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「関心がもてない」なぜ人は物事に関心をもつことができるのか【前編】

『テーマを語ります』シリーズに寄せられるコメントやメッセージが嬉しすぎて何度も言葉を読み返してしまう猫目です。皆さん。こんにちは。そしていつも訪れていただき、ありがとうございます。

 嬉しいコメントやメッセージを頂くたびに心が躍ります。しつこいですが本当に嬉しいです。会話をした心地になり有頂天です。画面の前のあなたの声を聞くことができる。そのことは大きな意味をもちます。猫目はそのためだけに書いています。本日もそのためだけに書かせていただきます。

 今回のテーマをくださった方は……すこし変わったひとです。元映画助監督のjさんです。かっこいいです。ご多忙な方です。同い年です。同い年の彼の名前をある映画のエンドロールに見つけたときの悔しさといったら(嘘です。感動しました)、当時の猫目を一週間寝込ませるダメージを与えました(嘘です。インフルエンザでした)。
 はじめて彼と出会ったとき、「声がでかいから嫌い」とご指摘いただきましたこと、まるで昨日のことのように思い出されます。先日お電話をしたときは「知識をひけらかすところも嫌いだった」と告白され、なるほど、反省しております。皆さん。あたらしい知識を得たからといってその知識を得意そうに豪語するのはやめましょう。

 またも前置きが長くなってしまいました。では本題です。今回のテーマは非常に非常に非常に難しく興味深い。猫目は『なぜ人は物事に関心をもつことができるのか』という議題に強い関心を抱いております。ちなみに今回は長くなってしまいそうですので『前編』『後編』わけてお届けしていこうと思います。本日も頭の体操どうぞよろしくお願いいたします。


関心と興味は同じ?

 ふと疑問に思ったことがある。関心と興味の言葉の意味合いについてだ。関心とは何か。それは「知りたい」という積極的な気持ち。ある物事に心を惹かれこと。注意を向けること。ナニカに心が惹かれる(動く)ことが関心ならば興味も同じ意味なのか。これら二つの言葉は非常に類似している。興味とは、物事に感じる趣き(味わい)やおもしろさを指す。

 関心も興味も、心が動かされることに変わりはない。なぜここで改めて「関心」と「興味」の差を取りあげたのか。それは今回テーマをくださったjさんの「関心がもてない」の言葉にどこか引っかかりを覚えたからだ。「興味がもてない」と言うならば「なるほど。たしかに興味のない事柄には心も動かないだろう」と、思考の方向性がある程度さだまる。

 しかし「関心がもてない」と言われたら、その定義はうんと広くなる。つまり関心は物事のみが絡んでいるという簡易的な状況では無く、物事以上に人の心理が関係している。もっと広範囲にとらえるなら環境そのものが関与している可能性がある。ここで猫目が感じたことは「興味」よりも「関心」という言葉のほうが重たいことである。重圧を感じる。

▼たとえば「僕は経済に関心を抱いている」というのと、「僕は経済に興味をもっている」というのでは少し捉え方が違う。

▼「Aちゃんに興味をもっているんだ」と友人から聞くと、なるほど。Aちゃんに恋をしているんだなと思う。が、「Aちゃんに関心を抱いている」と言われると恋などでなく、なにかAちゃんの人生観そのものに心を動かし、惹かれているように思われる。とはいえ、関心も興味もその意味合いはさほど変わらない。先ほども言ったようにどちらも心が動く状態なのである。

「物事に関心をもつことが出来ません」

 はたしてjさんは何に関心がもてなかったのだろう? 「物事に」と書かれてある。そうだとすると特定のナニカに関心が持てないのではないだろう。特定の物事でなければ何だろう。それはやはり、広範囲にわたる不特定の物事すべてに関してのことを指していると思われる。「何事にも関心がない」とまでは言っていないが、何事にも関心がもてないとは言い換えるなら「無関心」に近い状態のではないだろうか。そうなると。

 広い定義での考察が必要となる。まず関心の作用について見ていこう。関心の作用とはまさに「心の動く」作用のことである。心の動きが無くては物事に惹かれることもない

 では心が動く瞬間とはどのような事柄が挙げられるか。それら対象や場面は実際にたくさんあるだろう。新しいモノや発見に心が動く。対象に魅力を感じて心が動く。感動して心が動く。ショックを受けて心が動く。ある人物に好意を持つことで心が動く。

 私たちは、生きているというそのことだけで非常にさまざまなことへと心が動く。心の動きが強まり、心を惹かれるようになると、それを関心を抱くと呼ぶようになる。興味をもつと言うようになる。これら対象は「時間」や「場面」さらには「人物」と多岐にわたる。

 そのどれもに関心を抱くことが出来ない。そうなるとかなりの苦痛を感じてしまう。そこで次に、関心をもてない理由についても考えてみる。

関心をもてない理由

 関心をもてない理由とはいったい何だろうか。2022年。令和の時代にそれは潜んでいる。よく鬱病の患者さんが「これまで興味のあったことに対して突然興味をなくす」と聞く。

 ここではそういった患者さんに焦点をあてて推察したりはしない。そういうことは専門家でないと難しい。しかしそういう患者さんでなくとも私たちはふいに、ほとんど突発的に関心を抱けなくなり、興味をもたなくなることがある。今回はそういう抽象的な視点で考えていきたい。

あふれ・ありふれ

 まずは今の日本(先進国のほとんど)に物が溢れているという事実に目を向けていきたい。私たちの日常に物はたくさん溢れている。そして、そういう状況は至るところにありふれている。スーパーへ行けば夕飯のおかずは大抵見つかる。スーパーでなくともコンビニでも最近では青果や精肉などが当たり前のように棚に陳列されている。

 百貨店へ行けば人より物のほうが目につく。あきらかに多くの商品が目の前にあふれている。下手をすれば一階フロアに車だって販売されている。ペットショップのショーウィンドウでは可愛い子猫や子犬に出会うことができる。とにかく身のまわりに物が溢れている(猫や犬は個人的には物と認識していない)。こういう状況に慣れてしまうと自然と関心は薄れていく。なにしろそれらはフツウの光景なのだから。

▼ここで祭はいい例だろう。祭は物も多いが人の数も多い。そして年がら年中祭りが開催されているわけではない。夏になれば盆踊り大会がある。秋は収穫祭があり、冬には雪まつりがある。春には桜まつり。季節それぞれに祭りはある。しかしそれらは日常からかけ離れた、なにか幻想的な雰囲気を醸し出している。なぜだろう。なぜ祭りは心がウキウキするのだろう。

 もしも祭りが毎日のように開かれていたら?
 きっと私たちは見飽きてしまうだろう。慣れてしまうからだ。きっと七日目には祭りに行かなくなる。昨日も行ったからいいや、となる。

 このように日常の光景や情景は慣れによって珍しくもなんとも無くなる。普通であってどこか退屈な光景でもある。これが「ありふれている」という状態だ。

 物だけではない。体験する場面や時間でさえもありふれている。このあふれ・ありふれている状況に心を動かすことは容易でない。これが1つ目の「関心をもてない理由」であると考える。

自由の窮屈

 自由の囚われになることも同じである。自由と聞くとなにか解放感や快楽のイメージが強い。自由に囚われるなど矛盾しているではないか? 自由っていうのは強制や拘束の無いことを指すんじゃないの? と、そう思うだろう。その通りである。しかし過度の自由こそ、私たちから関心や興味を奪おうとしている窮屈な自由なのだ。自由とは何も妨害や障害のないことを指す。自分の思うままに振る舞うことができることを言う。

 つまり、そこに何のルールもない。

 人はルールを敷くことで多少なりとも不自由を感じる。完全な自由で無くなる。一つの不自由もない自由の中に置かれることで、私たちは安心しきっているのだろうか? きっとそうだろう。安心しきっているのだろう。となると、これはかなり退屈ではあるまいか? つまらなくはないか?

 完全な自由の中でひとの心は動きにくい。心の動きそのものが鈍くなる。完全に自由なのはずなのにどこか心がポカン、無表情である。この自由こそ最大の脅威なのだ。とりわけ心の作用にとっては害すらきたしている。

 不完全な自由についてもお話したい。

▼学生時代とくに高校や中学において、私たちは不自由を感じていただろう。窮屈を感じていただろう。なにしろ学校にはルールがつきものである。しかもルールの多いこと。そういうルールを守るのは認識としては当然のことだったと記憶している。

 ではルールを破ったらどうだろう? なにかの拍子にルールから逸れたら? そういうとき、私たちは、どこか自由になった気持ちがしなかっただろうか。しかしそれは完全な自由ではない。不自由の中の自由に過ぎない。にもかかわらず、私たちは自由を感じる。

 とてつもない自由の中に羽を伸ばし、優雅に飛んでいる。飛んでいた気分になる。不自由から開放され、自由を手にする心の躍動を感じる。決められたレールから逸れて心が大きくゆれ動いたことだろう。

 以上のことから言えること。それは、不完全な自由の中では退屈を感じない。なぜならいつでも何かしらの不満を抱いているし、立ち向かいたいと願っているからである。退屈している場合ではない。発展途上にあるもの。つまり未来のあるもの。「これからだ」という期待があってこそ、心は大きく作用するものだ。

 不自由には自由が眠っている。自由を期待することができる。しかし完全な自由とは途方もない広さを有しているがために、なにをどうしたらいいのか、さっぱりである。むしろ自分が自由の中にいることさえも忘れてしまう。

 場所や空間に余裕があるにもかかわらず心はうまく動き出さない。その結果として自由という空間に窮屈を覚える。こういう自由の中では退屈から逃れるために無理に関心ごとを探そうとする。興味を持てそうなものを見繕うことに必死である。

 ひとは完全な自由よりも不自由であることのほうが心の動きは活発になる。そう思わずにはいられない。つまり、自由であるがために心の動きは鈍くなってしまう。そうなると関心を抱くことが難しくなる。これが2つ目の関心をもてない要因である。

自分ごと・他人ごと

 最後3つ目は「自分のこと」と「他人のこと」について。他人事とはご存知のとおり、自分に関係のない事柄のことである。いっぽう自分事とは文字のとおり、自分に関係のある事柄を指している。

 人はどうしても自分を中心に考え、生きている。これは本能である。「自己中なヤツ」とは、その比率にあると思っている。自己中心的な思考や行動の割合の多い人が自己中としてしばしば話題にあげられる。

 ともあれ、人はみんな自分中心に物事をとらえている。当然といえば当然である。意識が自分の中に存在しているのだから。自分の目を通して紫陽花を見るし、自分の口を介してラーメンをすする。自分の耳でカラスの鳴き声を聞いているし、自分の頭で物事を考え、判断、決断をしている。私たちは自分を中心として環境をつくりだしている

 だから自分に関係のない他人事には興味も湧かない。反対に、自分に関係のあることには積極的に耳を傾ける。イギリスの心理学者コリン・チェリーの提唱する『カクテルパーティー効果(※)』とは、まさにこれら自分事と他人事との隔たりを具体的にあらわしている。

 つまり何が言いたいか。

 人が何かに関心を抱くとき、その事柄は、常に自分に関係のある「自分事」に限られている。と、そう言いたい。

▼良い例がある。電車や駅で見かける広告コピー。あれは単純に文字を彩ったり、その形態に凝ったものではない。キャッチコピーライターの方が「どうすれば一人でも多くの人に読んでもらえるか」「興味をもってもらえるか」を、考え考え考え抜いて生まれた言葉であり、文章である。

 どういうことか。

 先ほども述べたように人は自分事でないと興味も持たない。つまり他人事と感じた文章は、多くの人の目をスルーしてしまうということだ。なかなか厳しい世界である。あわただしい通勤時間にふと目を向けたコピーの文字に心が動いたら、次のステップへと踏み出せる。読んでもらえる。興味をもたれ、関心を抱いてもらえる。たった一文や数文字で人の心を動かせるのだからコピーライターには頭があがらない。

① 日常にあらゆる物があふれ・ありふれていることにより、それを普通と捉える。そのため心は動きにくく、関心を抱く可能性は薄れる。
② 完全な自由の中で心の動きは鈍くなる。
③ 自分事でない限り、そもそも人は関心を抱けない。

 以上の3つが関心を抱くことのできない理由または要因である。

※ カクテルパーティー効果とは
パーティーなどの場所で多くの音の中より自分が必要・重要としている情報を会話などの中より無意識に選択する脳の働き。

矛盾点

 物事に関心を抱けない。または興味をもつことができない。だから関心ごとを探しに行く。興味をもてそうなものを見つけ出す。・・・でもこれ・・・どこかおかしくはないだろうか?

 なぜ人は関心のもてないことを「悪いこと」だと感じているのだろう。悪いことだと感じなくても「悩み」として向き合おうとしている。解決したいと焦っている。ここで本来あるべき関心の姿を考えていきたい。

 そもそも関心や興味とはその意味するとおり、本来は自然の中に発生する心の動きなのではないだろうか? にもかかわらず「何かに関心をもつため」「何かに興味をもつため」に私たちは自ら関心ごとを探しに行く。これは少しおかしな話である。どこか矛盾している気がしてならない。

 もとより、どうして人は無理にでも関心を持ちたがるのだろうか。自ら貴重なエネルギーを使い、興味のあることを探そうとするのはなぜだろう? 関心をもたないからといって何か生命に危機をもたらすのだろうか? 野菜を食べないで肉ばかり食べていると健康を害すように、関心をもてないことで不健康になるのだろうか? 疑問である。

 関心をもたないこと。それ自体は何も問題がないはずではあるまいか? それでも本テーマをくれた人は困っている。少なからず物事に関心をもてないことに悩んでいる。猫目も同じく悩むときがある。多くのひとが関心や興味を探している。心の動く瞬間をつかみたいと思っている。関心をもてない、興味をもたないことで何が起こるか?

 そこに待ち受けているのは「空虚」であり、虚無感である。

 虚無感とは怖いものだ。なぜなら核心が無いのだから。核心にぽっかり穴があいている状態である。不安になると心がざわめき、落ち着かないように、不安と空虚はどこか似ている。これらが怖いのは解決策が簡単に見つからないことにある。恐怖を感じるならばその核心の部分を取り除き、解決すればそれでいい。恐怖は、その根本の原因を解明することが可能である。

 しかし不安には何もない。明治・大正の文豪である芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」のために自ら命を絶ってしまった。ぼんやりとした不安。そこには何のカタチも存在しない。だから本人はおろか何人たりとも、これを解決することはできない。何もないものを解決へと導くことは論理的にも不可能なことである

 ぼんやりとした不安やカタチのない虚無感から逃げ出したい。これは誰もが抱く衝動ではないだろうか。そのために人は、何かに関心を抱き続けなくてはならない。なぜなのか。それは簡単である。退屈が嫌いだから。いいや違う。退屈が苦手だからである。ひとは、退屈を感じると言い知れぬ虚無感に襲われることになる。これは耐え難いことだ。

転職を繰り返す

 とつぜんだが猫目は二十六歳までに10回以上の転職(アルバイト含む)を繰り返している。これは日本では評価されない。むしろ「職務経歴書は空白が多いほうがいい」と言われてしまう。ちなみに欧米の平均転職回数は11回である。ともあれ日本に住んでいる限り、職はあるていど継続した方がいい。事実そのほうが利口だろう。2022年現在では転職に対する認識も変わってきた。しかし、まだ完全に理解されているわけではない。

 さて。なぜ猫目は転職を繰り返してしまうのか? 自分はこの事実にかなり長いあいだ悩んでいる。ときには「これは病気なのではないか」とも思った。べつに職を転々としたいわけではない。職を変えることには、かなりのエネルギーを使う。せっかく慣れた環境を手放し、新しい環境へ馴染まなくてはならない。1から仕事を覚え、ゼロから人間関係を構築しなくてはならない。一言にいうと、かなり疲れるし面倒くさい。

 ではなぜ、転職を繰り返すのか?

 その最もたる要因のひとつに「退屈からの離脱」がある。こんなことを言ってしまうと皆さんは「猫目はなんて体たらくなヤツなんだ」と、そう思うかもしれない。本人もそう思っている。まったくの同感である。

 猫目の転職を考えるタイミングを分析すると「飽きた」に突き当たる。仕事に慣れて、こなせるようになり、何もかもうまくいく。すると「飽きる」のである。これでは駄目だといつも思い悩んできた。しかし或る感情に打ち勝つことがどうしても出来ない。

 その感情というのが「新しい仕事への憧れと興奮」である。つまり、まだ知らない未知の世界(業界・仕事)へと飛び込んでみたい。そういう衝動が猫目を突き動かしてしまう。それと同時に心の躍動を求めている

 ちなみに。

 小説や記事の仕事に「飽き」を感じたことはこれまで一度もない。きっとこれからも無い。創作というのは同じことの繰り返しに見えて、その実ゼロあるいは1からスタートすることである。そのためいつでも心が躍動している。ゆれ動いている。

 むろん他の職でもそうである。完璧など存在しない。ならば完成することのない完璧を追い求めて仕事を続けていけばいいではないか。まったくその通りである。安定して長く職に就いている人を猫目は羨ましく思う。

 しかし彼らは逆だ。「猫目さんはいろんなことをやっていてすごい」と言う。「行動力があるね」と言う。それは違う。たしかに行動力はあるのかもしれない。が、それは退屈から逃げ出すための行動力に過ぎない。心の動きやすいほうへと向かって歩んできただけのこと。

 虚無感は自分自身と向き合う時間を与えてくれる。与えてくれると言ったが、与え続けられたら、それはそれで疲れてしまうだろう。心身ともに疲弊してしまう。ならば、疲れないためにも興味をもとうじゃないか。関心を抱き、そのもの物事に熱中しようじゃないか。

 関心を抱くこと。それは何か物事に熱中(あるいは集中)することの出来る環境を与えてくれる。そうだとするなら関心を抱くことは、私たちの生活を豊かにしてくれるはずである。そう考えたほうが自然なのではないだろうか。とはいえ、まだ疑問は残っている。


 ・・・と、ここまで「関心をもつこと」を中心として語ってきました。1万文字を超える記事は読むのには時間が掛かります。エネルギーを要します。億劫なことでしょう。「正義とは何か」の記事にてそのことを思い知りました。なので、今回は前半と後半にわけることにします

 『なぜ人は物事に関心をもつことができるのか?』の後半では、以下のテーマ(目次)にて話を進めていこうと思います。ご興味のある方は、ぜひお読みいただけると幸いです。

  • 無理に関心をもつ、ということ

  • ユクスキュルの環世界

  • 脳の錯覚・脳を錯覚

  • 退屈の反対は?

  • 興奮について

  • あたらしい世界へ飛び込む

  • 時間の流れで関心はやってくる

  • 結論

 8500文字。1万文字まであと少しとなってしまいました。すみません。どうして謝るのかと言えば、それは読者たるあなた様を疲れさせてしまった可能性があるからにございます。短くまとめようとすればするほど困難を極めます。最後の言葉はドイツの詩人であり小説家であり、劇作家であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテさんに結んでもらいます。かれは天才です。いつでも短い言葉で核心をつくのですから。

ゲーテ

 興味。関心。好奇心。これらの心なくしては、人生は何も残らない。

いつもお読みくださり誠にありがとうございます。
また来週お会いしましょう!

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