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今日はとても単純なことなのに、勘違いしているのではないかと思われる話を書きます。

1、日々のウォーキングで筋力の衰えを阻止できると思っている。
2、毎日ラジオ体操しているから、運動ができていると思っている。

実は現実にこう思われている人に何人もお会いしたことがあります。「足りないですよ」と言ったら、「そうなの?」と、驚かれました。高齢者になると、そもそもしんどいので「やりたくない」という意識が働くから、頭の中では「これで十分」と、勝手に思い込みたいのではないでしょうか。

アスリートは、0.1秒、0.1mmを極めるために筋力アップのトレーニングをしています。それでも記録更新は難しいものです。私たちは、記録を狙うわけでも、更新しなければならないわけでもありません。できれば筋力の衰えを少しでも阻止したいだけです。

「老化は足腰から」という言葉は誰でもご存知でしょう。足腰が弱ると一気に老けていきます。立ち上がるのもしんどくなると、そのうち立てなくなっていきます。誰しもそういう人を見てきたはずです。だから少しでも長く健康でいたいと思うのは自然なことです。

そのために毎日ウォーキングしている人は多いです。では以下の例で比較してみましょう。

A、毎日、川沿いの平坦な道を、5000歩歩いている人
B、毎日、小高い山の上り下りで、5000歩を歩いている人

誰が考えても、Bの人の方が足腰が鍛えられていると思いますよね。同じ歩くなら、山を歩いた方が筋力は鍛えられるのは歴然としているでしょう。それなのに「坂はしんどい」と言って、平坦な道を歩かれます。

少しでも健康寿命を延ばしたい、足腰が衰えるのはイヤだと言いながら、坂はしんどいから行かないと言うのは、矛盾していませんか?

誰からも叱られないから

自分に対する甘え


私はこう思うのです。大人になると、誰かから叱られることがほとんどなくなります。だから今日やらなくても叱られません。子供の頃は何かと叱られましたよね。叱られると間違っているという意識が生まれるし、正そうという気持ちになります。ところが大人はその傾向がなくなるのです。

叱られなければ、今の自分で良いと思うでしょう。それって、勘違いしてませんか? 誰にも何も言われないことを良いことに、何も修正しないなんて、進歩ないですよね。それって、自分に対する甘えではないですか?

高齢者になると「いまさら」「もうこの年だから」という言葉をよく口にします。それは「諦めの言葉」だと私は思うのです。昨日の自分より少しだけ進歩していたらそれでいいじゃないですか。去年の自分より、少し良くなっていたら十分です。他人と比較することはないし、有名人や天才と比べる必要もありません。

これらはすべて「勘違い」から起こると私は考えます。自ら進歩することをやめてしまうのは、ちょっと悲しくないですか? 昨日と同じなら進歩していません。昨日より少し良くなったと感じることができたら、素晴らしいと思いませんか? 筋肉を鍛えるということは、「昨日の自分に勝つこと」だと私は思います。



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