043「老科学者の命」

   1

 酒屋の看板が、昨日、盗まれた。なんのこともない、ひびわれた、唐松の看板で、すぐに、あたらしい看板が、以前とおなじ場所に、かかげられた。今日になっても、蚊とり線香は、命のように厳粛に減っている。もう三週間以上、曇りの天気が続いている。現像室から、五分ほど歩けば、噴水が見える。退屈に、怠惰に、まず、噴水のまわりを散歩する、という人は多い。ときどき、芸人がいたり、バザールがあったり、巨大な猫があらわれたりする。猫は夜になると、噴水のまわりに集まってくる蜚蠊を、おどるように踏んでゆく。だから、猫は人々に愛されている。真の熱狂。人々が消えた夜の公園には、猫の糞が、ひとつかふたつ、残されて、瞬く間に、街は、早朝をむかえるのだ。
 一切の例外は、存在しない。

   2

 わたしは、酒が飲めない。酒屋へ行くためには、なつかしい、禿頭の先生に、誘われなければならない。わたしは、彼から、食べられる土の見わけかたを教わった。彼は、柳の枝を結んで、小さな船を作ることができる。遺伝性の難聴を、彼はかかえている。わたしは、多くの人とおなじように、そのことを知っている。しかし、よりしなやかな柳を探しながら、わたしは彼に、よく聞け、と言われる。

   3

 ウォッカで満たされた青い湯呑に、一本の鼻毛が浮かんでいる。航空機のように、上下にゆれている。彼だけが、明日の天気を知っているのだろう。孫がうまれた泥棒は、孫までも泥棒になってしまうのかどうか、不安を感じはじめている。不安がる泥棒たち……その不安が盗んでゆくものも、また多い……秋の月を見ずに、爪を噛んでいる……白色の涙……それでも、母の山はいまだに、鐘の音をごうごうと響かせる。

   4

 先生は、一言もいわずに、試験管から、味噌汁を飲んでいる。お椀のほうがよいのでは、と言いたいのだが、器も、飲むものも、それしかないのかもしれず、わたしも黙ったまま、試験管で、豆腐と玉葱の味噌汁を飲んでいる。

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