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綿帽子 第五話

一向に回復の兆しが見えず、自分のメンタルがかなり弱っていることを自覚はしてはいたのだが、まさか自分があんな風になってしまうとは。

看護師さんだってベテランの方ばかりではない、中堅どころもいれば新人もいる。

俺はもう個室の住人となっていたので、部屋には担当の看護師さんが頻繁に出入りするようになっていた。

というか、頻繁に出入りしなければならない住人なのだ俺は。

そんな俺の担当をしてくれている看護師さんのうちの一人が、定時の検温と血圧測定にやってきた。

昨日と同じ人だ。

昨日はこの人にとってはタイミングの悪い日だった。

たまたま検温に来たその時に、俺は理解不能な発作を起こした。即座に看護師さんに救いを求めたのだが、看護師さんは逆にパニックを起こしたのか、茫然としている。

あまりの苦しさに、早く何とかしてくれ、助けてくれと頼むのだが一向に動こうとしない。

その場に立ち尽くしたままだ。

挙句に「どうしたらいいんですか?」と聞いて来た。

ちょっと待て、

「何言ってんだ、そんな事俺が分かれば苦労はしない、早くしてくれ、早くしなければ俺はまずい事になる」

と、心の声がそう言っている。

一生懸命伝えようと試みてはいるのだが、如何せん何も声にならない。

苦しさと戸惑いと不安がどんどんと俺を覆いつくしていく。

看護師さんはピクリとも動こうとしない。

たまりかねた俺は精一杯の声を振り絞ってこう言った。

「血圧測って、脈を取る!先生に連絡!早くしろよ!死んじまうだろ!」

その声に驚いたのか、ようやく動き始めた看護師さん。

今度は「先生を呼びに行って来ます」と出て行ったったきり戻って来ない。

なんてこった、どうしたらいいか言ったじゃん。

更なる絶望感が頭の中に広がっていく。

一体どれぐらい待っただろう、苦しさに意識を保つのが精一杯だ。いい加減諦めかけて全てを忘れそうになった頃に先生がやって来た。

体を押さえつけられて血液を取られた後はよく覚えてはいない。しばらく経ってから、点滴が一つ増えていることに気づく。

とりあえず生きてはいるな、点滴の針から生じる少しばかりの痛みが生きていることを実感させてくれる。

こんな事をもう何回か繰り返しているのだ。

「昨日のこととはいえ、本人もやりにくいだろうな」

そんなことを考えながら、いつも通りに体温計をテーブルの上に置いた。

そして、看護師さんの帰りを待っていた時のことだ。

突然強力な性欲だけが俺の脳の全体を支配した。抑えられない強力な性衝動に我を忘れそうになる。

何だこれ?

突然のことで自分の身に何が起こっているか全く見当もつかない。とにかく、自分が冷静じゃないことだけは分かっている。

そんな時にまたタイミング悪く看護師さんが戻ってきてしまった。

「お待たせしました、血圧測りますね」

「あ、は、はい」

看護師さんが腕に血圧計のカフを巻く為近づいてくる。

「よせよ、今来られたら困っちゃうよ」

俺は内心気が気ではなかったが、とにかく冷静さを保とうとポーカーフェイスを装った。

「だが、ダメだ」

看護師さんの体から発する女性特有の独特な香りが、強く鼻腔を刺激する。

物凄い欲望の嵐が俺の頭の中を駆け巡る。体の抑えが効かない。

「この女を犯してやろう」

誰かが頭の中でそう叫んだ。誰かっていうのはきっと俺だ。

「痛くないですか?痛かったら言ってくださいね」

と、そんなことを看護師さんに言われたかどうかは定かではないのだが、とにかく俺は必死に耐えた。耐えるしかなかった。

頭の中を駆け巡る強烈な衝動に恐ろしくもなりながら、人を犯すという行為に罪悪感すら感じない自分もまたそこにいる。

俺は何とか愛想笑いを取り繕って、その場を逃れようとした。

「昨日はごめんね、きつく言ってしまって」

「あまりに苦しくて怒鳴ってしまった、悪かったね」

「いえ、大丈夫です。こちらこそすみません。」

ここまでなら会話としては何とか成立しているのだが、

「可愛い」

思わずそう口走った。

何だそれ?ちょっと待て、何言ってるんだ俺は?いよいよ俺はおかしいぞ。

「この女を犯す!」

俺の全身がそう叫んでいる。

どうしよう。

俺は俯いてベッドの脇にある手すりを強く握りしめた。そうしないと自分を抑えられないような気がしたからである。

看護師さんは、流石に俺の様子がおかしいことに気がついたのか、血圧を測り終えると無言のまま俺の部屋を立ち去った。

「良かった」

安堵の溜息をつく。

その日以来俺はその看護師さんに会ってはいない。

一体さっきのは何だったんだろう?女性特有の甘い匂いというか、香りを嗅いだから?

女性ホルモン?

いや、フェロモンか。

これって普段の何も起こっていないような状況なら、誰もが日常的に嗅いだことのある香りで、特に満員電車でも乗ろうものなら否応うなく男女互いに感じ取っているものである。

その香りに千差万別あるけれど、決して直情的な行動に繋がるものではないはずだ。

しかし、今の俺は嗅覚だけが異常に敏感になっている。
その影響もあるのだろうか?

自問自答しているうちに段々と性欲も落ち着いてきた。

良かった、本当に良かった。
冷静に考えてみれば、上半身を起こす事はできても下半身には力は入らず、何より俺の大事な部分は泣きたくなるぐらいに感覚がない。

これならどのみち何も起こってなかったはずだ。自分自身という物を失わなかった安堵感と共に強烈な焦燥感に襲われる。

そんな事してまで生きてはいたくない。

携帯に手を伸ばす。

SNSを開くと、以前ブログを書いていた時に知り合ったネット上の友人が川の写真を投稿していた。

「美しい」

見つめていると、俺の心に溜まった性欲の権化とでも言うべきドス黒い感情が洗い流されていく気がした。

いくつもの連続に投稿された川の写真に、魅入られたようにのめり込んでいく。

一体何処なんだろう?

その夜俺はある事を思いつく。


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