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【書評】ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』を読む。世界をあるがままに愛せよ。

ロッシーです。

ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読みました。

非情に深い内容でした。正直一回読んだだけでは分からない深さなので、またいつか再読したいと思います。

この小説の一番のハイライトは、最終章でシッダールタが友人ゴーヴィンダとの会話する場面だと思います。

おそらく、そこにヘッセ自身の思想が、主人公のシッダールタを介して饒舌に語られていると思うからです。

以下、そのいくつかを記載していきます。

目標をもつこと

一つの目標を持ち、目標にとりつかれているので、何ものをも見出すことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。

深いですね。

目標を持つと、それに向かっていかに効率的に、最短距離で達するかが重要になります。目標にゆっくり向かって歩くよりも、クルマでかっ飛ばすほうが良いわけです。

でも、その過程では、途中で道端の花を見ることも、地面を踏みしめる感触も味わうことはできません。

言葉の限界

つまり、一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだ。思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。

確かに言葉には限界があります。何かを言葉で表現するときには、必ずひとつの限定された見え方しか表現することはできません。

「あの人は優しい」

と言葉で表現しても、それは一面的なことです。

その人は一面的には優しいのでしょう。しかし、別の面から見れば、傷つくのを恐れる人なのかもしれません。軟弱なだけかもしれません。良く思われたいのかもしれません。

その人のあるがままを言葉にすることは不可能なのです。

何かを言葉で表現しようとすれば、善と悪、幸福と不幸、生と死、光と闇、希望と絶望、男性と女性、秩序と混沌・・・そういったものに分けざるを得ません。

しかし、それは世界全体ではありません。

アブラクサス的な生き方

世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。

これは、小説内でシッダールタ自身が体験してきたことから出てきた思想の断片です。

これだけを読むと、「もっと享楽的、欲望のままに生きることが良いのか?」と思ってしまうかもしれませんが、そういうことを言いたいわけではないと思います。

私達が、「こういう風に生きることは悪いことだ」「それは正しくない生き方だ」と思っているのもある種の囚われであり、一面的にしか物事を見ていないのだ、ということを言いたいのではないかと思います。

逆に、誰からも賛美され、善いこととされる生き方だと私達が思っていることだって、同じように一面的にしか物事を見ていないといえるでしょう。

この考え方は、常識的にみればある種の危険性を孕んでいるといえなくもありません。

ただ、ヘッセ著『デーミアン』において、アブラクサス(神であり悪魔である至高の存在)に関する記述があったことを考えると、ヘッセがこのようにシッダールタに語らせていることには納得がいきます。

それがヘッセ自身が得た「知恵」なのでしょう。

世界を愛しなさい

物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。物は私の同類だということ、それこそ、物を私にとって愛すべく、尊ぶべきものにする。だから私は物を愛することができる。この教えは御身には笑うことだろうが、愛こそ、おおゴーヴィンダよ、いっさいの中で主要なものである、と私には思われる。世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界を軽蔑しないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである。

悟った人は、物それ自体には実体がない。単なる形象、幻影にすぎないと言って、物を「低く見る」傾向があります。

物よりも精神的なものを上位に置く傾向は、多くの哲学者に共通しています。

しかし、本当にそうなのでしょうか。

シッダールタはこう言っています。

物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。教えは硬さも、柔らかさも、色も、かども、においも、味も持たない。教えはことばしか持たない。

確かに、言われてみればその通りです。

私自身が愛している存在はすべて物理的に存在している人や物です。言葉そのものを愛しているわけではありません。

ここで言う物というのは、この世界を構成しているすべての物を指します。川、海、山、空、大地、そういうものも物です。

あまりに言葉やかたちのないものばかりを重視すると、必然的に物を軽視するようになります。しかし、それではこの世界を愛することはできないということなのでしょう。

言葉は物事を一面的にしか表現できないわけですから、それを求めた結果得られる世界というものは、全体を欠く不完全なものになってしまいます。

それよりは、

「(物である)世界全体をあるがままに愛しなさい、私達自身も幻影(物)なのだから。」

ということを言いたいのではないかと思います。

言葉ではなく

こういった会話をいくらしても、友人のゴーヴィンダはやはり納得がいかないのかシッダールタに問いを続けます。

ゴーヴィンダは、言葉や思想としてよりどころになるものをシッダールタに教えて欲しいと願うのです。

しかし、シッダールタは言葉や思想を重んじるわけではありませんから、両者はすれ違い続けます。

最後にシッダールタは、「私の額に口づけしておくれ」とゴーヴィンダに言います。

ゴーヴィンダがシッダールタの額に口づけをすると、彼の目からは涙が流れ、すべてを理解します。

そして物語は終わります。

このシーンは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の有名な「大審問官」の場面(「彼」(イエス・キリスト)が、大審問官にキスをするところ)に似ていると思いました。


最後の最後は言葉ではないのでしょう。

この小説を読んでも、ヘッセ自身が持っていた知恵を私達が理解することはできないでしょう。なぜならそれは言葉だから。

でも、少しは近づくことができるかもしれません。それも言葉の力だと思います。

興味がある方は、ぜひ読んでみてください。

Thank you for reading !


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