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表現する仕事をずっと好きでいたいから、独立する。

わたしは普段、フリーライターとして活動しているのだけれど、まさか大人になってから、諦めていた学生時代の夢を叶えられるとは微塵にも思っていなかった。


ダンスサークルに明け暮れていた大学時代。わたしの活動時間は専ら深夜だった。日本のストリートダンス文化なのか、練習やイベント(ショーやダンスバトル)は深夜に行われる機会が多かった。

六本木の小さな箱で開かれた「SOUL STREET」、ショーにバトルに熱を上げた「HiJump!!」、生演奏とともに歌って踊る「WE COLLECTION」、全ダンサーが釘付けになる「DANCE DELIGHT」……etc.
デイイベントももちろんあるけれど、舞台に立つまでの練習のほとんどは、深夜に行われた。

右から左へ抜けていく講義を受け終わると、構内練習場へ向かって自主練に励み、サークル練をこなしたら場所を変えて深夜練へ。新宿マイスタジオ、代々木や新宿、高田馬場などにあるstudio worcle、池袋のSTUDIO BUZZは、ダンスの思い出を語るには欠かせないスタジオだ。

着替えやタオル、ドライヤーを携えたカバンを背負って、24時から翌6時までの練習をこなしたら、そのまま大学のシャワー室に飛び込む。冬なのに蛇口を幾度捻っても冷水しか出てこなかった日は散々だった。タオルを忘れて、ハンドタオルで身体を拭いたときも泣きそうになったな。

眠たい目を擦りながら、1限が行われる講義室に向かって仮眠をとる。溜まった疲れがドッと吹き出る日は、気がついたら2限の知らない講義が始まってしまっていることも往々にしてあった。

そんな風に、わたしの大学生活はダンスを中心軸としてまわっていた。大学に通って何を勉強していたのか?と聞かれても、たぶん吃ってしまって答えられない。


一心不乱にダンスを楽しんでいた大学3年生のわたしは、迫りくる「就活」というイベントにあまり興味を持っていなかった。通過儀礼みたいなものとして認識していたので、就活をしない選択肢は頭になかったけれど、とりあえず興味のある分野の仕事に就ければいいやと、砂糖菓子のように甘い視線で「就活」を舐めていた。

ただ興味のある分野といいつつも、不思議とダンスに関係する仕事に就きたいとは思わなかった。
就活を乗り越えていった先輩たちのなかには、ダンサーを目指してスクール講師になったり、そもそも就職せずに「ダンスで食っていく」と歩き出した人もいたりしたけれど、わたしの頭には就職先候補としてダンスの「ダ」の字もあがることはなかった。けれど「ダンス」という一種の「表現力」を活かす活動には、かなり興味を惹かれていた。


ダンスバトルは、その名の通りダンスで勝ち負けを決めるイベントだ。1on1(ソロバトル)、2on2(ペアバトル)、3on3(3名ペアのバトル)など人数はさまざまで、DJが選曲する音楽に合わせて即興で身体を動かす。

バトルに出場するダンサーはステージ上で互いに向かい合い、決まった秒数内で順番に踊り合って魂をぶつけ合うのだ。勝敗は中央に座る審判のジャッジによって決められる。「3,2,1……ジャッジ!」というMCの高らかな声に合わせて、審判は勝っていると判断したダンサー側の手を上げるのだ。緊張に包まれる瞬間は、見ているだけでも心臓が飛び出そうになる。

ジャンルもイベントごとに異なり、フリースタイルバトル(ジャンル不問)の場合もあれば、lock、pop、breakなどジャンル限定のバトルも多く存在している。ジャンルによってDJの選曲やイベントの空気感も異なるから、見ていて飽きることがない。

わたしは突出してダンスが上手く、バトルに強いわけでは全くなかったのだけれど、ダンスバトルが好きだった。見るのも、出るのも、どちらも大好きだった。

振り付けがあらかじめ決められているショーケースも楽しかったけれど、その場の気分で自由に踊るバトルという空間が心地良くてたまらなかったのだ。

もちろん負けてばかりなものだから、悔しさに打ちひしがれることは多かったけれど、DJタイム(バトルの合間やバトル終了後に開かれる自由に踊れる時間)に、先輩や同期と輪をつくって踊り合う時間が楽しくて仕方がなかった。

この頃から、わたしは何に縛られるでもなく、内から生み出されるものを自由に「表現できる場所」を求めていたのだ。

そうしてわたしが選んだ「就職」の道は、表現の場だった。出版社、新聞社、音楽レーベル。世の中にあらゆる表現を生み出し、届ける場所に焦がれたわたしは地元のドトールにこもってアイスココアを嗜みながら、幾度も履歴書を手書きした。

ときには個性を出そうと色鉛筆を持ち出したり、キャラクターを描いたりすることもあった。会社によって指定された履歴書のフォーマットの空欄が大きければ大きいほど、自由度が高ければ高いほど、やる気に満ち溢れて、わたしの思いをどう表現しようかと思考を巡らせた。

しかし就職とは難しいもので。何十社もエントリーしたものの、出版社も新聞社も音楽レーベルも一社もESが通ることはなかった。胸に焦りの色が見えはじめる。ダンスバトルで負けつづける自分の姿が浮かんだ。

どれだけ自由に表現することが楽しくて、そんな環境を望んだとしても、自分が他者よりも一歩でも良いから勝てる要素を持っていないと夢は叶わないのだと知った。「好きなだけじゃダメなんだ」と、わたしは思い知らされたのだ。

それからわたしは川の流れに身を任せるように、たまたま内定を得られたベンチャー企業に入社した。インターネットを舞台にコンテンツを発信している企業で、正直なところ扱うコンテンツへの興味は塵ほどもなかったのだけれど、とりあえず社会人になれるという安心感が優っていたのを覚えている。

流れるままに行き着いた先で、なんとなく生きる日々。
幸いなことに、元より好きだった「書く」という行為を活かしながら、企画・執筆・編集・分析・進行管理まで任せてもらえていたので、コンテンツ制作に関する自由度は非常に高かった。

22歳のペーペーに、こんなにも経験の機会を与えてもらえたことは、当時のわたしにとっては当たり前のつまらない日常だったけれど、今ではありがたく感じている。

けれど、当時のわたしには「自由度」が足りなかった。興味がない分野を取り扱っていることが枷になって、「会社に仕事をやらされている」という思いが強く身体を支配するようになっていたのだ。

もっと自分が興味のある分野で書く力を活かしたい。誰かの役に立てるコンテンツを自由に作りたい。

そうして転職した先では、企画・取材・撮影・執筆・編集・デザイン・進行管理のすべてを任せてもらえる部署に配属された。所謂、広告代理店だったのだけれど、毎日がクリエイティブにあふれる生活は刺激的で愉快で、とても楽しかった。一方で、プライベートの自由時間はどんどん奪われていった。

DJが流す選曲に「fu〜!」と右手を掲げて、何に縛られることもなく、好きに、自由に、踊って遊ぶ自分が頭に浮かんだ。ステップを踏んで、クラップして、自由に動き回っていた手足が突然、重くなる。不思議になって足元を見ると、黒い球状の鉛が鎖で足に括り付けられていて、両の手には「会社員」と彫られた黒い枷が嵌められている。

ズシン、という衝撃を感じたと思ったら、肩に「仕事」という名の鉛プレートが詰まったジャケットがかけられていて、わたしはついに重さに耐え切れず膝をついた。
まわりを見渡せば、みんなは好きに踊って楽しんでいるのに、わたしだけが動けずに取り残されていた。

朝から晩まで、ひたすらに仕事だけをこなす毎日に、わたし自身の自由はどんどん失われていった。

負けている。

「やっぱり、好きなだけじゃダメなんだ」
「勝てる場所で戦わないとダメなんだ」
「自由は勝ち取りに行かなければならないんだ」

思いは一層、強まるばかりだった。

そんな時に出会ったのが現役で東大に合格し、大学院を経て名の知れた大手企業に入社したばかりの彼だった。物腰柔らかく聡明な彼は時間を大切にする人だった。

深夜中、踊りまわるような効率の悪い練習の仕方なんてしない。テスト前に徹夜で勉強することもしない。自身を犠牲にする残業はしない。休みの日に仕事は持ち込まない。ダラダラSNSを見て就寝時間を繰り下げることもしない。

わたしとは正反対の過ごし方をする彼に惹かれるうちに、わたしは「自由」との向き合い方を間違えていたのかもしれないと思うようになった。時間を大切に過ごすということは、必然的に自分を大事にすることでもある。

自由に表現できる仕事をするためには、何かを犠牲にしなければならない、常に剣を抜いて振りつづけなければならない、身を削ることがあっても仕方がない、と思っていた。けれど、違うのかもしれない。

思い返せば、負けてばかりのダンスバトルを、わたしどうして大学4年間ずっとつづけられたのだろう。

そう考えると、たしかに負けて辛い時もあったけれど、それでもバトルが楽しくて好きだったのは、わたし自身がダンスバトルを楽しむわたしのことを大切にしていたからだ。「ダンス楽しい」「バトル頑張りたい」と目を爛々とさせる自分自身の気持ちが、好きだったからだ。

大切にしているからこそ、好きだからこそ、負けて悔しいときは寄り添って背中をさすることができた。稀に勝ち進んだり、負けたけど楽しかったりした日は、一緒になって笑い合えた。

好きなことをできているんだから「多少、傷ついたっていい」だなんて、微塵も思っていなかった。むしろバトルが好きな自分を愛していたからこそ、わたしは自由に思いを身体にのせて表現することができたのだ。

大学生から社会人にあがる過程で「ダンスで自由に表現したい」という思いから「書く力で自由に表現したい」という思いへ、変わっただけ。新しい思いを抱いた自分を、愛せる生き方を選んでみるのはどうだろう。

自分を愛そうと決めたわたしは会社を退職すると、独立の道を選んだ。大好きな表現という分野をずっと好きでいられるように。表現活動を頑張るを自分をいつまでも愛せるように。勝敗に支配されることのない自由な世界に飛び出て、仕事もプライベートも「好き」だけで満たして生きていこうと決めたのだ。

すると、心がパッと明るくなった。チカチカと点滅を繰り返していた電球がエネルギーを取り戻して煌々と輝きだす。
キーボードの上で自由に踊りまわる指輪が、音楽に合わせて自由にステップを踏む過去の私に少し似ていた。



不思議なことに、独立をしてから、わたしの夢が少しずつ叶いはじめた。

「自由に仕事を選べるって、すごい」

もちろん自ら仕事を探さなければならない大変さはあるけれど、心がポジティブに動く仕事を選べる偉大さには感動してしまう。自分のペースを守れることでプライベートの時間も取れるようになり、生活習慣も見違えるほどに整った。

そして気がついたら、あの日、ESが一枚だって通ることのなかった出版社や新聞社と、一緒にお仕事ができるようになった。学生時代の夢が一つ叶えられたのだ。ほかにも会社に属しているときには、絶対に会えることのなかった人との出会いがあったり、経験できるはずのなかった機会に恵まれたりしている。


自由でいたい。内なるものを自由に表現していたい。そして、誰かの役に立つ表現をしていたい。

戦うことをやめて、好きなことを好きでいる自分を大切にするようになってから、ずっと抱いていた思いや夢が叶いはじめた。

こうした出来事に出会うと、大人という時間はとても長いから、まだまだ夢は叶えられるんだ!と、未来にワクワクと期待を寄せてしまう。

日々過ごしていく道が、未来のどんな出来事につながっているのか、想像したって分かりっこないけれど、何十年も歩き続けた末にたどり着く場所は、意外と夢に見た場所だったりするのかもしれないな。

by セカイハルカ
画像 : nonsonさん(色合いからスキ。カワイイ!)
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