見出し画像

047「椚・第三密航者の証言」

 傷のある椚を、老人とともに、見はる仕事をしながら、カツ丼の材料を、おもいだそうとしている。米、卵、豚肉、パン粉、麺つゆ、焼鳥のたれ、三つ葉、鰹節……鰹節のかわりに、昆布は使えるのだろうか……卵を使うなら、マヨネーズを使ってもいいはずだ……麺つゆは、ちょうど持っていないから、買ってこなければならない……そうだ、みりんと、油も必要……ああ、塩気を思い出して桃が食いたくなってくる……そうして、わたしは、葬儀のことを忘れつづけている。


 昆虫学者の友人は、胡麻団子が好きだった。虫女と呼ばれた彼女は、ひどく歌が嫌いで、音楽の授業のある日は、いつもひとりで便所にこもり、見おぼえのない、落丁だらけの図鑑ばかり眺めていた。


 数年のうちに、その数は、大きく減ってしまったが、戸棚をつくることのできる女を、誰もが、探さなければならなくなっている。減っていると噂されるから、よけいにまた欲しくなるものなのだ。春のある街において、それは、原理であり、また、重税のように、忌まわしい。


 仕事の都合で、ながく、虫女に会っていなかったが、彼女は、いまもわたしに年賀状をくれる。その生涯を、孤独な配管工として過ごし、母性のように、言葉のある音を、憎んでいた虫女。いつか、うすぐらい壺のような酒屋で、戸棚女たちが、虫女のことを愉快そうに侮辱しあうのを、小耳にはさんだことがある。そういったことすべてにもかかわらず、わたしたちは、ただ、厳重に身をかくし、一本の椚を見はり、ふいに、女たちがあらわれるのを待ちつづける。


 彼女の、狭い、黄色くしおれた畳の部屋を、やがて、標本箱のかたちをした恋文が、悪意のままに、埋めつくすのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?