかない。

レントゲンを撮り終えた俺は、部屋まで送ってもらうと改めてお礼を言った。

助手さんはにこやかな笑顔を浮かべて

「ご自宅に戻られてもしっかりと養生なさって下さいね」

と言うと仕事に戻っていった。

しばらく待っていると、お袋がやって来た。

退院の準備ができたので、ナースコールを押して看護師さんを待つ。

ちょっと間を置いてから看護師さんが書類を持って部屋に入ってきた。
入院中お世話になった看護師さん達の中でも、最後まで一番優しく接してくれた人だ。

不思議なことに嗅覚だけがやたらと敏感になっていた為か、良い匂いのする人と嫌な匂いのする人がいる。

この人からはいつも金木犀の香りがした。
その金木犀の香りがとても心地良い。
匂いというのは人間としてとても重要な要素なんだなと、改めて感じた。

看護師さんから渡された書類に目を通し、一通り退院の説明を受けてから病室を出た。

ナースステーションで挨拶を済ますと、お袋に肩を抱えられながらエレベーターホールに向かう。

情けない話だ、もう少しで80歳にはなろうとしているお袋に抱えられないと歩くこともできないなんて。

そうこうしていると先程の看護師さんが見送りに来てくれた。

「嗚呼、もし看護師さんをお嫁さんにもらうとするなら、こうゆう人ならいいな、多分あり得ないだろうけど」

そんなことを思いながらしばらくボーッと看護師さんを見つめていた。

そして我に返ったように慌ててお礼を言うと、感謝の意味を込めて握手を求めた。

「元気でね」

「ありがとうございました、お世話になりました、看護師さんもお元気で」

エレベーターが音もなく到着した。

お袋がスーツケースを引きずるようにしながら先に乗り込む。

俺はもう一度看護師さんに軽くお辞儀をすると、倒れ込むようにエレベーターに乗り込んだ。


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