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「他人」が必要すぎて。

今日は、初対面の人と会ったのだけれど、ベラベラと自分のことばかり話してしまった。我ながら、不思議な人だ、と思われたような気がしてならない。

休職して8ヶ月が経とうとしている。このnoteを始めて、7ヶ月かぁ。

最近、何をするにも、もやっと色々なものが「遠く」感じる瞬間があって、これは何なのだろう、と思ってベッドに潜っていた時。何となく、わかった気がした。

完全に「会社」とか「会社員としての日常」から、離れてしまったのだ、と。

8ヶ月も休めば、当たり前ではある。ただ、割と長い間、働いていた頃の感覚を生々しく覚えているところもあった。良いことも悪いことも含めて。

こういうことがしんどかったなぁとか、朝はコンビニでこんなパンを買って食べていたなぁとか、会社のパソコンはあんなサイズだったなぁとか、〜〜部署のAさんは電話だと冷たいのに会うと意外に明るい人だったなぁとか、そういった類の、何の変哲も無い「日常」。

そういうこと(書かないけれど、嫌なことも含めて)を時々思い返しては、何にも感じず、今は好きなことをやろう、と繰り返していたけれど、段々と、それすら思わなくなってきたのだった。遠い。何が遠いのかもよくわからないけれど、とにかく、遠くなった。そういった日常そのものが。手でとるように感じられないのだ。「実感」がない。

「手でとるように感じられない」というのは、水溶き片栗粉みたいに、清々しさと寂しさを一生懸命混ぜたような、不思議な感覚だ。感じたく無いものは感じないのだから、それで良いのだけど、感じたいものまで、一緒にどこかに行ってしまう。

気づかぬ間に、「時」がそうさせて、遠くなってしまった。「しまった」と書いてしまうということは、きっと自分の中のどこかが「寂しい」と言っているのだろう。「実感」が欲しいのだ。何らかの。

私の口から音として発せられる言葉より、こうして紡ぐ言葉の方が、ずっとずっと正直者になった。

休職してから初めて、「コミュニティ」というものがいかに大切かがわかったような感じがある。会社に属した方がいい、とかそういうことを言いたいわけではない。

ゴリゴリと会社員として働いていた頃は、休日に趣味仲間と釣りに行くだとか、習い事に行くだとか、そういうことが「すごいなぁ」とただただ感心していた。体力あるなぁ、元気だなぁ、みたいな。

でも、人はきっと、一つのコミュニティだけで生きてはいけない。そう造られているような気すらする。私は実家暮らしで、幸い1日に一回は家族と話す機会があるのでまだ寂しくは無いけれど、日々接するコミュニティが家族だけ、というのは、絶対に足りない。何かが、足りない。だから、今日はなぜか初対面の人にペラペラと自分のことばかり喋ってしまったのだと思う。堰を切ったように。

「何でも話せる」みたいな相手は存在しないということを、30年の人生で何となく察している。だからと言って、一人では絶対に生きていけないということも、わかっている。だから、コミュニティを作るんだ。いくつも。心地のいい分だけ。

私はどうしても一匹オオカミみたいになってしまいがちだから、一つのコミュニティにどっぷり浸かるということがうまくできない。というか、そういったコミュニティに浸かることに、少し抵抗があると言ってもいい。多面的でいられないような気がして、勝手に抵抗を感じてしまう。

でも、SNSやインターネットの世界じゃ、足りない。あそこは、修羅の国だ。ものすごい甘い汁が垂れ流され、面白みを吸っていても、気を抜いたらすぐに噛みつかれる。生のコミュニティが欲しい。繋がりがなければ、生きてはいけない。

そう思いながら、私は今、ささやかな「コミュニティ」のようなものを、作ろうとしている。友人と一緒に。本来そういうことをしてきたタイプでは無いので本当に手探りだけれど、リアルな繋がりがしっかりあって、クローズドで、安心できるコミュニティ。

きっとこれからは、家族や会社だけじゃ、息が詰まる。
シェルターのように感じられる、何の利害関係もない、ある程度閉じたコミュニティが必要だと思う。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。