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とにかく無性に小説が読みたい

↑こちらの記事を実行してから約ひと月。
購入本をちまちまと読み進めていって、残りの積読本は『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』のみです。


それ以外にも魚豊『チ。ー地球の運動についてー』(小学館)という漫画を6巻(現時点で単行本の最新刊)まで読んで興奮したり、ふらっと行ったジュンク堂で一目惚れした本を読んだりなどして過ごした2月でした。

1巻の表紙、改めて見るとエグいね…。
(足が地についてない)


加えてChromebook購入のおかげで、パソコンから眺めるnoteのホーム画面がスマホ以上に見やすい事に気づき、今まで以上に他の方のnote記事を読む機会も増えています。
反比例するようにツイッターを眺める時間が減ったとはいえ、インプットの総量としては、これまでと大差ない現状のはずなんです。


しかし先週の、2月最後の日曜日。
唐突にものすごい飢餓感に襲われました。


小説が読みたい。


確かに「一万円分」の時に購入した遠藤周作『海と毒薬』(新潮文庫)は読みました。2月6日の話。でもあれは小説と銘打たれてはいるけど完全なる創作ではなく、実際にあった米軍捕虜の生体解剖事件を題材にしたものです。
考えることを促す重厚な一冊で良き読書だったとは思っていますが、「小説」を読んだという達成感や満足感よりも、同時進行で読み進めていたノンフィクション本たちの一連の流れとともにある作品として受け止める気持ちの方が大きかったのです。


で、試しに自分の読書メーターの記録を遡ってみたら、『海と毒薬』を除いて最後に読んだ「小説」は、1月16日に読了している彩瀬まる『やがて海へと届く』(講談社文庫)でした。
この本は今年読了の10冊目なので、冊数にして20冊分(実際は読書メーターに登録していない実用書やビジネス書もあるからそれ以上)、日数にしてだいたいひと月半、小説から離れていたことになります。
そりゃ飢餓感も募るよね。


試しに、本棚から川端康成『掌の小説』(新潮文庫)を引っ張り出して読みました。

基本的に数ページ、中には2ページに満たない長さのものまである掌編を122話収録した作品です。
(といっても全話読んだわけではなく、初読時に好きだと感じて印をつけておいた作品のみを選り抜きましたが)
一遍の物語としての完成度を保つことと同時に、文章に満ちた詩情に心動かされるとか、作品世界の奥行きに想いを馳せるだとか。それらをこのページ数で成立させるためには、言葉を極力削ぎ落として最適なものだけを選ばないといけないわけです。その取捨選択の見事さに震える体験ごと好きなので、掌編や短歌を読むのが好きだったりします。


確かに再読しがいのある良い掌編集でした。
しかし読了後に感じたのは、
いま読みたいのは掌編や短編じゃない、長編だ!
という確信でした。


個人的に、一作の小説を日をまたいで読むのが苦手なんです。それゆえ一話終わるごとに本を閉じたり、何日かに分けて読むことが抵抗なく行える短編集を好ましく思う傾向があります。
長編小説を読む時は一日で読み終えられるよう、外出しないと決めた上で朝から気合いを入れて取り掛かったり。


なのでこの時の長編小説に対する渇望の自覚は自分自身珍しいものでしたが、それならと思って本棚を眺め、目にとまった森博嗣『恋恋蓮歩の演習』(講談社文庫)を再読しました。

8年半ぶりに読みましたが、初読の当時はスルーしていたある部分に気付いて、読み終わった時に若干鳥肌が立ってました。(シリーズのネタバレになるので今度別記事で書こうと思っています)
こういう想定外の興奮に出会えたこと、紛れもなく唐突に湧き上がった再読欲のおかげです。




個人的に、齋藤孝『読書力』(岩波新書)を読書に関するバイブルだと感じているんですね。

この本に、下記のような文章があります。

矛盾しあう複雑なものを心の中に共存させること。読書で培われるのは、この複雑さの共存だ。
思考停止するから強いのではない。それは堅くもろい自己のあり方だ。思考停止せず、他者をどんどん受け入れていく柔らかさ。これが読書で培われる強靭な自己のあり方だ。

(この結論に至るまでの文章も本当にその通りだと感じるので、未読の方はぜひ実際に読んでみてください)


上記の引用箇所が自然に培われるのが「小説」を読む体験なんじゃないかな、と思います。
小説を読んでいると実生活で会うのは絶対ごめんだと感じるような嫌な奴も出てきますよね。そういった嫌な奴に対する嫌悪感が、現実に周囲の他者への接し方に対する反面教師になったり。
役に立つことを期待して読むのではなく、ただただ好きで読んでいた結果、自然に得られるもの。だから私には必要なんだと今は感じています。


確かに最近実用書ばかり手を出していた。
森博嗣さんの作品を通読したおかげで小説への渇望はいったん落ち着いたものの、「今月は意識して小説を読んでみよう」と心に決め、金曜と土曜に行った本屋さんで小説を何冊か買ってみました。
(この記事のヘッダ写真は、帯を見たら買わずにいられなかった一冊です)
他の積読本たちと並行して、ちょっとずつ読んでいこうと思います。


❏❏❏


おまけ
今回は『恋恋蓮歩の演習』を読みましたが、それ以外にもどれにするか悩んだ作品たちを並べてみます。


・ 天藤真『大誘拐』

超大富豪のおばあちゃんを誘拐して五千万円の身代金を要求しようとしたら、当のおばあちゃん本人が「五千万円なんて安すぎる。百億だ!」って言い出したがためにとんでもない誘拐事件に発展していく……というなんとも愉快痛快な傑作です。結末も含めてほんと好き。



・ 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』

『大誘拐』の痛快さとは対照的な逃走劇だけど、この厚みを一気に読ませる筆力と疾走感、そして待っている結末は圧巻のひとこと。



・ 筒井康隆『残像に口紅を』

アメトークとかでも取り上げられたりしてるので、読了済の方も多いかと。使える文字がひとつずつ減っていくという実験的長編小説。実際に読んだ時、使える文字がかなり減った後半以降で様々なジャンルの小説形式に挑んでいることに度肝抜かれた思い出。



・ 町田康『パンク侍、斬られて候』

現代の国内作家で「文体に名前が書いてある」と呼ぶに値する代表格がこの人だと思う。読みながらぶんぶん振り回される悦楽。



・ 夏目漱石『坊っちゃん』

うちの本棚でわりと近くに置いてあることもあり、現代が町田康なら近代だと漱石かな?という連想が働いた。読んでて気持ちいいって感じる文章、その気持ちよさに身を委ねるのも小説を読む面白さなのだ。



・ サマセット・モーム『月と六ペンス』

六ペンス≒当時の日給という事から、書名の意味を「夢と現実」や「狂気と日常」などのニュアンスで解釈されている意見を見たことがあります。夢に身を投じた男とその周囲の人たち。モームさんの描く人間関係の奥行きは素晴らしい。



・ パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』

昨年末に再読済だったから結局見送ったけど、小説を読む面白さを味わえる作品をひとつ選ぶなら迷わずこれです。勧善懲悪も奇想天外も諸行無常も全部盛りの壮絶さを、読み進める気持ちよさに満ちた名訳で楽しめるなんて素晴らしいこと。



・ アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは…』

書名が内容のすべてを暗示していますね。読む前からそれを提示され、理解した上で読み進むことになる。これもまた小説ならではの達成だと思う。



そんな感じです。
結局は一番最初に目にとまった森博嗣『恋恋蓮歩の演習』にしたけど、こうして振り返ってるうちに他の小説もまた再読したくなってきました。新しく買った小説たちを読み終えたら手を出したいものです。


よし書き終わった。
今日は15時から新日本プロレスの生配信があるので、それまでじっくり小説を読む時間にします。日曜日はまだまだこれからだ。



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