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ネガティブ自己肯定感底辺ダイエッターが誕生するとかしないとか

私は34年生きてきて一度もお腹がぺったんこ、二の腕が細いとなったことがない。
18、9歳の頃が一番痩せていたと思うが、その時でもお腹と二の腕だけはちょっとお肉がついていた。
私の身長は小学5年生頃から変わらず156㎝、現時点での体重は62kgほど。これでも以前よりは少し痩せた。ちなみに最高体重は72kgで、これは中学3年生の頃、受験が早く終わり引きこもりに引きこもりを重ねた結果だった。その後高校が高台にありそこまでの坂道の登り降りと剣道部に入ったことでみるみる50kg台まで落ちた。
そう、若い頃は本当に少し食べない、少し運動するなど微調整で痩せることができたのだ。しかし中年と呼ばれる年齢になった今、私は絶望している。このまま死ぬのではないかと毎日恐れおののき、その割にはなにもしない自堕落な生活をする、運動などをしてもお手本のような三日坊主、運動やダイエット関連の本や動画をみてやった気になる最悪なパターンに入っている。
話は変わるが、ダイエット関連のものを色々見ていて思うのは、皆前向きでポジティブ、明るい人が多い傾向にあるということ。私の見た人々がたまたまそういう人が多かったのかもしれないが、それにしても明るい。
私はまずそれを妬んだ。お門違いな八つ当たりであることは百も承知ではあるが、その人たちが明るく前向きな言葉を投げ掛けても素直に受け取ることができず、そして食べ物や運動、全てのことに言い訳をして真似をしてもすぐに諦めてしまった。
私はなんでも形から入り、すぐに結果がでないことには諦め、自分には無理だと悲しくなり、痩せている人を見るだけで自分はダメな人間だと思うようになった。
自分を愛する、とよく言うが、私の人生は常に誰かのため、私が依存と呼べる程に愛している人々のものであり、私は私のためになにかをして後悔しない日は無かった。自分を大切にしよう、自分を愛そう、そのままでもあなたは素敵だ。そのような言葉たちは全て私には到底受け止めきれない。
自分はかわいいかもしれない。その証拠に、私は言い訳をし、人のせいにしてなにもせずなにも成し遂げようとせずに日々を漫然と過ごしている。
もちろん家族がいてくれるだけで幸せだ。お金がいくらあったとしてもどんなに自分が美しいとしてももいかに自由であっても、私にとってこの幸せに勝るものはない。この幸せは当たり前のものではなく、大切にしなければならない。ではそのために、私は自分を犠牲にしているか?いや、そうではない。私は私を甘やかしている。病気を恐れるくせに食生活も運動も見直そうとしないのだから。
そう、もう見た目の美しさのためのダイエットではないのだ。大切な家族との時間のために、自分を管理するためのダイエットが必要なのだ。お金がない、時間がない、仕方がないで済ましている場合ではない。
しかし実際、我が家は常に家計が火の車、大赤字で、部屋は常に散らかり汚部屋状態、フルタイムで働き、その上この身体が嫌だと宣って、やる気もなにも湧かない。ここでも人のせいにしている。しかも、家族のせいにしている。最低だ。そしてその思考でどんどん私はどん底に落ちていく。お風呂もご飯も洗濯も片付けも投げ出したくなり、仕事へ向かう電車でも降りて叫びながら走り出したい欲求を押さえ付けに押さえ付けて、吐きそうになる。
私はなにがしたいんだ。子供たちの母親として綺麗で健康的な母親でいたいという願望と、自分を好きになれたならなにかが変わるのではというシンデレラストーリーを期待している自分を、思い描くだけの妄想。
肝臓の数値が毎回健康診断で引っ掛かり、体調も常に悪く、このままではいけないと危機感を覚えるのになにかと理由をつけて食べている。

ここまで読んでいただいた方にはよくお分かりいただけたと思うが、私はとにかく足元しか見ていないのだ。きっとイライラしていることだろう。ここまで読まずにすでに別のことをしているかもしれない。
しかし、もしここまて読んでいただけたなら、私は承認欲求の塊でもあるので、誰かに読んでもらえているというだけでもやれることかあるかもしれない。
人のせいにするならば、いっそ誰かに読んでもらうという前提で勝手に巻き込み、自分を奮い立たせるしかない。巻き込まれた方々はさぞかし迷惑であろう。
こういう理由でブログを作ったりもしたがどうせだれも読まないだろうという元も子もない理由で全く投稿せずネットの海を漂う屍と化してしまっている。
妙な完璧主義で変なプライドが邪魔してInstagramなども投稿できず、もうここでダメなら私は……

考えるのはやめよう。思考停止。
とにかく、ビフォーアフター写真が撮れる日が来るように、やるしかない。

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