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福沢諭吉をちゃんと知ってから新紙幣を迎えよう

ロッシーです。

新紙幣の発行開始により、一万円札のニューフェイスは渋沢栄一になりました。

それはそれでいいのですが、選手交代でベンチに引っ込む福沢諭吉のことを皆さんはどれだけ知っているでしょうか?

「あれ?あまり知らないな・・・。」

と思った人が多いのではないでしょうか?

もしもあなたが外国人と新紙幣の話になったとしましょう。

「What did Yukichi Fukuzawa do?」

と聞かれたらどう答えますか?

「Um…He is the author of a book called "Gakumon no Susume".」

くらいは言えたとしても、『学問のすすめ』の具体的内容は何か聞かれたらどう答えますか?

せいぜい、

「Well…It is said that heaven does not create people above other people, nor does it create people below other people.」

くらいではないでしょうか。


さて、福沢諭吉は『学問のすすめ』を書いた有名な作家だったから一万円札の顔になったのでしょうか?

違いますよね。

では、具体的に彼は日本にどのような功績を残したのでしょう?


福沢諭吉は40年間も一万円札の顔として頑張ってきました。それにもかかわらず、その人物をよく知らないままに

「あ、つぎは渋沢栄一なのね。」

では日本人としていかがなものかと思うのです。諭吉先生が浮かばれません!

今だからこそ、福沢諭吉についてきちんと学ぶ意義があると思います。

彼の本でおすすめなのは、以下の3冊です。

特に『学問のすすめ』『福翁自伝』は読んでいて非常に面白いのでおすすめです。ちなみに、慶應義塾大学に入学すると全員『福翁自伝』が渡されるとのこと。


彼の本を読む時間がない人のために、福沢諭吉が一体なにをした人なのか、以下ざっくりとまとめましたので読んでみてください!



福沢諭吉(1835年-1901年)は、日本の近代化に大きな影響を与えた思想家、教育者、著作家です。

彼の業績は多岐にわたりますが、やはり最も大きいのは西洋の知識と思想を日本に紹介&普及させ、日本の近代化と国際化に貢献したことでしょう。

当時は今と違って海外に行くことなんてできませんでした。時代は明治維新の前ですからね。では、なぜ福沢諭吉は海外に行くことができたのでしょうか?

それは彼がガチンコで一生懸命学問しまくったからです。

彼は幼少期から学問に興味を持ち、特に蘭学(オランダ語を通じて西洋の学問を学ぶ学問)を学びました。彼は大阪の適塾に入塾し、ここで寝る間も惜しんで勉学に励みました。きちんと布団で寝たことはなかったらしいです。

当時のことを彼はこう言っています。

およそ勉強ということについては、実にこの上にしようはないというほどに勉強していました。

ここまで言えるのは凄いですよね。

さて、適塾では緒方洪庵のもとで西洋医学や蘭学を学びましたが、その後横浜に来てみると、誰もオランダ語は使っておらず、英語を使っていました。何年もかけて勉強したスキルが陳腐化してしまったわけですね。ショックだったと思います。

普通ならここでやる気を失ってもおかしくありませんが、そこは福沢諭吉です。その後心機一転英語も勉強しまくり、マスターします。

その結果、紆余曲折あり1860年には幕府の使節団の一員としてアメリカに渡り、西洋の文明や社会制度を直接目にすることができたのです。この経験が彼の思想形成にものすごく大きなインパクトを与えたと思います。

見るもの聞くこと全てが異次元だったでしょう。そして「日本はこのままではいかん!」と思ったに違いありません。彼は帰国後に西洋の知識や思想を日本に紹介することに力を注ぐようになったのです。

彼は「西洋事情」「学問のすすめ」などの著作を通じて、西洋の知識や思想を日本に広めました。

「西洋事情」は、当時の幕府や薩長土肥の主要人物(西郷隆盛、徳川慶喜、坂本龍馬など)ほぼ全員読んでいたといいます。つまり、西洋列強の力をきちんと認識できていたわけです。もし「西洋事情」がなければ、各藩が井の中の蛙となり、国内で内乱を続けて日本は弱体化し、西洋列強に支配されていた可能性はありました。

また、「学問のすすめ」は皆知っていますよね。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という生まれの平等の理念や学問の重要性を訴えました。この書籍はバカ売れし、日本人の意識改革に大きな影響を与えました。いってみれば、福沢諭吉は現代でいうところのインフルエンサーだったわけです。

その後、彼は1868年に慶應義塾を創設しました。この学校は後に慶應義塾大学となり、日本の近代教育の礎を築く重要な役割を果たしました。ちなみに慶應義塾は、日本で初めて授業料を取るシステムを始めた先駆的な学校でした。そして、福沢諭吉は実学重視でしたので、慶應義塾の教育方針は、英語教育や科学技術教育に力を入れ、多くの優れた人材を育成し、日本の近代化を支えることとなったのです。それは現代でも変わっていません。

さらに、彼はジャーナリストとしても活動し、1882年に「時事新報」を創刊しました。この新聞は、国民に情報を提供し、啓蒙活動を行う重要な媒体となりました。彼は、自らの記事を通じて、政治、経済、社会問題についての意見を発表し、日本の公共の利益に貢献しました。もう本を書くだけではなく、新聞も作ってしまったわけですから、福沢諭吉のインフルエンサーとしての影響力はさらに増大していくわけです。

福沢諭吉が凄いのは、その活動が単なる知識の紹介にとどまらず、日本人の意識改革社会制度の改善にまで及んだということです。単に西洋の知識を輸入するだけの存在であれば、一万円札の顔になることはなかったでしょう。

つまり、福沢諭吉は日本の近代化の立役者だったのです。武力ではなく、「文」の力でそれを成し遂げた存在だからこそ、その業績は高く評価されているのです。

彼がいなければ、日本は封建的な社会から近代国家へと転換するタイミングがもっと遅くなっていたかもしれません。日本の近代化は遅れ、国際社会における地位向上も難しかったかもしれません。下手をすれば列強に支配されていたかもしれません。そう考えると彼の業績は、日本を近代国家へと導く上で不可欠なものだったと思います。

いかがでしたでしょうか。

もしもっと福沢諭吉について知りたい!と思った方は、ぜひ彼の本も読んでみてください。

彼の本は、今の私達が読んでも本当に分かりやすいです。非常にリーダーフレンドリーなんですよね。そういうところにも、彼の人柄があらわれているように思います。


福沢先生、長い間お疲れさまでした。

ありがとうございました。


学問をする人は、貴人となり、学問をせざる者は貧人となる。人たる身は平等にして、貴賤上下の差別あるは学ぶと学ばざるとに由るなり。
(学問をする人は高い地位に就き、学問をしない人は貧しいままである。人として生まれた者はみな平等であるが、身分の上下や貴賤の差は、学ぶか学ばないかによって生じるのである。)

福沢諭吉『学問のすすめ』


最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!

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