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原典を読みながら環境・農業問題について考えてみる

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聖書や日本書紀、平家物語などを読みながら、「日本」について外国人に説明するにはどうしたらいいかとか、農村部の論理と都会人の論理がどう違うかと言ったことについてのヒントを考えていま…
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#近松門左衛門

泰平モード⇒消費文化の登場⇒八百屋と言う職業の成立⇒野菜の品種改良の進展と言う順番かもしれない、地域経済にとって農業の比重は高い地域があると言うこと

泰平モード⇒消費文化の登場⇒八百屋と言う職業の成立⇒野菜の品種改良の進展と言う順番かもしれない、地域経済にとって農業の比重は高い地域があると言うこと

井原西鶴の「好色一代男」巻六「身は火にくばるとも」に「魚屋の長兵衛にも手を握らせ、八百屋五郎八までも言葉を喜ばせ」と言う描写が出てきます。
好色一代男の執筆時期は、1682年ですが、この時代、既に「八百屋」と言う職業、つまり、「野菜小売業」が成立していたとすると興味深いと思います。
島原の乱が終わったのが1638年、寛永の大飢饉が1640-43年にかけてです。この後、農民への過酷な収奪を和らげ生産

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井原西鶴、近松門左衛門文学に登場する「ナス」。ナスの漬物は「わびしい食事」の代名詞だったのか。

井原西鶴、近松門左衛門文学に登場する「ナス」。ナスの漬物は「わびしい食事」の代名詞だったのか。

井原西鶴の好色一代男に「その里にゆきて、椎の葉に粟のめしを手盛りに、茄子香の物をもらいて」との描写が出てきます。

知り合った女性と二人、ひもじい旅を続ける中、途中で食べ物を恵んでもらう場面での話です。

「米」でなく、「粟のめし」にナスの漬物と言う形で、わびしい食事を表現しています。同じ西鶴の好色一代女にもナスの漬物が出てきますが、それも落ちぶれてナスの漬物だけでご飯を食べていると言う形で出てき

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鎌倉時代に育てられていた野菜はどんなものだったのでしょうか

鎌倉時代に育てられていた野菜はどんなものだったのでしょうか

昨日、鎌倉時代の家庭菜園面積で、当時の百姓屋敷が500平米程度との推定がある事を受けて、家屋が100-200平米とすると、垣根の内側の畑地面積は200平米程度ではなかったかと書きました。

これは当たらずと言えども遠からずだと思います。

ただ、農水省が1世帯の野菜を自給するための面積を30平米程度としている事を受けて、敷地内の菜園で麦や豆などの雑穀も栽培しているとすると、そこで収穫できる野菜・雑

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御成敗式目にみる百姓の権利

御成敗式目にみる百姓の権利

「日本中世の歴史1・中世社会の成り立ち(木村茂光)」によると御成敗式目第42条に「百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せしむること」と言う禁止規定があるとの事。
「逃毀」と言うのは、百姓の妻子の抑留や資財を奪い取ることを言うそうです。
つまり、農民が「逃散(=どこかへいなくなる)」した場合、その家族を拘留したり、財産を没収したりすることは鎌倉幕府の法律上、禁止だったと言う事です。
そして、「もし召し決っ

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バイオマス資源の状況と肥料・堆肥としての利用可能性

バイオマス資源の状況と肥料・堆肥としての利用可能性

畜産廃棄物や食品工業の廃棄物など、肥料・堆肥・エネルギーなどに利用可能なものを「バイオマス資源」と言うようです。
少し古い資料ですが、2005年頃とみられる農水省の家畜排せつ物の発生と管理の状況によると、

日本のバイオマス資源の発生量は年3億4千万トンとのこと。

バイオマスをめぐる現状と課題は、内訳を
家畜排せつ物 (約8,800万トン)
 再利用 約90% → 約90%
 ・堆肥利用に加え

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「冥土の飛脚」の「菜」はどんなものだったのか

「冥土の飛脚」の「菜」はどんなものだったのか

近松門左衛門の「冥土の飛脚」(1711年上演)に「背戸に菜を摘む一七、八が」と言う文言が出てきます。

この「菜」はどんなものだったのでしょうか。

季節は「空に霙の一曇、霰、交じりに吹く木の葉ひらり」とあり、枯れ葉が舞う晩秋の時季だと思われます。

場所は「畦道をすぢりもぢりて藤井寺」とあり、現在の大阪府藤井寺市近辺と思われます。

「菜を摘む」と言うと百人一首にもある「君がため春の野に出でて若

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近松作品に登場する脇差しと刀狩りの実態

近松作品に登場する脇差しと刀狩りの実態

近松門左衛門の「淀鯉出世滝徳(1704上演)」には、廓の遊女「吾妻」が、客の「竜田の藤」を脇差しで刺し殺す場面が出てきます。

この脇差しは、「竜田の藤」の持ち物で「竜田の藤」は身分としては「武士」でなく「町人」です。

この描写は、「刀狩り」の実態を考える上で興味深いものがあります。

豊臣秀吉の「刀狩り」の結果、武士以外の農民や町人は全く武器を持てなくなったと言うことはないらしいです。

例え

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商品作物としての「米」の登場

商品作物としての「米」の登場

井原西鶴の好色一代男巻一に香煎、置き綿が登場してきます。
香煎は米を焦がし、陳皮、ウイキョウ、山椒などの香料を混ぜたもの、置き綿は真綿で作った飾り帽子のことなのだそうです。

京都の銘酒:舞鶴・花橘も登場しています。香煎・清酒は「米」を原料としていて、米の商品作物化を伺わせます。
もちろん、農民は年貢を取られていたので、商品作物としては作っていなかったとは思いますが・・・

また、置き綿については

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キビはバンカープランツになるのでしょうか

キビはバンカープランツになるのでしょうか

近松門左衛門の五十年忌歌念仏では農民・佐治右衛門が育てていると言う作物のリストに「キビ」、「アワ」が登場します。

史記には「粟道を絶つ」と言う表現があり、兵糧攻めのことを指します。

「アワ」が主食だった時代があることを忍ばせます。

史記の楚世家では、楚の先祖「熊繹(ゆうえき)」を「楚蠻に封ず」とあり、当初、楚は蛮族=異民族と認識されていたことが分かります。

熊繹から4-5代後の熊渠(ゆうき

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中世のカブと大根はどうだったのだろう?

中世のカブと大根はどうだったのだろう?

近松門左衛門の五十年忌歌念仏の農民・佐治右衛門のセリフには大根を育てていることは出てきますが、カブは出てきません。

もちろん、たまたまこのセリフに出てこなかっただけで当時の農民が育てていなかったと言うことにはなりませんが・・・

大根、カブと言うと、日本書紀では仁徳天皇の歌に大根が出てきます。また、古事記では仁徳天皇が青菜のスープを飲んだと言う記事がありますが、この青菜はカブのことだという説があ

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江戸時代の農民の食生活

江戸時代の農民の食生活

近松門左衛門の「五十年忌歌念仏」の農民・左治右衛門のセリフに

「粟よ、黍よ、麦を撒くぞ、赤らむぞ、田を植えては草を取る、穂が出れば刈りまする、籾になれば擦りまする、米になれば炊きまする、飯になれば食べまする」
とあります。

米以外の雑穀・・・粟、黍、麦も育てており、これらの雑穀も食べていたと思われます。
他方、「米を炊いて食べている」とも言っており、米が食べられなくて雑穀だけを食べていたと言う

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