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Ⅱ章 彼女の場合➉

 パンッ!という音と共に、私の右頬は反対方向へ押し出された。

――――大学4年の夏。
とうとう私と亮二の関係が夏希にバレてしまった。
ハルから連絡を受けた私は、何も知らずに御茶ノ水で合流した。
その時、ハルの横にいた夏希から出合い頭にビンタを頂戴した。
たまたま夏希の友人が、ラブホテルから出る私たちを見たらしい。

――――どういうつもりなのっ!?
彼女の眼には、明確な敵意があった。

 あの日、関係を持ってから、私たちは溺れることを覚えてしまった。
互いの劣等感を埋めるように逢い、何度も身体を重ねて朝を迎えた。
その頻度は日を追うごとに増えていった。

 バレるのは時間の問題。その覚悟は出来ていた。
しかし、いざこうして実際にその時が訪れると怖気づいてしまう。 

 私は、脚の震えを感じつつ、ふたつのことを感じた。
ひとつは、彼にとって、夏希が良いオンナだったのかということ。
もうひとつは、彼にとって、私はやはり「都合の良い」悪いオンナだったのかということ。

 彼女の怒りはもっともだった。自分の男が他の女に、ましてや元同級生と身体の関係になっていたのだから。しかもそれが「私」だったのだから。
お互いの決着は、「あの日」に着いていた。少なくとも夏希はそう思っていた。それがこの有り様。怒るのも無理はない。

 私が「都合の良い」悪いオンナだということもわかっていた。
いつも行為の後に、亮二は携帯を取って、夏希からの返信を眺めていた。
その彼の姿を見れば、心が此処にないことを認めるしかなかった。
私がそれ以上の存在になれないことは、肌を重ねるごとに、同じ時を過ごすごとに強く感じた。

 次第に私は、この爛れた関係に納得できる名前を求め始めた。
亮二の気持ちは私にない。けれど、彼の弱さを理解できるのは、私だけだと思った。それだけではない。私は彼の事が好きだった。どうしようもなく。
最初は、彼の気持ちが私になくても、彼が彼でいれるのならと思った。
 でも、やはり無理だった。ベッドの上で私を抱きしめる温かい腕が、夏希のものだと思うと辛くてしょうがなくなった。

 きっと私は、どこかで心が壊れたのだと思う。
慰め合いのはずが、そこに希望を抱いてしまった。
今度こそ、私を見てくれるのではないか。
次こそは、あの日とは違う未来が来るのではないか……。
願っては消えていく希望は、長く続けば次第に絶望に代わった。


 私にとっての「恋」が壊れたとき、ひとつの変化が訪れた。
自分の中で彼との行為は、慰め合う行為から「夏希から亮二といる時間を奪う行為」になり、「夏希の幸せを奪う行為」に代わっていったのだ。
彼の熱が自分の奥で散らばる度に、私は亮二への母性と夏希への優越が沸き立つ自分を見つけた。

 私は、この感覚の虜になっていった。

 私は夏希のように「彼を正す人」にも「支える人」にもなれない。
所詮、「避難所代わりに消費されるだけの都合に良い女」であって、それ以上にはなれない。

 それなら……。消費されるなら、私も奪おう。
私の横に彼がいないとき、彼の横には夏希がいるのだから。
私が「亮二と夏希だけの時間」を奪おう。
彼と交わる時間の分だけ、私は夏希の幸せを奪うことが出来る。


「そんなことして楽しいの?」
夏希が冷たい声で私に問いかけた。

 喫茶店に入って、4人掛けのテーブル席に向き合う形で、3人は座った。
図ったように、遅れてきた亮二が気まずそうに私の横に座った。

「楽しいよ。いつも愛されてる夏希にはわからないだろうけど」

 私は突き放すように言った。
元々、退路はない。亮二が私のものになることはない。
全部わかっていた。わかってやっていたのだから。

涙を浮かべながらも返す言葉を考えようとしている夏希を見て、私は更に続けた。
「夏希もツラいだろうけど、私だってツラかったのよ。亮二の心はいつもアンタを向いてた。私がまだ好きだって知っててさ。私も悪い。亮二も悪い。でもね、アンタも悪いのよ」

 虚を突かれた夏希は、何を言われているのか解らないようだった。

「アンタ、亮二に正論ばっかり言ってたでしょ。それが本人傷つけてたの分かる?正論ばかりじゃ生きていけない人もいるのよ……。アンタやハルみたいに、簡単に区切りをつけて、次の目標を作って生きていける人間だけじゃないの。相手への理解のない正論は、暴力でしかないの。それが原因で―――」

「だからって、お前と亮二が浮気していい理由にはならないだろ。夏希が泣いていい理由にもならない。この際だからはっきり言うけど、区切りを付けられないのは、お前ら自身の問題だ。――――そこに他人を巻き込むなよ」

 私の話を遮って話始めたハルの声は、明らかに怒気を含んでいた。
私の苦し紛れの言い訳が彼の逆鱗に触れた。

「……亮二。お前がバスケに未練持ってるのは、皆知ってた。でもな、あのチームは終わったんだよ。そこから先、お前がバスケをやる選択肢はあっただろ?その推薦蹴って、一般で大学入ってからもバスケは出来たはずだ。それをしなかったのは、また打ちのめされるのが怖かったからじゃないかと思ってる」

 ハルに真意を問われた亮二は、黙ったままアイスコーヒーを眺めていた。
核心を突かれたのだろう。惨めな気持ちと夏希への罪悪感が込み上げた彼は、口元に手を当てながらぼんやりと言った。

「そうなんだろうな。……ずっと。ずっと怖かった。歩にカモにされたあの日から。バスケを続けたい気持ちと、打ちのめされる怖さの間に挟まれてきた。折り合いを付けなきゃと何度も思ったよ……。けどさ、そんな簡単に行かなかった。大して練習しないサークルでバスケしても虚しい。かと言って、バスケ部に入るのは怖かった。慣れ合う甘さも向き合う勇気も、俺にはなかったんだ」

カランっと音を立てたアイスコーヒーは、まるで彼の話に相槌を打つようだった。

「逃げるようにバイトと講義を入れた。それ以外の時間は夏希と会うか、友達と朝まで呑んでさ。必死に忘れようとしたけど無理だった。お前らはドンドン前に進むだろ?お前も慧も目標のために勉強してさ。隆は、一歩先に社会人になってやりたい道を進んでる。純も歩も、今じゃU-22の主力だろ?――――俺だけが取り残されたんじゃないかって思うようになってた」

「それなら……。それならなんで……。なんでそう言ってくれなかったの!?言ってくれれば、私だって――――」

「言ったさ。言っても返ってくるのは、いつも正論ばかりだったじゃねぇか……。それがツラかった。だけど、お前の事が好きだった。一緒にいたかった。俺は、夏希に……」


 夏希に支えて欲しかったんだ。


 彼は一拍置いてから絞り出すようにして言った。
ゆっくりと、一筋の涙が彼の頬を伝っていく。夕暮れに当てられた琥珀色の雫は、下に流れていくに連れて、その大きさを小さくしていく。


 ここだ、と思った。
――――私の引き際は、ここ以外にない。

「……そっか。じゃあ、私はもう出るね。亮二の良い分も充分伝わったでしょ。あとは残ったもんでどうにかして。もう私はいない方が良いでしょ」

止めようとするハル、困惑する夏希、意図を汲み取った亮二。
三者の顔を確認してから私は立ち上がった。
――――結局、「都合の良い」悪いオンナなんだ。


「夏希。アンタ、やっぱ良いオンナだよ。それで私は、悪いオンナだわ。裏切ってごめん。もう会わないから」
捨て台詞を吐いて、私は店を後にした。


 それから私は、急いで関東以外の就職先を探した。逃げるように。
もう、ここにはいれない。ふたりの幸せから少しでも離れたいと思った。


 そうして運よく入ったのが、今の会社だった。
知らない土地でイチから生活を始めることは、さほど苦労はなかった。
高校と大学時代に培った鈍感さと女子力が私を助けてくれた。

 何人か彼氏も出来たが、やはりすぐに別れた。
関西の男は優しい。そう感じて、最初はその優しさに甘えて彼を忘れようとした。

 男はいくらでもいる。もっといい男はいる。
亮二よりもカッコ良くて優しい男がきっといる。

 そう思っても忘れられなかった。
他の男に抱かれても、耳元に聴こえる息遣いが「彼」を思い出させた。


 彼の横には、今も夏希がいるのだろう。
あの日、彼は自分の本心を言えたのだから。
夏希は、それを受け入れる包容力と支える器量がある。

 だから私は、ここにいる。


 彼がいない現実と、彼以外を愛せない現実だけが私に残った。
 仮に人が器だとして、その器に愛情が注がれるのだとしたら……。
 きっと私は、底の抜けた器――「器だったもの」――なんだと思う。



「先輩。結局、今日の夜どうします?」
「え?あーごめん。藤崎なんだっけ??」

「……もう。お昼に言ってた小籠包のお店ですよ。結局、今日行くんですか?」
「あぁ、忘れてたわ……。ごめん。そうね……」

 言いながら、携帯の通知を眺めた。

「ごめん。急用入ったわ。東京の友達がこっち来たみたい」
手を合わせて謝罪する。悪意はない。

「まーたですかー。まぁ良いですけど。じゃあ今度、奢ってくださいね」
「わかった。食べたいだけ頼んでいいから」

 じゃあ、と言って、定時で退勤アプリの打刻済ませる。
その足で新大阪駅へ向かい、ホームの洗面所で身だしなみをチェックする。
化粧は落ちていないか、疲れているように見えないか、香水は強過ぎないか……。洗面台に立って、久しぶりにオンナを確認する。


「久しぶり」
「おう。相変わらずだな」

そっちも、と返しながら、いつものように新幹線の南口改札の前にあるセブンイレブンで合流する。

「アンタ、なにか食べた?」
「いや。会社の人が誘ってきたけど、予定あるって断った」

「あたしも。何食べる?」
「んー。そうだなぁ……前行った台湾まぜそばの店は?」

「あぁ、あそこか……」
せっかくチェックしたのにな……。


 結局、私たちの関係は続いている。
彼が就職した商社の支店が大阪にあった。
出張の折、あの時のことを謝罪したいと彼から連絡してきた。
それが「今の関係」の始まりだった。

 出張のたびに会い、夜は身体を求めあう。
彼と交わるときだけ、私は自分が器になっているのを自覚した。

 もっと注いで……、そう言いながら、肩、彼の首筋、耳の裏へとキスをしていく。彼の身体から込み上げてくるものを感じて、抱きしめた腕を引き寄せ、脚を絡めた。彼の欲情がより私の深いところで触れ合うように……。そうして勢いよく叩き付けられ、擦り付けられて、中に注がれた「彼」が器に満ちる感覚を堪能する。

――――今だけは、私は人でいることが出来る。

「ねぇ……」
「ん?」

「私たちの、この関係って何なのかな?」
「んー。なんだろうな……。確かにセックスフレンドとか、現地妻みたいな割り切った関係じゃないよな。強いて言えば、「埋め合う関係」じゃないか?」

「埋め合う関係、か……」

 結局、彼とは朝まで何度も抱き合った。
起きたのは、昼過ぎ。チェックアウトを済ませたあと、新大阪駅の構内の喫茶店で、出発まで他愛のない話をした。何を話したかは覚えていない。
彼が行ってしまう事の方が、私には大きい出来事だった。

「じゃあ、また来るわ」
そう言って、笑顔で改札を通った彼の手には土産袋が見えた。見てしまった。
私は、その袋を見ないように、彼の姿が見えなくなるまで見送ってから御堂筋線に乗った。


 帰り道、器の底がゆっくりと抜けていく感覚が始まった。
少しずつ、また彼に注がれた愛情がどこかに漏れていく気がする。
その寂しさに呑まれ、また好きでもない誰かの肌で紛らわせたくなる。
恋人がいる相手なら、なお良い。その幸せが欺瞞であると思えるから。

 我ながら、底の浅い人間だと思う。浅ましいとも。でも仕様がない。
この先、自分の行く先に光はないのだろう。歳を重ねるにつれて、そう思うことが多くなった。



「課長、体調悪いんで早退してもいいですか」

「いいよ。キツいなら病院行ってね。ダメそうなら明日も休んでいいから。白木君もいるし」
「ありがとうございます。というわけで鉄仮面先輩、明日お願いします」

「え、もう休む気なのっ!?」
「はいはい。さっさと帰って寝てください」

突っ込む秋野課長と冷淡な白木主任に促されて、身支度をする。

「そういえば、豊崎さん。彼氏出来たらしいですよ」
「へぇーそうなんだ。幸せそうで何より。じゃっ」

 冷たいなぁ、とボヤく藤崎の声を背中で受けながら、会社を出た。

 彼が去ってから2ヵ月が経った。しばらくは来ないだろう。
だいたい半年周期くらいで来ていたから。
それまでの間、どうやって寂しさを埋めようか。

 不意に携帯が鳴った。ハルからだった。

「久しぶり。どうしたの?」
「あぁ。悪い。いきなりで。今、大丈夫か?」

「うん。体調悪くて早退したところ」
「そうか。そんなときに悪いけど、聴いて欲しい」


――――亮二が死んだ。
死因は、急性心筋梗塞だった。出勤してすぐに倒れ、病院に着く頃には亡くなっていたのだそうだ。

 ハルは、そのまま何かを話していた。
意識が遠くなっていく私には、それが言葉ではなく単なる音にしか聴こえなかった。理解することを拒んでいた。


「麻生さん。麻生舞衣さん。どうぞ」

電話越しのノイズの中でハッキリと聴こえたその声で、私は意識を取り戻した。

「ごめん、またあとでかけ直す」
そう言って、私は携帯を切った。産婦人科の診察室の前だった。



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