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コンプレックス・シリーズ

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コンプレックスのシリーズをまとめています! ノンフィクションの筆者の若い頃のハナシです!
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#お仕事小説部門

コンプレックス 29

コンプレックス 29

■コンプレックス 29

札幌の冬を見ないまま、涼しい夏だけを過ごして福岡に戻った。

子供達の喜びようは大変なものだった。

福岡に戻ってから、
地中海クラブのGMの話や、地方のホテルのGMの話などいくつかあったが、その話もどれもがうまく進まなかった。

ボクの出身地であり、ホテルマンのスタートを切った新潟の先輩にも声を掛けたみた。
随分久しぶりに連絡したわけであるが、先輩は
「○SGという非常

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コンプレックス 28

コンプレックス 28

■コンプレックス 28

しかし、ボクの方は簡単にはいかなかった。

まだKKRに籍がある時に「京都センチュリーホテル」の料飲支配人の話しがあり、面接に行ってきた。

京都センチュリーは、GMと総務部長がセゾン出身で、
ボクの今までの職歴をよく理解してもらう事が出来た。

面接のその場でGMより、
「うちの方はOKなので、あとはあなたがよく考えて判断してください。」と言われた。

考えに考えたが、

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コンプレックス 27

コンプレックス 27

■コンプレックス 27

私が採用になったのはオープンの1年2ヶ月前。

その2ヶ月後には予約センターをオープンする事になっていた。
そして、当然のように何の準備もされていなかった。

必死になって市場調査をした。
あらゆる商品を作り、そしてそのツールも作った。
ギリギリであったが、間に合った。

その時、力になってくれた西鉄エージェンシーのS石部長とK氏、彼等の協力無くしては、不可能なことであっ

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コンプレックス 26

コンプレックス 26

■コンプレックス 26

その後、ある方から富山県黒部市のホテルの総支配人をやってみないか!という話しが舞い込んだ。

小さいながらも年間5億位の売上のホテルであった。

金沢にいるときに何度か行った事のあるホテルであったし、
私の出身地の新潟にも近い、なんといっても総支配人は長年の夢!
話しはトントン拍子にまとまった。

しかし、そこで思い知ったのは富山の県民性の暗さと、
人材不足であった。

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コンプレックス 25

コンプレックス 25

■コンプレックス 25

赤坂のカナダ大使館の地下にシティークラブオブ東京というビジネスクラブがある。

友人がそこに勤務していた。
CCAインターナショナルが経営する外資系のビジネスクラブである。

日本には、大阪と東京の二カ所しか無かったが、その時神宮に新たなクラブ開業が決まっていた。
そこの料飲の責任者をさがしていたのだ。

ボクを面接したのは、
当時シティクラブの総支配人でアジア地区の責

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コンプレックス 24

コンプレックス 24

■コンプレックス24

金沢から広島へ転勤になった。

新広島空港の敷地内にオープンする広島エアポートホテルの料飲支配人としての異動で、
これは大きな栄転であった。

ボクは、かつての自分の部下を呼び寄せスタッフを固めた。

この時代、とても良い仕事をしたと、今でもとても懐かしく思う。

広島のオープンで、TV取材で何日もベッタリ追われたこともある。

常にカメラと音声の人が待機していて、私がどこ

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コンプレックス 23

コンプレックス 23

■コンプレックス 23

ボクが金沢に異動になるちょっと前くらだったと記憶しているが、
セゾンが世界に展開するホテルチェーンであるインターコンチネンタルを買収し、
大きな話題になった。

運良くボクは日本で初めて開催されたインターコンチネンタルホテルのトレーナー資格
の研修に参加させてもらうことが出来た。

これは1週間横浜Gインターコンチネンタルホテルに缶詰にされ、
講師は全て外国人で、全てのカ

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コンプレックス 22

コンプレックス 22

■コンプレックス 22

さて、ホテルスクールであるが…
2年目からは楽になるはずだった。

何故ならば、なんとか1年間教えてきたので、
多少膨らます必要は有っても、一から作る必要は無いからである。

しかし、そうは問屋が卸さなかった。

ある時GMに呼ばれ
「笹川、あんた英語はどのくらい喋れたっけ?」と聞かれ
「イヤー、全然に近いくらいダメですね!」と言うと
「まぁいいや、それは努力してもらうと

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コンプレックス 21

コンプレックス 21

ボクの方は、金沢で当初宴会のオペレーションを見ていたが、
もう退屈で退屈で、なんでこんなに退屈な現場を見てなきゃいけないのかなぁ・・・ 
なんて思っていたところに、西洋コンチネンタルホテルスクール金沢が開校する話しが持ち上がり、
ボクはそのスクールの料飲選任講師に抜擢された。

このホテルスクールは、従来に専門学校とは違い、ホテルの中にあるホテルスクールで
2週間のスクーリング(Off J.T.)

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コンプレックス 20

コンプレックス 20

■コンプレックス20

第三章 金沢、そして広島へ

セゾンがオペレーションのイニシアチブを握って運営していたホテルエドモントは、
いつの日からか、JRとセゾンの間に溝が出来たようだ。

一度、日本経済新聞に大きく『飯田橋のホテルエドモント累積赤字30数億!』
と大きな記事が載り、それから更に関係は悪くなったような気がする。

当時、西洋環境開発の取締役で、ホテルエドモントの非常勤の取締役をしてい

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コンプレックス 19

コンプレックス 19

■コンプレックス 19

この時代、結婚したばかりでもあったが二人でフルに働いていたので今までの人生の中で一番お金があったような気がする。
その日は、新宿歌舞伎町で呑んでいた。
メンバーは、ボクの先輩と後輩、ウチの奥さんのお店のスタッフの女性、そして我々夫婦の合計5名だったと思う。
妙な取り合わせだが、特に何か意味があったということでは無く、偶然派生した行きがかり的な展開だったと思う。
そうとしか

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コンプレックス 18

コンプレックス 18

■コンプレックス18

美空ひばりが東京ドームで復活コンサートを開催したのもこの時代である。
彼女が突然福岡済生会病院に入院したとき、日本中にこのニュースは大々的に放映された。
1987年4月のことで、コンサートツアー途中の出来事だったと記憶している。
病名は、両側大腿骨骨頭壊死、そして慢性肝炎・・・
いずれも治らない、不治の病気である。

当時はどういう病気であるか、一切報道されていなかった。

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コンプレックス 17

コンプレックス 17

■コンプレックス17

披露宴といえば、忘れられない話がある。

年に100組以上も披露宴を担当していれば、色んなことがある。
これは私が担当した披露宴では無いが、最初から新郎側の出席者が異常に少なく
どうしてなのか・・・と、思っていたら、実はそれは「結婚詐欺」で、披露宴当日 なんと新郎は来なかった。

勿論、新郎側の出席者はゼロ。

新郎がいない披露宴をスタートさせるわけにも行かず、「お開き」に

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コンプレックス 16

コンプレックス 16

■コンプレックス16

ボクはこの時代に、エレクトーンプレイヤーの井沢氏と出会った。

この彼との出会いは、その後の人生を大きく変える出会いであった。

当時ボクは結婚式へのこだわりも強く、一緒に仕事をした司会者やエレクトーン奏者、ピアノ奏者からは必ず事務所の名前と本人の名前を聞いて、力量がどの程度か記録していた。

あまりにもひどいレベルの方と組んだ場合には、どこがどのように良くなかったのかを予

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