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ACT.102『山々の清涼』

少しだけの身延線

 列車の時間に間に合わせた身延線の乗車は、無事に間に合いそうだ。
 南甲府駅まで走り気味に向かって列車を繋ぎ止め、そのまま再び甲府に戻る。昨日と今日だけで、どれだけ甲府と山梨の地点を往復しているのだろうか。数えたらキリがない気持ちにさせられる。
 少し早めに戻ってきた矢先に、313系電車が留置線に待機しているのを発見した。
 中間車両を挟んでいるこの編成は、夕方・朝ラッシュの一部時間帯に走行し、輸送を援護する強力な存在だ。
 朝夕の仕事に駆り出されない時には、こうして甲府駅に近い留置線に滞在している。
 さて、身延線は両端…富士方面・甲府方面で本数が拡充されているとはいえ、その数は決して多くはない。
 この南甲府も、列車が1本行って仕舞えば次の列車は1時間先という事もザラであった。

 少しだけ待機していると、奥の踏切が鳴動した。甲府行きの列車が入線する。
 先に停車し、進路の開通を待っている富士方面の列車が行き違いの為に待機していた。2つの列車をフレームインさせ、行き違いの中の空間を無理矢理演出させる。
 丁度。富士方面に停車している列車は鰍沢口を離れて更に先、富士まで完走する身延線の長距離ランナーだ。
 12時11分に甲府を発車し、最終的に富士に到着するのは15時を回る。充実したローカル線の旅が楽しめる事間違いなしの列車だ。
 自分も1回だけこの列車で身延線の縦断に挑戦した経験があり、腰が痛くなる体験をしている。
 行き違いにやってきた甲府行きの電車には、多くの地元客が乗車していた。中には旅人かと思しき大荷物の乗客もいたのだが、そういった乗客は疎であった。
 鰍沢口までは山梨交通のバスも競合し、交通の要となっているのだろう。

 再び、甲府に到着した。
 山梨県に上陸した時と同様、多くの乗客が吐き出されてくる。
「ありがとうございました、終点、甲府、甲府です…」
駅員の声が高らかに響く。
 夏を彷彿させる暑さにも負けない鉄道員の声が、晴わたる青空に消えていった。
 甲府に到着し、人垣に飲まれつつ横に停車していた列車を見た。
 身延線と静岡を繋いでいる、特急列車『ふじかわ』である。国鉄時代は急行『富士川』として国鉄から継承した急行型電車で運用され、JR化後に登場した373系との交代にて特急に昇格。その後、現在の平仮名愛称になる『ふじかわ』を授かった。
 強い日差しの中、キラキラと互いの銀色の側面が光を跳ね返す。
 少し離れ小島になっているJR東海の身延線ホームだが、しっかりと会社の個性がが主張している。

 離れ小島のようになっているJR東海の身延線ホームの横。JR東日本は中央本線のホームから、発車メロディと共に紫を主張させるロボットのような特急電車が走り出した。
 あずさ・かいじ…で大活躍をし、既に登場から5年以上が経過した甲信越優等列車のエース、E353系だ。
 列車はこれから新宿に向かって走り出すところだろうか。細目に切り取られた前照灯が変わらず印象的だ。ガタンっ!ガタタン!!とジョイントサウンドを掻き鳴らして、列車は東京の街並みを目指し駆け出していった。

 E353系による特急列車が、大きな音を掻き鳴らして。甲高い走行音を春めく甲府の街並みに消して走り去る。
 分岐器を跨いで、本格的な加速に入った。
 E353系による特急あずさ・かいじは最長で12両編成にもなる。関東のJR特急の中では、随一の長さを誇るだろう。
 今回は撮影をしそびれてしまったが、身延線のホームに『ふじかわ』が停車している際にはJR東日本・JR東海の特急車両が共演する鉄道ファンにとっては見逃せない面白い時間となる。
 ホームは互いに離れてしまう為、記録には少々難易度が上がってしまうが、互いのJR特急が登場からどれだけの年数を経ているのか。どのようなデザインセンスを秘めているのか。考える面白い時間である。

涼をちょうだい!!

 あまりにも暑かった。
 本当に暑かった。気温はどれだけになっただろう。自分の手元で測るのも億劫だったので、予想の世界になってくるが完全に20度以上は行っていたのではないだろうか。
 う〜ん、日本は年々気温が上昇する国になってしまったなぁ。
 さて、甲府での昼食としたが少しだけ待機していると、次の目的地に向かって乗車する松本方面の小淵沢行きの時間がやってくる。
 暑すぎて考えるのも辞めたくなる気温の中。オアシスのようにして見つけたざる蕎麦の文字。
 甲府駅の改札内。NewDaysの横にあった蕎麦屋で食事にした。次に乗車していく小淵沢行きの時間も考えて…になってくるが、手軽に食せるざる蕎麦は簡単に涼しい食事を摂取できてかつ喉越しも良い。先人…江戸時代の頃の皆さんの知恵には感謝だ。
 縮れた麺を軽く掬って吸い込み、感触を喉に叩き込む。
「はぁ…涼しい…」
提供速度といい、手軽な食感と喉に伝わる感じといい、本当にこの急場凌ぎの手段があって助かった。
 ワサビを効かせたつゆまで飲んで、店を出る。
 お値段、450円と値段も優しい。

 ざる蕎麦は食べ終えたものの、まだ何処かに胃の空いた違和感を感じる。
 なのでホームに降りて、再びNewDaysへ。チョコ菓子と飲み物、そして菓子パンを買って次の列車に乗車した。
 松本方面、普通列車の小淵沢行き。
 車両は変わらず211系の信州帯。
 本当にこの車両に乗車していると、
「今自分は甲信越を旅しているんだ」
という感覚を思わせてくれる。乗り換えた先の211系はクロスシートのボックス席車両だった。小走り気味にホームを歩いて、空きの座席を探して着席する。

 列車は発車メロディの鳴動後、車掌の手際良い準備を経て甲府を発車する。
 再びこの駅に戻ってくる時は、どういった空模様になっているのだろうか。
 重いモーターサウンドを唸らせ、車掌のアナウンスが車内に響き渡る。自分は肘を寝かせて腕枕に顔を埋め、外の車窓を眺めている。
「ご乗車、ありがとうございます。普通列車の、小淵沢行きです…」
グォォォォ…と掻き鳴らすモーターサウンドが眠気のある内臓に心地良い。
「次は、竜王、竜王です…」
甲府の街並みがどんどん離れていく。
 この先の駅は、列車が停車してもドアはセルフでボタンを押しての開扉となる為、停車してもかなり静かな状態になる。
 この先は車掌の操作も殆どなく、車内は静かなままだった。自分はいつしか眠りのリズムを刻んでいる。流石に甘いものまで食っちまったらなぁ…
 既にホームで買った菓子類は既に胃の中だ。
 駅は竜王、塩崎、韮崎、新府、穴山…と数を数えていく。自分はどこまで数えただろうか。

高原の果て

 車内放送が鳴り響く。
「まもなく、小淵沢、小淵沢…終点です…」
「あぁ、もうそんなところまで来てしまったか。早いなぁ…」
そういえば、甲府で時刻表を見た時の事を思い出す。
 この先は更に列車が減っているはずだ。
 甲府から松本まで乗って貫こうと思えば、やはり特急列車一択なのだろうか。松本まで直通する都合の良い列車は、中々走っていない。
 列車を降車して、駅の外に出る。
「すいません、下車印…」
駅員とのやり取りも済ませて、見えた景色がコレだ。
 なんたる綺麗な風景。
 これが駅の改札口の近くから見えるのだから、流石は高原の最寄駅。
 この駅には、日本一標高の高いJR駅…を持つ『野辺山』駅を路線に持つ小海線も乗り入れている。
 この風景の向こうには、ストリートピアノ。
 小さな女児が、一生懸命に『猫ふんじゃった』を演奏していた。
 演奏が終わって、自分が拍手。
 親子の間に暖かい空気が流れた。

 山梨県は、北杜市。
 この場所に実は蒸気機関車が保存されている。
 その蒸気機関車に会いにいくのだ。
 しかし、場所がなんせ離れていて分からない。観光案内所を訪問する。
「すいません、この辺りにSLいませんでした?」
「SL?…あぁ、小学校のかな?」
「そうですそうです。」
汗混じりに、「その目的です」と申告するような回答をする。
 やり取りに応じてくださったのは中年女性の方だった。オフィス区画に仕切られた観光案内所の中で少人数、頑張っている。
「でしたらですね、この道を…」
北杜市の周辺、小淵沢駅のマップに赤いサインぺんで順路を記してくれる。順路を教えてくださったお礼をして。観光案内所を出発。
「そうだ、SL目当てなんでしょ?」
「はい、そうなんですが…」
お?なんだろうか。
「小淵沢の他にもね、茅野にSL居るよ!」
「あ〜すいません、そっち既に行きまして…」
「あっ、そっか、行ったんだね…」
御足労、申し訳ございません、それでは散策へ。

カゼガフク

 北杜市のマップを頂き、そのまま従って歩いていく。
 駅前には多くの商店が坂なりに並んでいる。昭和の日本の主要駅の駅前のイメージを考えると、
「あぁ、特急列車の停車する駅ってこんな感じだったのかぁ」
と想起させる日本の古来のターミナルの空気が続いている。
 坂なりに続いている商店は、どれも営業している。シャッターが下りている店も少ないのは、この周辺、北杜市が栄えている事への証であろうか。種苗屋さん、本屋さん。様々な店が営業している。そして、どれも良い感じの日本家屋…昭和らしさがあるのだ。
 もう少しこの周辺に関しては見ておけばよかった。今となっては少し早く歩きすぎた後悔である。
 写真は、そんな歩き出す前に撮影した小淵沢駅の裏に見える風景である。
 雄大なアルプスが見守る、のどかな駅だ。

 北杜市の街並みを抜け、山間の駅から続く道を歩き続ける。
 しかし…
 風が強すぎる。寒いというより本格的に突風が身体に叩きつけてくる。
「おぉぉぉぉい!!大丈夫かいなコレはぁぁ!!」
既に北杜市の巡回にと頂いたマップは折り目から風に切り裂かれて破れており、畳めば更にビリビリが進行しそうな勢いであった。
 写真はそんな北杜市を歩いている最中の記録。
 本当に駅を離れると、山間の集落という言葉がかなり似合う。開けた風景に、山々の風景と自然の清涼さ。感じて歩いている時間が非常に楽しい。
 しかし…叩きつける風にはどうにも逆らえない。

 少しだけ歩いていくと、富士山の姿が見える。
「こんな場所からでも富士山が見えるものかぁ…」
改めて富士山の巨大さを知り、県の四方八方から見える象徴の大きさに圧倒される。
 しかし、赤ペン入りのマップを眺めていてもなにかしっくりこない。
「あ、あれぇ…?どこにあるんやろか…」
どうにもしどろもどろして進まない。
「こっちちゃうよなぁ…」
同じような場所をクルクル回っているような感覚にさせられる。
 もしかすると、入る道を一筋間違えたか。
 下る場所を少し勘違いしただろうか。
 そして遂に…黒い物体を発見した。
「あぁ!!おった、これだぁ…」
ようやく目的地に到着した。この感覚を吸収する為に、自分は保存車の旅をしているのだろう。

高原列車の学び舎

 特徴的なバックテンダーを背にして、その車両は停車していた。
 蒸気機関車、C56-126。
 かつては小海線で活躍した蒸気機関車で、高原のポニーと呼ばれ多くの鉄道ファン、長野県民・山梨県民に親しまれた。
 保存場所の小学校に続く坂から、この蒸気機関車の姿が目に飛び込んだ瞬間は本当に声が出そうになるくらいの喜びであった。
 どれだけ汗をかいて春めく山道を歩いただろうか。
 しかし分かりづらい場所にいるものである。

 蒸気機関車は、学校の縁の方にへばり付くようにして保存されている。
 もし大きな災害が発生するか、自然の脅威に負けるような事があれば真っ逆さまに崩落してしまいそうである。
「よ、よぉこんな場所に設置したなぁ…」
この車道に横断歩道はない。
 車に警戒して通りが止むのを待つ。
 自動車のサァァァッ…というタイヤの音が上下線消えたのを耳の奥で確認した瞬間に渡った。
 それではこの蒸気機関車を見ていこう。

 到着…でもなんだろう。
 写真で存在を知った時よりもかなり松が…緑が鬱蒼としていて非常に苦しい感覚を思う。
 除煙板(デフレクター)も少しだけ塗装が剥げているのを確認してしまうと、どうもこの保存環境に不安を感じてしまう。
 姿が見えないので、少し裏手に寄ってみよう。
 ただ、この場所。学校の正門に近い場所にあるので紛らわしい構え方だけはしないように気を付けたいところである。

 反対側。
 松などの緑を回避して撮影した姿である。
 この方がかなり見栄えが良い。実際、学校に面している事も考えるとこの場所を重視しての保存となっているのだろうか。
 少しカメラの設定を弄っておけば、それなりの仕上がりの良い写真が撮影できた。
 背景を少し白くして、黒を強調させる。
 これで実際、良いのかもしれない。

 特徴的なバックテンダーの周辺には、こうした説明の板も設置されている。
 学校の校舎側に設置しているという事情から考えても、どうやらこの蒸気機関車は学校の教育資料としての保存を想定しているのかもしれない。
 詳しくの観測は非常に難しいが、蒸気機関車の動力に関しての説明、この機関車の歩んだ道のり、蒸気機関車の動力の起源。そして機関車の付番方式などが記されている。
 しかし、木材で生成された簡易的なもの?なのだろうか、現在は脆く朽ちそうな状態なのが非常に苦しいところだ。
 いずれかの更新や整備を待とう。

 それにしても、重装備が非常に目立つ蒸気機関車だ。
 小柄な車体に、集煙装置と雪除けのスノープロウ。山岳と耐雪に向けてのダブル装備は、見ていて圧倒されるものだ。
 特に、この蒸気機関車、C56形はタンク式機関車であるC12形とテンダー部分を除外すれば全く同じような大きさ。それ故にこの蒸気機関車の装備している重装備な備えがよく分かる。
 ただし、感じるところとしてはナンバープレートである。
 写真での事前リサーチでもこの部分に関しては非常に首を傾げてしまう部分であり、このヶ所がしっかりと現役時代同様のナンバーであればどれほどこの重装備が映えただろうかと苦心してしまう。
 もしかすると、北杜市の遺産として、宝として大事に保管されているのかもしれない。こういった物品に関しては盗難の対策に敢えてレプリカを被せている事があるのでその類ではないだろうかと信じたい。

 重装備の中でも、特に目立つのがこの装備ではないだろうか。集煙装置。
 この装置を装備しているのは、主にD51形にC57形と大型の機関車が多いのだが、その中でもC56形が装備しているのは全国探してもこのC56形だけなのではないだろうか。
 とりわけこの装備されている集煙装置に関してはカクカクした形状をしており、全体的に鋭利で締まった形状になっているのも特徴ではないだろうか。
 集煙装置はこの蒸気機関車が活躍した路線の1つ、大糸線の独自の集煙装置だ。
 この集煙装置は長野工場のモノであり、全国の工場毎に様々な形態が存在している。
 この集煙装置は、トンネルの多い山岳地帯を走行する為には必須の装備。
 煙突に被せて、煙を逃し少しでも機関士が操縦する部分…キャブに煙が流れないようにする工夫をしているのだ。

 無理矢理になるが、学校の校舎と一緒に。
 背景には南アルプスの聳える肥沃な自然も映え、高原の麓に滞在している事を思わせる。
 少々見にくい状況なのは妥協点として。
 このC56-126が歩んだ道を振り返ってみよう。
 まず、C56-126は当初、北海道で活躍した。最初の昭和12年に登場した際には岩見沢に配置された。そして、昭和16年には深川に異動する。そして、ここからが非常に面白い。
 この126号機はC56形の中でも随一の転勤族であり、タイ・ビルマに軍事供出されたC56形がいる中でも面白い活躍をした。
 昭和16年からの深川を離れると、北海道を離脱して海を渡った。その先は同じ昭和16年の8月、薩摩大口だ。北海道から九州へ。果てない距離の転勤である。
 その後、昭和24年には鹿児島に異動。九州内でも大きな転勤となる。同年の12月には宮崎の延岡に異動した。そして、この北杜市の周辺にやってきたのがこの時の間近だ。
 昭和26〜27年の期間、飯山にやってきたのだ。この機関車にとって、初の高原暮らしとなる。
 この時期に長野式の集煙装置を装着したと推測され、現在の重装備に繋がっていると推察される。
 昭和39年には松本へ。新幹線が東京と大阪を3時間で結ぶ世界初の大偉業を達成している間も、この機関車は山の中で生き続けたのであった。

 翌年の昭和40年には、上諏訪に異動する。
 そして、昭和47年には長野へ。多くの蒸気機関車が動力近代化の接近を目前として引退していく中、全国を駆け抜けた高原の蒸気機関車は働き続けた。
 そして、最後の転勤先がやってくる。
 昭和48年の浜田。この浜田への転勤が最後の務めになった。この際には飯山線・大糸線などで活躍した際の装着部品である重装備の姿はそのままに、島根県の大地に煙を吐いてただ走ったのである。
 そして、引退の時は昭和50年である。最後の転勤の地、浜田で廃車を迎えたのだった。奇しくも北海道の追分機関区で蒸気機関車の落城があった年である。
 そして、この山梨県は北杜市の小学校にやってきた。高原暮らしはたった数年程度であったが、北海道から九州、最期の山陰まで。全国を走行したC56形であった。

 C56-126が保存されている小学校の全景。
 アルプスの山脈の下、洗練された白い校舎が映えている。
 京都の街中で少年時代を過ごした自分にとっては、こうした学び舎を見かける事が何か1つ。失った青春の破片を拾ったような気持ちになる。
 蒸気機関車は、今日も学び舎に足を運ぶ少年少女を見守るだろう。
 こんな学び舎で過ごせたら、どれだけ楽しい思い出になっただろうか。

名機、C56

 C56形…というのは、現在でも蒸気機関車ファンの間にて『シゴロク』と呼称される鉄道ファン、SLファンにはお馴染みの蒸気機関車である。
 かつて。もう数年前だっただろうか。JR西日本でもそんな『シゴロク』のラストナンバーであるC56-160を維持・管理し。北陸本線の米原→木ノ本にて本線運転の動態保存をしていた。(現在は京都鉄道博物館にて構内運転保存)
 そうしたC56形は、この小淵沢周辺。とりわけ小海線沿線では最大の親しみを以て語られている蒸気機関車だ。その理由は何処にあるだろう。

 それは、この蒸気機関車が八ヶ岳に映えた『名優』のような存在であった事が挙げられる。
 小海線は、長野県の小諸と山梨県は小淵沢を結ぶ高原のローカル線だ。八ヶ岳の雄大な自然の中を行くこの蒸気機関車の姿は、多くの鉄道ファン、写真家の心を打った。
 そんな路線で、C56形は旅客列車の先頭に立ち。時には貨物列車を牽引して、沿線の発展を支えたのである。
 小海線から蒸気の棚引く煙が消えたのは、昭和47年の話である。八ヶ岳で旅人の足となり。重い荷物を引いて上り下りをし。この高原で小さな蒸気機関車は愛されたのであった。

※小海線は標高の高い八ヶ岳高原の近くを走行するJRの路線。起源は私鉄の『佐久鉄道』を国が買収した事に始まるが、天空付近を走る鉄道の姿は多くの人の心に刻まれた。

 小諸から小淵沢までは、全長80キロ程度。
 その中で小海線は、JR内『標高の高い駅ベスト9』を独占している。国鉄時代からこの記録は破られる事がなく、文字通りの『高原列車』なのだ。
 しかし、何故この高原の路線にC56形という小形な蒸気機関車が活躍したのだろう。その中には、路線の特殊な背景が存在した。
 それは『線路の企画が比較的弱い』という欠点の中にある。単価の低い状態で敷設された鉄道の足並みが、後の機関車の運用に重くのしかかってきたのだ。
 小海線は急勾配のある路線なのだが、その規格の低さから重量を有する大型機関車の入線は難しい。
 そうした状況の為、機関車には『小型ながらも力も兼ね備えた』C56形が充てがわれた。
 C56形は小柄ながらも、炭水車を連結した『テンダー機』。長距離走行・重量級列車の牽引に備えた機関車である。
 この先代に、C12形という蒸気機関車が存在している。その蒸気機関車とは、完全にテンダー車が連結されていない事だけを除外すれば完全に兄弟レベルになるのだがその話は後ほどしていくとしよう。

 写真を小淵沢に戻して、C56形の本格的な話に移行しよう。
 C56形には、何度も記しているように長い航続距離での長距離走行を測って、水と石炭を積載した車両を分離する『テンダー機関車』の方式が採用されている。
 このテンダーをよく見てほしい。
 切り欠きが特徴的である。
 この切り欠きは、簡易線。ローカル線に於ける『長距離運転』への可能性を以て製造されたこの蒸気機関車の個性である。
 かつての簡易線などのローカル線では、蒸気機関車を方向転換させる為の『転車台』が存在していなかった。場所がない、設置できないなどの要因で見送られた場所での折り返し運転は機関車を逆方向に連結し、バック運転でそのまま来た道を引き返したのである。
 この『バック運転』は主にタンク式の蒸気機関車で行われた。しかし、このC56形はテンダー式。バック運転にてそのまま折り返そうにも、テンダーが邪魔をして後方が見えない。

 という事で開発された…工夫に盛り込まれたのが、
『テンダーの端を削って視界を確保する』
という策なのであった。
 こうしてバック運転の視界を確保しておけば、蒸気機関車という折返しに難儀する特殊な車両でも容易に折り返しのバック運転が可能になる。蒸気機関車の可能性を目論んで開発された秘技であったのだ。
 この簡易的な構造もローカル線で受け入れられる理由となり、多くのC56形が各区所に配置されたのであった。

伝える悲運

 改めて、C56-126を小学校の校舎と併せて記念撮影だ。
 この写真ではC56形がシルエットになってしまうが、それもまた写真の場所、醍醐味として。
 写真でも分かるように、この場所はかなりの坂が付いており実際に機関車に接近する際もかなり足腰に来たのであった。(20代の若者で言うなし
 改めてになるが、この蒸気機関車の存在が北杜市の少年少女たちの心に刻まれますように。
 さて、このC56形。126号機…ではないのだが、その仲間には大きな悲運が存在する。

 昭和16年。C56形蒸気機関車に大きな転機がやってきた。
 小型軽量。かつ、転車台を必要としないバック運転の可能な蒸気機関車として、日本軍がこのC56形蒸気機関車に目をつけたのであった。
 そして、1号機から90号機をタイのレール幅。1000ミリのメータゲージと呼ばれる軌間に変更し、他にもブレーキ類や連結器の交換などを実施してタイ・ビルマに送り込んだ。俗に呼ぶ『軍事供出』である。
 昭和17年のビルマ・インド侵攻作戦の陸上資材補給を目的にして415キロの鉄道として建設された泰緬鉄道の主力機関車として活躍していたのだ。
 こうした活躍、タイでのC56形に関してはまたいつか…
 高原に映えたこの美しい蒸気機関車が戦争に利用された事を、我々は忘れてはならない。
 再び校舎を戻って、車通りを耳で確かめ道を渡り、小淵沢の駅に戻ろうと引き換えしたのであった。高原の蒸気機関車と共に、アルプスの自然を身体に浴びた鮮烈な時間は過ぎようとする…

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