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自分じゃなきゃ、書けないもの

こうして公の場で毎日文章を書くようになって、今日で80日目。
私が徒然なるままに書く文章やそこに込められた意見に対して、とても好意的に受けとめてもらえたり、応援してくださる人が多くいる一方で、批判的な意見がチラ見えすることも出てきた。

公に見えるところで意見を述べているのだから、それに賛同する人も批判する人もいて当然のこと。それは頭ではわかっていることだけど、批判的なリアクションをたまに発見すると、ヒヤッとするのも事実。そういうとき、自分は人間だなぁ、と、思う。

「意見を言う」って、ものすごく単純で、今すぐにやろうと思ったら誰にでもできることではある。頭の中にあるものを、言葉にすること。それに上手い下手や、器用不器用はあるかもしれないけれど、「意見を言う」という行為自体には変わりはないし、優劣もない。

でも、公の場で覚悟を持って意見を言おうとすると、もうすごい勉強と、準備と、経験と、言葉の鍛錬と、心意気がいる。
何か起きたことに対して意見を言うならば、その事実関係をフラットに脳内に仕入れ、それに関する事柄・背景を調べたり勉強し、書くため(意見を言うため)の準備をし、それが第三者にふさわしく伝わるための言葉選びをし、よしこれだ、と、マイナスなリアクションが来ることも覚悟のうえで、表に出す。それは、当然の如くやるべきことかもしれないけれど、途方もない作業でもある。特に、どれだけ「いつでもフラットでいよう」と思ったとしても、それは自分の脳内フィルターを通さないわけにはいられないから、どこまでいっても、本当の意味でのフラットにはならない。

そんなことを自覚しながら、それでも、書かないわけにはいかない。書きたいから。その全てを慎重に慎重にと準備していたら、生きているうちに満足のいくものなんて発信できない。わからないながらにも、書くことで磨かれていく感性も、あると思う。

結局は、どこまでいっても、自信なんだと思う。自分の感覚を信じることしかできない。
自分のアンテナを広げる努力をすること。いつだって自分に対して「本当にそれはフラットなのか?」と疑問を持つこと。自分が生きていて感じることをしっかりとキャッチすること。五感を研ぎ澄ませること。少しの違和感も逃がさないこと。結局は、自分という人間のうえでしか、物事は語れない。自分の経験を捨てることも、自分の感情をなかったことにすることもできない。その自覚をしたうえで発信することで、初めて「私が書く意味」、良く言えば「付加価値」のある文章になるんだと思う。どこまでもリアルに、どこまでも温度を持って。

大した知識も持ち合わせていないから、経験先行でものを語ることが多いかもしれない。それでも、ただの「情報」より「経験」の方が価値があると思う。私が今の自分に望むのは、恐れずに「経験」を増やしながらも、しっかりとした「情報」を見極める力を持つことだと思う。全然、まだまだだけど。

自分の感覚を信じなかったら、何も信じるものはない。だからこそ、その感覚のまま、書いてみよう、と思う。

他のブログをあまりよく知らないけれど、noteを書いている方たちは、自分自身が文章を書いている方たちでもあるから、発信者の気持ちがよくわかるんだろうなぁ、と思う。だから、noteを書く方たちは皆さんとてもやさしい。良い意味で、距離がある。「あなたはこう思うのね、私はこう思うのよ」という見えないやりとりが、穏やかな中で成立する。それってとても自立していて、素晴らしいこと。

いろんなメディア・SNSがあるし、いろんな意見があるけれど、常に疑問を持ちながらも、自分の感性を研ぎ澄ませて信じて。書く者でしか感じられない「書く喜び」を、ちゃんと感じようって、思う。

Sae

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