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毎日散文

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#散文

049「ク、ッキー」

049「ク、ッキー」

 姉の手は動き、クッキーを焼いてゆく。焼いてゆく。手は焼かれ、姉の手の動く、手のクッキー、ゆれる、黒いピアスの、重量の、しんしんと響き、やわらかく変形する耳朶を焼かれ、クッキー、ゆれる脂肪の結晶のやわらかな振動の愛すべきちいさな放物線、クッキーを焼いてゆく姉の手の健康的な、クッキー、ほろほろとくずれおちる姉の欠片、足元にちらばりながらそこここへ視線を泳がせ、顔のない幾人かの男を発見する。されたもの

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048「楽器飢餓」

048「楽器飢餓」

 座りつづけなければならないとき、ドラムセットは、ちいさくゆれるまま、音圧の巨大な岩石をかたちづくる。かとおもえば、少年の、釘のような指に、優しく抱かれたりもする。地中にある舞台で、そのようなことどもが、他愛なく、生殺与奪をおこなっていることを、心臓をもつ、誰もが、知りそめているはずなのだ。

 地下祭儀場に、ひとたまのすいかが置かれている。奇妙なほどの熱狂につつまれ、時計が狂っていることを、すい

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047「椚・第三密航者の証言」

047「椚・第三密航者の証言」

 傷のある椚を、老人とともに、見はる仕事をしながら、カツ丼の材料を、おもいだそうとしている。米、卵、豚肉、パン粉、麺つゆ、焼鳥のたれ、三つ葉、鰹節……鰹節のかわりに、昆布は使えるのだろうか……卵を使うなら、マヨネーズを使ってもいいはずだ……麺つゆは、ちょうど持っていないから、買ってこなければならない……そうだ、みりんと、油も必要……ああ、塩気を思い出して桃が食いたくなってくる……そうして、わたしは

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046「夢浮橋」

 おぞましい歩道橋の、崩れてゆく音の、まもなく、終焉となる頃に、3羽の鳩がおりたち、緑色のやわらかい歩道と混ざりあって、月の崩れてゆく音の、うつくしさが、死霊の山のかたちを抉りだし、

 それまで、歩道橋があった場所には、むかし、そこに歩道橋があったという空間だけが存在し、ひろびろと、部屋に病妻の待つ、冬の二度目の早朝をむかえる残業を終えた青年が、眠ったまま、歩道橋をわたるおりに、病妻の待つ、長距

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045「百科事典」

 その百科事典は、生涯に一度も学校へ通ったことのない、漁港の女たちによって、つくられたのだという。その百科事典は、物理学について、とてもくわしい。どこかで、売られるわけでもなく、海辺のひらたい石に、つめたく、置かれている。

 かたい繊維に、ウィスキーを、わずかに加えながら、世紀末の白い布が織られてゆく。その布に触れた人は、はっとして、これが何の感触か、自らの記憶をたどらざるをえない。誰もが感じた

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044「罠と森の家族」

044「罠と森の家族」

 祖母はウツボカズラに芋煮をつめている。割烹着のほつれも、酸で溶かされたようにみえる。無数のウツボカズラが、くらい食卓にならべられ、祖母の笑みが、空中に浮かんでいる。

 窓のない茅葺き屋根のしたで、焼酎ばかりが透明さをたもっている。すべて、森はかたむき、獰猛な獣らも、庭で、罠にかかり、次々に、分解されてゆく。
 総合商社のビルのなかで、姉はすずりにむかい、墨をすっている。姉は、指が欠けている。幼

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043「老科学者の命」

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 酒屋の看板が、昨日、盗まれた。なんのこともない、ひびわれた、唐松の看板で、すぐに、あたらしい看板が、以前とおなじ場所に、かかげられた。今日になっても、蚊とり線香は、命のように厳粛に減っている。もう三週間以上、曇りの天気が続いている。現像室から、五分ほど歩けば、噴水が見える。退屈に、怠惰に、まず、噴水のまわりを散歩する、という人は多い。ときどき、芸人がいたり、バザールがあったり、巨大な

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042「恋をする」

042「恋をする」

恋をする。
しなければならぬと感じて。
無差別に恋をする。
恋をするために、
恋を感じて、
差別は、
しなければならぬと感じて。

ゆるされざる相手が、
する恋は、
無差別に、
差別的と断じて、
ゆるされざる相手に、
自らが差別されるために、
うつくしい差別のために恋をするのだと感じて。
みだりに、
ゆるされざる恋の相手を差別的に断じなければならぬと感じて、
差別のうつくしいために、
みだりに、

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041「ティー・タイム・リバー」

041「ティー・タイム・リバー」

 雪国の排水溝のように敬虔な未亡人が、薬局のとなりの定食屋で納豆汁を食べている。イグサで編まれたテーブルクロスに、ガラスの湯呑がひとつ、置かれようとしている。納豆汁の中には、一匹の蠅が混じっているが、女が気づいているかどうかはわからない。

 石の匂いの雨がふる。

 頭痛がする。

 定食屋の鍵は、たやすく、はずされる。

 街の貨幣が不足している。雪遊びをする間もない。だが雪は刻々と量を増して

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040「氷鬼」

040「氷鬼」

 氷鬼は会話に一切の論理をみとめない。だから米を炊かせることもままならない。彼は、渓流下りの船頭として働いている。彼の漕ぐ舟は、いつも学生たちが願かけだといって、石や饅頭を、船上から、真西をねらって放りなげる。近ごろ、氷鬼は、知床の夢ばかり見る。ベランダに取りつけられていたアンテナが、いつの間にか折れている。休むことなく飛んでゆく鳩を、感心して眺めている。氷鬼の横腹には、いつからか、発疹があらわれ

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039「くらげ……」

カサゴの棘をひとつずつはがして、小さな籠にいれてゆく。液状化して、人の影まで消えてゆく。人という字を書きつづける。花が咲いている。花の枯れる音は騒がしい。走らなければならない。花さえも。指先に石のある影の形。言葉はつながらないままここにたまっている。便所の前の暗い空間。緑色のほかになにもなく、樫の樹は切りたおされてしまうだろうか……強くなりたい。脳は水のように電気を流している。ぼくはやめるべきだっ

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038「トワイライトエレファント」

038「トワイライトエレファント」

 つめたい保険屋の床に、一匹の象がいる。誰も象のことを話さず、象が邪魔なそぶりも見せない。象は、証書を一枚ずつ、長い鼻で器用に捕らえ、咀嚼している。雑居ビルの一室にある保険屋のことを、誰も気にかけないまま、壁にも床にも、ひびがはいっている。

 象の巨大な糞の記憶の中で、保険屋は別れた妻とともに流氷をみる。断層の真上にねそべる、造花の都市で、妻は、保険屋の鳩尾に鍵の束を投擲する。妻の部屋に、無数の

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037「模型屋」

 街のどこにも野球場がないので、わたしは野球場を見たことがない。だから、野球場を作れと言われても作れない。楽器屋や画廊なら、それが本当に楽器屋や画廊かどうかは別として、すくなくともかたちを完成させることはできるだろう。だが、依頼されてしまった以上、それを作らなければならない。

 玩具屋に対面するガードレールには、よく子どもらが座っている。足をぶらぶらさせたり、上体をのけぞらせたりしていて、運転席

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036「孔雀」

 飾り羽の、つらつらとひろがりゆく、純白ばかりの、一匹の孔雀を、わたしの乏しい友人たちは、全員、飼育している。無論、わたしも、白さのくすんだ、みすぼらしい一匹を、飼育している。

 孔雀が、純白であるがゆえに、友人たちは、その身を呈して、孔雀をまもることを、絶対の規律としている。模様のない孔雀は、じつは、きわめてありふれていて、どこにでも、生息している。だから、彼らの孔雀は、ごく、安価に、叩き売ら

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